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「ガイジン」について

 日本語を美しく感じることは殆どだ。「木漏れ日」、「一期一会」、「恋煩い」、「蝉しぐれ」、「おもてなし」、「侘び寂び」など、これらの言葉は日本独特の世界観を表現している。しかし、生活の中で時折、耳にして不快に思う言葉もある。その1つが、タイトルにもある「外人(がいじん)」という言葉だ。

 「ガイジン」という言い方を初めて知ったのは、留学生向けの日本文化の講義だった。その授業では、「外人」と「外国人」の違いについて学び、さらに、もしそのような差別的な表現に遭遇する場合の対処法についてディスカッションを行った。そのため、私にとって「ガイジン」という表現に対する第一印象は、「差別用語」だった。

 私の経験では、「ガイジン」という表現を耳にする機会は実際にはそれほど多くない。サークルや研究室、YouTubeや授業など、限られたシチュエーションでしか聞いたことはない。そして、多くの場合、使用者は意図せずにこの言葉を口にしているようにと感じる。ただ、たとえ悪意がなくても、私はこの言葉に違和感を覚えてしまったのが事実だ。そのため、何度もGoogleで検索をかけ、その定義を調べてきた。ここでは、コトバンクに載っている説明を紹介したいと思う:①外国人。特に、欧米人をいう。②仲間以外の人。他人。そして、補説では「①は、よそ者というニュアンスをもつようになったため、使う相手・状況に注意が必要な言葉。」と記されている。

 私の実体験でも、「ガイジン」は主に3つの意味で使われているように感じる。最も一般的なのは、単純に「外国人」と同義に使われる場合で、話者は恐らく無意識に使っていると考えられる。例えば、「コロナが明けてから、上野はガイジンが多くなっているね。」といった具合だ。また、「欧米人」という意味に絞って使用されることもある。「こういう文化は、ガイジンには慣れにくいところもあるよね。」といった例が挙げられる。上記の2種類の用法では、一瞬違和感が現れたとしても、すぐに差別の意図がないことが理解できる。一方、「丁寧に仕事ができないガイジン」といった表現に遭遇すると、話者の意図に関わらず、「よそ者」というニュアンスを感じ取ってしまうのだ。

 私が興味深いと感じたのは、この「ガイジン」現象は日本語に限らず、他の言語でも見られることだ。英語の授業では、外国人を意味する言葉として、まずforeignerを習うだろう。しかし、私が愛用しているMerriam-Webster辞典によると、「foreign」という語は、主に「外国の」(situated outside one's own country)という意味で使われる一方で、「異質な、関連性のない」(alien in character not connected or pertinent)という意味合いも持っている。そのような背景があるためか、海外一部ではforeignerという言葉にoutsider(部外者)というニュアンスが含まれているとして、使うべきではないと主張する声があるようだ。代わりとして、expat(特に移民)やinternational travelers(国際観光客)、あるいはその人の国籍で呼ぶ(例えば、台湾人だったらTaiwanese)という動きがあるとのことだ。

 また、台湾の状況はより日本の「ガイジン」事情に近いと言えると考えている。親の世代の人々は、中国語で外国人を「老外(ㄌㄠˇㄨㄞˋ)」と呼ぶことがある。白水社の中国語辞典によると、これは「外国人(特に欧米人を指し、戯れて言う場合)」という名詞だそうだ。「ガイジン」とは違って、「よそ者」というネガティブな意味合いはあまりないものの、決して推奨される言い方ではないことが理解できる。余談ですが、私の世代でこの「老外(ㄌㄠˇㄨㄞˋ)」という言葉を使う人は見たことがないので、既に死語になりつつあるかもしれない。個人的には、これは良い傾向だと思う。なぜなら、結局のところ、言葉はコミュニケーションの道具だ。相手を傷つけたり、排除したりするためではなく、つながるための手段のはずだと思う。

 留学生として日本で5年近く住んでいて、日本人になりたいわけではないが、「よそ者」と言われるとやはり落ち込んでしまう。私はちゃんとこの土地で暮らしているからだ。友だちから「ガイジンと言っている時は、君のことじゃないよ。」と言われても、気持ちは変わらない。欧米人の中にも、頑張って日本で生活しようと考えている人が大勢いるはずだから。そこは、私とは全く一緒だ。

 もちろん、これらは私の観察と意見に基づくもので、言語の使用と変化に対する見方は人それぞれ異なると分かっている。そもそも、「ガイジン」というテーマ―について書こうと思ったのは、批判するためではなく、ただ友だちと議論していて、「書いてみたら?」と勧められたのがきっかけだった。でも、これを文章にすることで、私たちがより意識的に言葉を選ぶようになれば、お互いを尊重し合える社会を築いていくことにつながると信じている。

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