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幕末の小倉を知る~育徳館の歴史から~

先日、福岡県みやこ町にある「育徳館中学・高校」PVの製作に関わりました。その際、生徒さんたちに話を伺ったのですが、皆さん地域に対する誇りを明確に持っていまして、ちょっと感激しました。改めて身が引き締まる思いでした。

これが歴史ある街の素晴らしさですよね。

幕末から明治初頭、小倉は戦争に負けた地だった

PV制作にあたって育徳館の歴史を学んだのですが、これが本当に幕末から明治にかけての小倉と関係が深いのです。

小倉藩の藩校であった思永館は小倉城自焼とともに焼失。小倉藩は香春へ落ち延び、その後、今の豊津地区へ。思永館は育徳館と改称し、明治3年育徳館は開校しました。福岡県で最も歴史のある学校と言われています。

小倉の歴史は住民のものになっていないのでは

北九州では何世代にも渡って一族で住んでいるという人は多くありません。明治以降に移住してきた人がほとんどかと。江戸末期の話を受け継ぐ家も少ないでしょう。だからこそ、北九州地方の歴史を復興させることには意味があると考えています。

撮影の背景

ちなみにPVですが、今回は3分と限られた時間だったので、深い歴史までは語れていませんが、自信作です。ぜひお時間ある際にご視聴ください。いいね、チャンネル登録などもよろしくお願いいたします。

ちなみに中学校バージョンもあります。こちらはフューチャースタジオの岡さんが主に作られました。小学生向けということで、かなりわかりやすくなっています。

どちらも、歴史の観点が欠かせない内容となっております。調べれば調べるほど面白くて、情報を削るのが大変でした。

歴史のエピソードから学ぶ

というわけで、今回調べた中から面白エピソードを3つ紹介します

1,坂本龍馬が小倉を砲撃。逃げる幕府軍。

1866年の幕府軍(小倉藩含む)による第2次長州征伐の際、田ノ浦で奇襲を受けた小倉軍は敗北。この時、装備に差があるとはいえ2万人の小倉軍は千人の長州軍に敗北しています。

高杉晋作率いる長州軍の上陸作戦を坂本龍馬の乗る軍艦「ユニオン号」が砲撃によってサポートしています。

負けた小倉藩は、「長州が攻めてくるだろうから藩を守るためには後方へ」ということで小倉城を焼き香春へと撤退。小倉の町は火の海になったそうです。この後、小倉はさびれたようですね。翌1867年に大政奉還となります。

小倉祇園の太鼓もこのとき下関に移送されています。それから太鼓は下関にあるままです。小倉の皆さんは、取られたままでいいんですかね。

2,豪商、行事飴家が救った、小倉の魂。

1869年に小倉藩は、今の豊津(錦原と呼ばれていた)へと庁舎を移しました。その際、前述のように、藩校だった思永館は育徳館へと名を変えるのですが、お金が無く学校が作れなかったようです。

そこで学校を作るために資金を出したのは、行事(行橋市)の「飴屋」です。飴家は小倉・小笠原藩の資金を支えた豪商です。明治の初めには、全国の長者番付百選にも選ばれて気を吐いていますね。藩札という、今でいう地域通貨を発行することもできました。

教育こそが人の礎であるということで、育徳館を設立するために七千両(今なら五、六億円程度か)を寄付しました。同時期に一万両を藩に寄付したりもしています。その後の飴家は少しずつ力を弱めています。藩が厳しい中、自らの会社の儲けだけではなく、次世代に投資をしたと言えるのではないでしょうか。

現代において、もしもの危機が起こったとして、このような動きができる企業が北九州にどれだけあるでしょうか。北九州のトップ企業と言えば安川電機さんでしょうか。確かに安川財閥の創始者である安川敬一郎氏の北九州への貢献は大きいですよね。

3,引き継がれていく錦陵魂とは

育徳館高校の講堂には「錦陵魂」という書が飾られています。今回PV制作にあたって、私たちを悩ませたのはこの言葉でした。

生徒たちも「自分たちは錦陵魂だ」と言うし、文献にも多く記載があるのですが、この言葉がどこから始まったのかわからない。しかし「錦の陵」ですよ。歴代天皇の御陵といってもおかしくない地名ですよね。

錦陵魂スクショ_1.1.2

昭和13年に、台ケ原(錦陵と呼ばれる場所)の本格的な開墾作業が始まりました。校長先生自らが先頭に立って開墾作業を行った記述があります。赤土で農地には適さなかった土地を、茶畑として開墾しているのですが、大変な苦労があったようです。

そのような、逆境の中でも前向きに立ち向かう姿勢が錦陵魂で、そのような精神が、私らしく、考え、行動する、「知・徳・体」という育徳ビジョンに反映されています。

いくとくビジョン_1.1.1

しかし、明治時代後期の校歌にも錦陵魂という言葉がありました。しかし、言い出した人の記述はどこにもありません。

そこで私は考えました。(ここからは私の妄想みたいなものですし、PVには反映されていません。)

みやこ町と行橋の境目にあるホトギ山(御所ヶ岳)に、御所ヶ谷神籠石という遺跡があります。「御所ヶ谷」という地名は、九州を訪れた景行天皇(12代)がこの地に行宮を設けたとの言い伝えによります。景行天皇は我らがヤマトタケルの父だとされています。

そこで、景行天皇が熊襲を征伐する際に旗を立てたのが、この台地だったのではないかと考えたわけです。天皇が立てる旗と言えば錦のイメージですよね。記紀万葉家の福永晋三先生によると、景行天皇の文脈で金原という記述がありそれが錦原だったのではないかという話もあります。

稲が良く実る金の原、それを見渡す台地の上。そして国を守るために熊襲と戦う。そういった瞬間の想いは、まさに「逆境の中でも前向きに立ち向かう姿勢が錦陵魂」だと思った次第です。これは、今まさに私たちが学び、繋いでいく必要がある姿勢なのではないでしょうか。

結論

といったように、少し紐解くだけで地域の歴史は面白いエピソードが満載です。また、今を生きる私たちが、歴史から学ぶことも多いと思います。

地方が活力を取り戻すためには、若い世代が地域の魅力を再発見することが重要です。地域の歴史を知らずして、地域に誇りを持つことはできません。今回伺ったみやこ町は、強い誇りを皆さん持たれていました。

自らが住む地域の歴史を大人が知らずに、次の世代が地域に誇りを持つことはありません。北九州でも歴史を復興させる必要があると思っています。

そのような意図を持って、私は北九州の古代史を学んでいます。面白いですよ。

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