価値とは何か

 現代哲学ではあまり価値について議論していないようだけど、それはニーチェが価値転倒ということで徹底的に考察したもんだから、もうそれ以上の議論は不要ということなのかもしれない。
 そこでニーチェの価値観について概観してみると、要するに神のような所与としての最高価値(最高善)は無であって、価値とは力への意志によって措定されたものだという。だから旧来の価値を転倒して新たな価値を創造することができるわけだ。
 で、力への意志とは自分を超出しようとする意志なんだな。保守的な意志は力ではない。力への意志とは、超出である自己へ自己が回帰することでもある。だから力への意志は永遠回帰になるのだ。
 ハイデガーはそのようにニーチェを解釈して、それは結局のところデカルトに始まる近代的主観による世界支配の徹底化であって、形而上学の完成に過ぎないと批判している。
 だがそれは力への意志を人間に限定した解釈であって、サルトル批判としては有効かもしれないが、ニーチェに対しては成り立たないだろう。力への意志は人間に限定されるものではない。それはスピノザのコナトゥスと同じことだ。
 私見では宗教が昔のような力を喪失した現代においては、もはや無神論か有神論かという議論はあまり意味がない。それは絶対的価値を認めるか否かという問題に置き換わったのだ。
 つまり絶対的価値を認めるならば、その生き方は有神論と同じになる。逆に価値の相対性しか認めないならば無神論と同じだ。
 こうした観点から見ると、ニーチェは確かにキリスト教を毛嫌いしていたようだが、力への意志の教説は神学的意味があるように思われる。
 なぜならキリスト教のように絶対的価値を所与のものとするか、あるいはニーチェのように力への意志によって措定するかはどちらでも構わないからだ。聖体拝受によってイエスを自己に受入れることは、自己を神に向けて超出することでもある。それは力への意志ではないだろうか?
 信仰に依存して自己維持に安住することは真の信仰ではない。信仰を糧として「神学大全」のような巨大な作品を創造すること、言い換えれば従来の自己を超出することが真の信仰なのだ。なぜなら絶対的価値は理性を含めた自然本性を肯定し完成へ向けて発展させるものであって、否定し破壊するものではないからだ。
 肯定とは絶対的価値の肯定でない限り、真の肯定とはいえないだろう。相対的価値については部分的否定が伴うからだ。ゆえにニーチェが生を肯定しているのであれば、それは生が絶対的価値ということでもある。自己の生において神性を見いだそうとするキリスト教と何ら異なるものではない。来世は生の復活であって生からの逃避ではない。それを永遠の自己超克とみるならば永遠回帰でもある。

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