私のペルソナの形成(少年期編②)

次の日から家庭での猛勉強が始まった。猛勉強といっても、父と一緒に毎朝5時から1時間の予習、日曜日は午前10時から3時間の復習であったが。そんな程度でも勉強大嫌いな11歳の子供には、十分に“猛勉強”であった。病気のせいかそれまで過保護気味に育てられていた私はむろん抵抗もした。しかし担任が訪問した折のこと、そして泣く母の姿も未だ脳裏に新しかった私は、最終的には納得して机に向かうようになっていった。この父との勉強が、様々な意味でその後の私の人生にとてつもなく大きく影響し、40年以上経った後にコロナ禍をきっかけとしての自戒にもつながることとなっていった。

猛勉強の甲斐なく、1学期の通知表はオール「もうひといき」。評価は三段階。科目ごとに「よい」「ふつう」「もうひといき」のどれかに〇がつけられる。一番右の欄に上から下まで丸が一直線に並んだ。清々しささえ感じた。やはり入院していた3年間のブランクは大きかった。

しかし異変は2学期におきた。算数の評価だけが「よい」になった。あとは1学期と同じ一直線。このときの算数の成績は生涯忘れられない。退院後に最も遅れを感じた科目が算数であったため、父は算数に一番力を入れた。それが実っての結果であった。「努力は報われる」そんな言葉も知らない小5の少年は、努力をすれば報われるということを感覚で理解した。

つづく

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