見出し画像

【中田氏、松本氏、対立しているのは狭義と広義の「芸人観」】元芸人で元議員が対立構造を考察

中田敦彦氏が「松本人志氏への提言」と題し、
自身のYouTubeでダウンタウン松本人志氏について語った動画が
話題を呼んでいる。

私自身お笑い芸人として約10年活動したし、
オリエンタルラジオのデビューと同じ年に私もデビューをしている。

私も「お笑い芸人」として活動していた中で、
中田氏と同じ様な違和感を持っていたことを改めて感じたし、

また、「お笑い芸人」として活動を辞めてから、
これまで信じていた価値観の狭義性から目を覚ました瞬間もあった。

今回の、「松本人志氏への提言」では論点が非常に多くあるが、
ざっくばらんに私の考えを述べる。

結論としては、
「芸人(げいにん)」の
捉え方の違いが、
誤解を生んでいるということ。

「芸人」という意味を深めるか、
広げるかの違いといってもいい。

松本氏が深める作業をしていることに対し、
中田氏は広げたいと望んでいる。

まず、中田敦彦氏のいう「芸人」は、
生き方や、存在としての「芸人」であること。
広義としての「芸人」である。
これは世界的にみても、こちらの認識が多い。

「広義としての芸人」とは、

人間のアーキタイプの中の一つで、「トリックスター」や「ジョーカー」といった、常識を破壊する者。または、社会のタブーをひっくり返す者である。
これは時に、
強い権力や暴力的な政治圧力などに屈しない強さがあり、
その最たるモノが「笑い飛ばす」ということ、
どんなに肉体的に、精神的に圧力を加えようとも、
「笑う」という行為で、抵抗する。

それを体現し、
社会のゲームチェンジを引き受ける役割が、芸人である。


そこから歴史が進むに連れて、
この「笑う」という行為が、
大道芸人やサーカスショーなど、
大衆娯楽として市民権を得て、
芸人とは「人を楽しませるという者」に名詞限定が進んできた。

アメリカなど海外では、このジョーカーとしての芸人の在り方は健在で、
ホワイトハウスでは、大統領の就任後のパーティーでは、
敢えて芸人(スタンダップコメディアン)が招待されて、
大統領をこき下ろす様なトークをするという文化があるそう。

一方、日本においてはこの芸人という存在が「狭義」な存在になっている。

それが、松本人志氏が筆頭として、日本のテレビ業界が作り上げてきた「狭義としての芸人」である。

それは、テレビの台頭と共に、吉本興業が中心となって「お笑い芸人」という存在に、
さらに定義付けをし、価値観を作りあげてきた。

日本人の美意識にある、専門性や職人気質と合致し、
「愚直に笑いを作りあげる者」
そしてその「お笑い」というツールは、
テレビとの相性が良いもので発展してきた。

「芸人という職人」なのだ。

中田敦彦氏が「松本さん、ネタへの介入は辞めてくれますか。価値観が松本さんの基準になってしまいます」
という様な発言をした。

このネタへの介入は、メリットデメリットがあって、

メリットとしては、「面白い」ということを言語化していくことによって、
「お笑い」という方法論が民主化されていったこと。
要はこの競技のルール説明になっていること。

デメリットは、
お笑いの価値が定義され続ける毎に、ファールやアウト(滑ったや、ベタすぎる、シュールすぎるなど)が生まれ、多様性が損なわれることにある。

「狭義的な芸人」がテレビの発展と同時に、成熟していったのだ。

そして、この狭義的な芸人観を、テレビの中で、吉本興業がリーダシップをとり続け、
芸人とはこうあるべき!
という定義付けや専門性が、
強烈に日本に根ざしてきた。

これに、
一つ重大な損失があるとすれば、

「広義的な芸人観を…

ここから先は

747字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?