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ハワイ王朝の王様たち。

ハワイはかつてひとつの王国だった。カメハメハ1世(大王)がハワイ諸島を統一宣言した1795年からアメリカの白人によるクーデターで王朝が転覆した1893年まで、わずか98年の王国だったが8人の王様が存在した。
カメハメハの血を引き継いだ5人の王様、その後選挙によって選ばれた3人の王様。わずか100年足らずの間に制度も文化も、言葉さえも変化を余儀なくされ翻弄させられた時代。簡単ではあるがそれぞれの王様の足跡をたどってみたい。

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カメハメハ1世(在位期間1795~1819)
カメハメハ1世は身長約2m、武術、知力ともに抜群で、まさにカリスマでした。若干15歳で「持ち上げた者は天下を制する」と言われた巨石「ナハ・ストーン」を持ち上げたという伝説もあります。英語も堪能だったため、外交術にも秀でており、体力・知力だけでなく、人心掌握術にも長けた人物でした。それまで各島のチーフによって治められていたハワイ諸島を統一し、王朝を樹立した人物です。
彼の足跡についてはまた別の機会に詳しく解説します。

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カメハメハ2世(在位期間1819~1824)
カメハメハ1世と高貴な身分のケオプラニの間の長男、リホリホ。大王の死後は大王の愛妻の一人であったカアフマヌがクヒナ・ヌイ(摂政)として実権を握っていました。1820年にキリスト教の宣教師団が来航し、カアフマヌ自身も改宗したため、カプが廃止され、キリスト教が広まり、それまでの古代ハワイの慣習が捨てられていった時代でした。2世は外交訪問中のロンドンで麻疹にかかり、急死しました。

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カメハメハ3世(在位期間1825~1854)
幼名はカウイケアオウリ。2世の急死後、10歳で即位しましたが、当初、実権はカアフマヌが握っていました。カアフマヌの死後1832年、政治制度の改革を行いました。憲法発布や教育制度の確立など、近代国家として着実に地固めしていった時代でした。しかし彼のブレーンにはハワイアンではなく、多くの白人が要職に就いていたため、次第に白人の文化が色濃くなっていきました。ハワイアンのモットーになっている “Ua mau ke ea o ka aina i ka pono”=「大地の生命は正義によって保たれる」という言葉は、今でも残されています。

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カメハメハ4世(在位期間1854~1863)
大王の孫の1人、アレキサンダー・リホリホ。アメリカ系白人に警戒を抱き、親英家として英国国教会をハワイに招き入れ、エマ王妃とともに入信。外国の文化の流入とともに、それまでハワイにはなかった病気なども蔓延し始めたため、ハワイアンの人口が激減し、深刻な問題になった時代です。自らの愛息もわずか4歳で病気のため亡くしてしまいました。

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カメハメハ5世(在位期間1863~1872)
4世の兄で、幼名はロト。3世以降、政治の実権を握っていたのが白人中心だったため、王権が弱体していました。弱体化した王権を強化しようと憲法を廃止し、ハワイアンのためのハワイを築こうと新憲法を発布しました。次の王権はパウアヒに託しましたが、彼女には家庭があるということで即位を断られ、生涯独身で跡継ぎのないまま42歳で他界したため、血族によるハワイ王朝は断絶してしまいました。

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ビショップ・ミュージアム
カメハメハ王族最後の直系子孫のバーニス・パウアヒ王女の夫であるチャールズ・ビショップ氏が彼女の死を追悼し1889年に建てられました。
ハワイ文化の宝飾品はもちろんのこと、ポリネシア文化圏の宝飾品が多数展示されています。ハワイの文化、ポリネシアの文化を知る上で、重要な地位を占めるハワイ州最大の博物館です。

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ルナリロ王(1873~1874)
カメハメハ5世が後継者を指名することなく、彼の血を引き継いだものもなくこの世を去ったため、王朝の王位は大酋長の家系から選挙によって選出することになりました。選ばれたのは、カメハメハ大王の異母兄弟にあたるカライママフの孫、ウィリアム・チャールズ・ルナリロでした。しかし身体の弱かったルナリロは在位わずか一年足らずで肺結核にかかってしまい、この世を去りました。
ルナリロは王でありながら、常に公平・公正で、誰に対しても平等に耳を傾けた人物で「人民の王」と親しまれました。ルナリロの亡骸は人民の中にいたいとの遺志により、王族の霊廟ではなくイオラニ宮殿近くのカワイアハオ教会に眠っています。

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カラカウア王(1874~1891)
ルナリロ王も、カメハメハ5世と同じように後継者を選ばずに他界してしまったため、王国司法部は再度選挙により国王を選出することとなりました。王の候補として挙がったのが、デビッド・カラカウアと、カメハメハ4世の妻だったエマ王妃でした。勝利したのは、デビッド・カラカウアでしたが、この選挙は最も汚い選挙と言われ、エマ王妃派が暴動を起こすという混乱した一幕も見られました。
とはいえ、カラカウア王はメリー・モナークと称され、1881年、世界で初めて世界一周をした王として有名です。「太平洋連合構想」という独自のアイデアを掲げ、日本に訪れた最初の国王としても知られています。官約移民の要請をしたり、時の明治天皇に直接謁見し、姪のリリウオカラニ王女と山階宮親王の結婚を提案したりしています。
帰国後はハワイのナショナリズム復興のために、王家に口承で伝わっていた創世神話『クムリポ』の編纂し一般に公開、禁止されていたフラの復活、カフナの復権など、古代のハワイ文化を守る一方、西洋文化や海外で見つけた新しいものを取り入れ、イオラニ宮殿を建築するなど革新的な人物でした。
政治的には親米家で、1875年の条約でアメリカとの間の関税が撤廃され、サトウキビをはじめとするプランテーション産業が隆盛を極めますが、ハワイをアメリカの属国にしたいと希望するアメリカの勢力はいっそう強くなり、晩年には議会はアメリカ人により牛耳られるようになってしまいました。

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リリウオカラニ女王(1891~1893)
カラカウア王の死後、後継者として指名を受けていたリリウオカラニが王位に就きます。アメリカ人の勢力が強くなった議会に反発し、ハワイの王権を取り戻すべく新憲法を発布施行しますが、アメリカ人実業家たちの反発を食らい、イオラニ宮殿に幽閉されることになります。これによりリリウオカラニの王権は事実上なくなり、ハワイ王朝は終止符を打つことになりました。
幽閉されたリリウオカラニは議会の許可を得てワシントンへ渡米。『ハワイ女王の手によるハワイの物語』を出版し、王権の正当性を訴えました。さらに先代の王であり、兄であるカラカウアが編纂した創世神話『クムリポ』を英訳し、世界にその名を知らしめました。母国ハワイを慕う心情を歌った『アロハ・オエ』を作詞するなど、才女であった彼女は最期までハワイを愛し続け、ハワイ文化の貢献に大きな一石を投じました。

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イオラニ宮殿
1882年、カラカウア王により建築され、彼の死後リリウオカラニ女王が1893年に退位させられるまで暮らしていた公邸。当時はイギリスのバッキンガム宮殿にさえなかった電話設備があり、巨額の税を投入して建築したアメリカ合衆国で唯一の宮殿。

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わずか98年の王国を率いた王様たち。このわずか100年足らずの王国の最大の敵はおそらく西洋人がもたらした疫病だろう。島国だったハワイは外からもたらされた病原菌に弱く、国が弱体化していき移民を受け入れなければいけなかった背景は免疫を持たなかったハワイアンの人口激減によるものだ。
そもそもジェームス・クックというひとりの英国人が実に絶妙なタイミングでこの島を発見しなければ病が蔓延することもなかったのかも知れない。

しかし世の中のすべての出来事は「起こるべくして起こる」のだ。
たられば、の話をしても意味はない。事実は事実。ハワイという国の運命は初めから決まったいたのだ。それを受け入れ、今のようなハワイに発展していったハワイの歴史は興味深く、また学ぶところも大きい。
ハワイの歴史は膨大な量なのでまた機会を改めてお伝えしたいが、時代が大きく変わる今、改めてこの島の歴史に学ぶべきところがあるのではないだろうか、と思う。
渦中にいると全体が見えず、翻弄されてしまうことが多いが、未来の視点、全体像がわかった視点から眺めてみると、起こるべくして起こったのだ、と合点がいくようにできている。
未来は必ず良くなる。その思いで今をワクワクしながら過ごすことは、いつの時代にも大切な心の在り方なのではないだろうか。

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