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自分を見つめるとは?

自分を見つめるという言葉はいろんなところで聞くし、今の時代は自分探しをしている人もすごく多い。
何のために自分を見つめるのか?
それは本当の自分で過ごしていけば自分の人生をスムーズに快適に過ごせると思っているからだろうし、何も偽っていない自分で過ごすことは単純に楽だからだろう。
しかし自分を見つめる作業というのは口で言うほど簡単ではない。そもそも「見つめる」ってどういうこと?というように「見つめる」という言葉に囚われて雲をつかむような感覚になったことはないだろうか?
今に生きる人たちの多くは感じるよりも考えることが当たり前になってしまっていて、自分の心を感じてごらんと言われた途端に、頭で「感じよう」と考えてしまう。
自分を見つめるということも、「見つめよう」と考えてしまうから、結局は左脳の領域を出ることができない。

見つめるということは、その対象の外側にいないと見つめられない。例えば目の前にあるコーヒーカップを見つめてごらん、と言われれば簡単だ。あなたはコーヒーカップではないから、そのコーヒーカップの外側にいる。だから簡単にコーヒーカップを見つめることができる。
では自分を見つめることってどうかと言うと、それは実は至極困難で訓練が必要なのだ。
わたしも自分を見つめると言う言葉を他者に使うし、自分でも見つめてみようと思って過去に何度も挑戦してきた。その度に「はて?見つめるって…?」というジレンマに苛まれてきた。

自分を見つめるには自分を外側から見る自分、俯瞰する自分を設定し続けないといけない。
自分の人生を客観的に、まるで映画を観るように、人生を客観視する自分のポジションに意識して意識を持っていかないといけない。
あるいはたとえ不快でも(最初は必ず不快感が伴うのだ)いつもの行動の外側に出て何かやってみるしかない。小さくても大きくても挑戦を繰り返すしかない。
その時に感じる微細な心の感覚を丁寧に味わうこと。快なのか不快なのかを感じる。頭で考えたら不快だと勝手に信じ込んでいることも、実際やってみたら、それほどでもないな、ということもある。

自分を見つめるには、あれが問題だ!これが問題だ!と騒ぎ立て、それがまるで本当の自分のように振る舞っている偽物の自分=エゴを、その外側の視点から、ハイハイ今日も相変わらず元気ねー、と子どものように見つめてあげること。決してその騒いでいるエゴに主導権を渡してはいけない。それこそ問題だらけの沼にハマるだけ。

そもそも本当のあなたはいびつにできている。どこかがとんがっていてどこかが凹んでいる。
とんがっているところが個性だしあなたが強い部分。しかし同時に生まれて最初に傷つけられている部分。親から、あなたのそこがダメなのよ!と叱られたところ。
あまりにとんがっているために親が手に負えずに平均化しようとしてしまったところ。本当は強みなのにダメなところなんだ、と思い込んでしまったところなのだ。
自分で自分を再インストールし直すこと。本当の自分というOSを入れ直すには、自分を俯瞰しつつ、自分でダメ出しをしてしまった自分の強みを思い出すこと。
自分の五感はどんな感覚が好きなのか、自分がアガる感覚を改めて分析してみるのもいいだろう。
・観るものはどんなものが好きなのか?
・どんな香りが好きなのか?
・どんな音が心地よく感じるのか?
・どんな肌触りが好きなのか?
・どんな味が好きなのか?
気分がいいということは本来のあなただから、あなたが気分よくなる感覚を改めて感じてみることも自分を見つめる大事な作業だろう。

周りの目に合わせるのではなく、自分が揺るがない軸を確固たるものにしていくこと。
そうすることで、いつの間にか自分を見つめるまでもなく、いつもリラックスして平和で穏やかな自分がそこにいるはずだ。

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