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ライティングマラソンに参加してみた

大前みどりさんの「ライティングマラソン」に参加した。
以前から興味を持っていたのだけど、タイミングを逃していた。7月(誕生月)に参加できたのは、天からのプレゼントだと思う。

ライティングマラソンの具体的な方法などは、みどりさんの記事で紹介されているので、リンクを貼らせていただきます。

最も印象に残ったのは、「時間さえとれれば(それがたった10分であっても)書けるじゃないか」ということだった。当たり前のことだし、現に学生には「8分で自己PRを書いてみて」などと無茶ぶりをしているくせに、本当に、すっかり棚上げしていたなと反省する。

時間はあるはずなのに、日頃書けていない理由は2つある。
1つは「目的を伴う書くこと」で手一杯だからだ。わたしは毎日「書く」ことに追われている。メールやLINEの返信、学生のレポートや新入社員の報告書へのコメント、卒業生へのメール、日記、書きたい手紙もたまっている。仕事の連絡以外は自分がやりたくてやっていることなのだけど、「思うように消化できていない事実」が、うっすらとした義務感を生んでいる。書くことへの義務感が、「書きたいことを書く時間」すら遠ざけていたのかもしれない。
2つ目は「自由に書きたいことを書く喜び」をちょっと忘れていたからだ。今回のライティングマラソンは、その喜びをからだと心でたっぷり感じるような2.5時間だった。この喜びを忘れないように、書く時間をとろうと思う。

「書く喜び」というのは、自分が自分のからだを使って自分について表現できている満足感だと、今は思う。外に出たがっていた言葉を、解放できた満足感。
終わってから他の参加者の方の書いたものを再読させてもらうと、新しい風景や「今」を切り取ったような場面が文章としてあらわされているのに対して、自分自身は古い記憶やイメージの出どころとなっている思い出を文章にしているなと気付いた。まだまだ出たがっている記憶や思い出が自分のなかに眠っているような感覚もある。マラソンの中でみどりさんが「自分の書くいつもの文体から離れてみる」ことにチャレンジされていたが、私も記憶・思い出ではないものを書くことにチャレンジしたい。でも今はまだ、出たがっているものをあらわしたい感覚が強い。気が済むまで、やってみることにしよう。

ライティングマラソン(10分・20分・30分)で書いた文章も、ここに残しておこう。

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1.忍耐(10分)
子どもの頃に「好きなことわざは何か」というのを共有することがあって、「継続は力なり」をいつも自分のことわざとして伝えていた。なぜこのことわざを大切にしていたのか。

ひとつは、おじいちゃんの影響だったと思う。思えば私塾を開いていた彼からは(私が小学2年生の頃に亡くなったので、それほど長く関わったわけではなかったのに)相当に影響を受けた。中でも覚えているのは、お盆だかお正月だかに親戚で集まったときに、おじいちゃんを囲んでお話を聴く時間のことだ。「人間の毛はサルよりも3本多い」とか「仲良きことは美しき哉」という武者小路実篤の言葉を教えてもらった。「人間の毛は~」というのは、たぶん、人間はサルに多少毛が生えた程度のものであるとか、その3本が知性を表していて、知性をなくしたらサルと同じ、というような意味だったと思う。「仲良きことは~」の方は、今でも自分の指針となる言葉として心にある感じがする。どういうことなのか、何度も繰り返し言葉を見て解釈して、当時よりも自分の中で具体的な言葉になってきた気がしているけれど。
「継続は力なり」もおじいちゃんの話の中で出てきたのではなかったか。積み重ねること。小さなことでも積み上げて研鑽することが自分を成長させる。

もうひとつ、ピアノを習っていたことも大切にする理由だった。ピアノは小学校1年から高校2年まで続けていて、自分が「継続は力なり」を実地で味わう経験だった。怠けない方だったと思うけれど、それでも気乗りしないときは何度もあった。しかし「もうやめる?」と母に聞かれたら(なかば意地になっていた部分もあったが)「やめない」と言って続けてきた。ピアノを習い続けたことが、今の自分の基礎をつくっているのは間違いない。
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2.開拓(20分)
子どもの頃に好きだった本に「大草原の小さな家」という物語があった。NHKでテレビドラマもやっていて、それを見たのが初めだったと思う。図書館で1冊目を読んで、好きで読んでいるのを見たからか、母が5冊セットで買ってきてくれたのが嬉しかったのを覚えている。今でも、箱に入った5冊を「自分のもの」として手にしたときの幸福感と「いいんですか…?」という感動の手触りが感じられるくらい。ローラ・インガルスの子ども時代を描いているこの物語は、同時に当時のアメリカの開拓民のくらしを教えてくれる物語でもある。イナゴの大群が押し寄せてきて何日も家から出られないとか、両親が畑を守ろうとするが甲斐なく移住をやむなくする場面は、夢に見るほどのビジュアルで迫ってくるようだった…それでも何度も繰り返し読んだ場面だった。行く手を阻む深い川をローラたちの乗った馬車で渡るために、お父さんが水に入って馬を励ましながら命がけで渡るシーンもあった。先住民のインディアンと交流する場面とか。誰もいない土地に入っていく恐ろしさと、土地を拓いていく、その場所が自分たちの新たな居場所になることの高揚感。それまでの道のりがあって初めて、次のチャレンジがある。

書くことが自分を開拓していくことだと分かってきた、と先々週、Kくんがレポートで書いてくれたときの嬉しさは、今年トップ3に入る喜びだと思う。「このレポートを、ただやっつけで書いていてももったいないと思った」「やそさんの考えもいっぱい聞きたいから、自分も考えたことを遠慮なく書くことにする」「そうやってお互いの考えをやり取りすることで、今まで分かってなかったことが分かってくる」…というようなことが書いてあった。文章を書くこと・レポートは、私がずっと魅力に感じていて、人生に欠かせない大切なものだと勝手に思ってやっているのだけど、その理由を、教えてもらった気がした。書くことと開拓することは通じている。インガルス一家が未開の地に挑んでいくときのように、後には戻れない・進むしかないという感覚や、とにかく一歩(1文字)でも書けば次が見えてくる感覚が似ている。
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3.柔軟性(30分)
自分は柔軟な方だと思っていて、転職するときに強みを「適応力」と紹介していた時期もあった。でもよくよく考えると、新しい環境に入ったときはいつもつまづくことから始まっている。研修で何度かモチベーションウエイブを書いてみて、落ちている時期はなじめなかったり変化に適応できていない時期だった。
家族から「頑固」と言われることもずっと以前からあった。自分の考えを曲げない、やり方にこだわる。親・きょうだいだけでなく、今の旦那さんにも言われるから、きっとそうなんだと思う。頑固。

なのに、なぜ柔軟な方だと思って今まで生きてきたんだろう。いつ柔軟だったときがあっただろう。

大学を卒業して入社した最初の会社では、名刺に「〇〇No.1」と書かないといけないきまりがあった。その名刺に「しなやかさNo.1」と書いていたから、当時から柔軟だという自覚があったんだろう。つまり、学生時代に「私は柔軟だ」という考えを獲得したことになる。

料理を通じて柔軟だと考えるようになったのかもしれない。大学3年になって、料理のアルバイトを始めた。家ではほとんど料理をすることはなく、母からも「苦労するよ」と言われるほどだったが、大学でできた数少ない友人のひとりがキッチンのバイトをしていて、彼女の影響だった。彼女は、はっきり言って要領が悪く、私が「やそ」で彼女が「やましま」だから一緒のグループになることが多く、彼女のヌケモレをフォローすることも多かった。そんな彼女がキッチンのアルバイトをしていて、その店にひやかしで食事しに行ったときにコック服を着ているのが、ものすごく眩しくかっこよく見えた。
キッチンのアルバイトを始めて分かったのは、割とうまくできる、ということだった。いくつものオーダーを消化していかないといけないので、同時平行で複数の料理を進めていく。お客さんに出す料理だから、一定のレベルというか品質以上でないと出せないわけだけれど、いつも全部100点満点のものを出せるわけではない。でも、不満にさせるほどのレベルにはしない。塩梅をつかんで、スピードとのバランスをとる。
そんな中で、アルバイトのくせに残業して翌日の仕込みをしておいたり、よりよい出来にするために家でも練習したりしていた。…このあたりは頑固さの片鱗か。

社会人になってからも、一人暮らしを始めたことと家に人が来ることが多かったので、料理は続けていた。「やそりえは料理がうまい」と言われて、なにかしらアレンジ・工夫しようと考えるようになった。自分好みの味や風味がはっきりしてきて、「この食材はこうやって料理するのが好き」というのが決まってくるけれど、そうではない美味しさに出会うと「ああ思い込みだったかも」とやり方を変えてみるようになる。
先週、バーでお客さんが思いがけなく来たときも柔軟性を発揮していたと思う。雨だったので「誰も来ないだろう」と悠々と構えていたら4人も来て、驚いた。突き出し用のおかずが足りなくなりそうだったけど、他のメニューの食材をまわして少し手を加えて、なんとかなった。

「なんとかする」ということが私の柔軟性なのかもしれない。それなら、仕事でもそうしてきた。パーフェクトな仕上がりが望めないときも、ボツにならない程度のレベルで切り抜ける。はじめでつまづくのは塩梅がつかめるまでは苦労する、ということなのかな。

今日このライティングマラソンで、「これから自分が本当にしたいこと」を考えようと思っていたけれど、そこには至らぬまま終わっていこうとしている。いや、そうでもないかもしれない。書くことへの純粋な好きという気持ちや、自由に書くことの喜びや解放感、とにかく手が動く満足感みたいなものを感じることができた。これはヒントになりそうだ。
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次のライティングマラソンは来月なので、それまで自分で時間を決めて書いてみようと思う。

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