スポーツは不要不急なのか
この記事は2020年4月、新型コロナウィルスの猛威を最も受け、スポーツ業界全体が自粛せざるを得なかった当時に書いたものです。
この時の想いは今も変わらないですし、忘れてはいけないと思っています。
(↑ 2022年2月追記部分)
Ⅰ:答えはYes
20年間スポーツを仕事にしていますが、決して自惚れたりはしません。
芸術やリゾートと同じように、いざ災害や社会的困難に見舞われた時、スポーツは真っ先に生活から除外されます。
命を左右する局面において、ファンやユーザーが「ライブに行こう」「美術館に行こう」「野球の試合を見にいこう」とはならないのです。
もちろん「自分はそうではない」「命をかけてでも行く」というコアファンもいるとは思いますが、基本的には社会的に豊かな生活を保障されている人に求められるのが我々の仕事です。
生命や衣食住レベルの身の危険に脅かされた時、お金を払ってまで必要とされることは無いのが現実でしょう。
Ⅱ:でも娯楽とは呼ばせない
では、スポーツは娯楽か?
余裕のある人間の趣味や遊びなのか?
人に感動を与えたり、ストレスを発散したりするエンターテイメントとしての価値しかないのか?
いや、そんなことはないはずです。
体育も音楽も、子供の教育として長年世界中で必要とされています。
身体や感性を育てることは、人が人としてあるために、豊かな社会を構築する上で欠かせないものとして認識されてきたはずです。
では、今回の新型コロナウイルスのような災難に巻き込まれた時、最初に犠牲になってしまうのは何故なのか?
Ⅲ:スポーツは命を守るものではなく育むもの
あくまで個人的な考えではありますが、これはもう生命と健康の違いと同じなのだという答えに行きつきました。
「生きること」と「健康であること」は、不自由の無い生活をしていると同意語ですが、一度身の危険を感じると、生きることが圧倒的に自我を支配し、健康であることに意識が及ばなくなるのでしょう。
よく、パニック系の映画で目にしますよね?
生死の狭間を彷徨い生き抜いた登場人物たちが、焚火を囲みながら失った仲間への想いや未来への不安に誰も言葉を発することができない時。一人が口ずさんだ歌に、希望や安心感を感じてしまうシーン。
そう。
人間は「生きること」を乗り越えると「健康的でありたい」と思うのです。
ここで言う健康的とは、「安心・安全」「成長・学び」「喜び・楽しみ」「繋がり・団結」「子孫繁栄・継承」などのことです。
生命の危険を回避し、生きる(衣食住含む)ことと向き合える環境ができると、自然と心身の健康を求めるようになるんです。
そういう意味で、芸術やスポーツ(音楽や運動)というのは、太古の昔から「人間の豊かで健康的な生活」を支えてきたはずなんです。
Ⅳ:必ず再び求められる
スポーツは、既に我々人間の「人間らしい生活」に不可欠なものになっています。
心身の健康・社会教育・子供の発育・地域コミニティの手段・・・
人が生きていく上で、「生きるだけ」では満足できなくなった時に、必ず求められます。
だから、生き延びよう。
それは命のことだけを言っているのではありません。
その知識と文化と情熱を失わないように、我々関係者は意地でもこの業界を潰したりはしない。
そして今こそ、競業相手と力を合わせ、接する機会の無かった別業界からヒントをもらい、気合と根性という今までどおりのやり方を貫くのではなく、「新たなスポーツ業界の姿」を模索するための分岐点なのだと。
そう覚悟を決めて生き延びましょう。
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