ガチ から ゴス へ②様式美について ピエロ編

画像1

この写真は、Quasimodo(カシモド)というプロレスラーなのだが、これを見つけた時も襲撃を受けた。160cmでどんなレスリングをするのだろうか?

カシモドは、ヴィクトル・ユーゴー の小説・『 ノートルダム・ド・パリ 』( Notre-Dame de Paris )邦題『ノートルダムのせむし男』に出てくるキャラクター に扮している。

ただ「怪奇レスラー」と検索したら、この写真が出てきた。「カシモド」で検索すると、検索結果に出てくる他の写真の「カシモド」は、ああ扮して、演じているんだね、といった具合だが、この写真は格別だ。

なぜプロレスに怪奇という要素が入ってきたのだろうか。予想するに、プロレスは興業だから、サーカスや見世物小屋と親和性がある。だから、怪奇レスラーが呼び物になる。

画像2

なぜ、みんな、特にキッズは怪奇が好きなのか?

この絵のタッチ。オドロオドロしくて、マガマガしい。60年代~70年代のテレビアニメ、例えば、デビルマン、妖怪人間ベム、タイガーマスクのトーン・アンド・マナーはことごとく江戸川乱歩のジャケットと同質のものがあった。

それにしても、ピエロはなぜに響いてくるのだろう。

Wikipediaからの引用 道化師の歴史

道化師の歴史は古代エジプトまで遡ることができる。西洋においては、古代ギリシャ・古代ローマでは物まねや軽口、大食芸などで座を楽しませることで裕福な家の晩餐に与る道化がいた[1]。ローマ帝国の裕福な家では、魔除けとして、小人症の者や知的障害者、奇形の者などを奴隷として傍に置く習慣があり、これらを「愚者」としてペット感覚で所有する貴族趣味は、16世紀末まで続いた[1]。中世のヨーロッパなどでは、王族や貴族などの特権階級が城内に道化としての従者を雇っていたことが確認されており、「宮廷道化師」と呼ばれている。その数は14世紀より徐々に増加して15-16世紀に最高潮に達し、中世の英国においては、宗教界・俗界問わず大物は道化を所有しており、居酒屋や女郎屋でも所有した[1]。宮廷道化師達の肖像は犬と一緒に描かれることが多く、彼らが犬と同様に王の持ち物とされていたことを裏付けている。シェイクスピアの戯曲などにもしばしば登場し、重要な役を担う。日本では明治時代に初めて曲芸を行った。

ノートルダムのせむし男と道化師のルーツは同じで、古代エジプトにさかのぼる。人の意識の中には、これまで生きてきた人類の過去の知識をすべて保持されているという話がある。集合的無意識というのだろうか。現代人であったとしても、意識の深い古層にピエロは響いてくるのだろう。

さらに引用して、ジョーカー、クラウン、ピエロの違いは、

ジョーカー
詳細は「ジョーカー (トランプ)」を参照
トランプでよく登場するジョーカーはジャック、クィーン、キングが宮廷の王族を意味する絵柄から関連して宮廷道化師が描かれることが多い。
クラウン
現在では曲芸と曲芸の間を埋めて、観客の曲芸への余韻を冷めさせない役目として作られたおどけ役の、曲芸もでき司会(日本的な視点では客いじりも行う)もする役者である。18世紀頃イギリスのサーカス(厳密にはその前身である円形の劇場での曲馬ショー)の中で「おどけ役」を演じていた役者が自らのことを「クラウン」と名乗ったのが始まりだとされている。クラウンの意味にはのろま、ばか、おどけ者、おどける、ふざける、田舎ものなどの意味を含む。18世紀当時は曲馬ショーと曲馬ショーとの間に曲馬乗りを下手に演じたり、パロディをしたりしていた。
ピエロ
クラウン自体はおどけ役だがその中でも馬鹿にされる人と言われる。つまりクラウンよりもさらに馬鹿にされる芸風(日本的な視点ではツッコミが無いボケ役)を行う[要出典]。クラウンとピエロの細かい違いはメイクに涙マークが付くとピエロになる。涙のマークは馬鹿にされながら観客を笑わせているがそこには悲しみを持つという意味を表現したものであるとされる[要出典]。またピエロはフランスの喜劇芝居の中に登場する事が多い[要出典]。

道化恐怖症という病名があるそうだ。ピエロに扮したシリアルキラーもいる

映画「ジョーカー」も本来の意味でのピエロの「悲しさ」を強調していたんだと思う。悲しみが増幅して閾値を超えた様子だったと思う。そして、理屈を超えて深いところに迫ってくるものがったからこそ、大ヒットしたのだと思う。格差社会とかの社会の分断という時代を反映した映画だということだろうが、それよりももっと「深い」ところに「効いて」いたのだと思う。

画像3

画像4

ジョーカーが誕生するまでの物語で、基調は悲しさだったホアキン・フェニックスの「ジョーカー」だが、続編の噂もあるというが、無理がある。バットマンと因縁の対決を繰り広げる歴代のジョーカーと同じように、「ジョーカー」をやるには、ギャップがありすぎる。逆に歴代のジョーカーには、「悲しさ」というピエロ性の要素がなかったから、DCコミックスの延長線上の「枠組み」の中で名演技をできたのだろう。

画像5

悲しみを背負ったままのジョーカーで二作目が出来たらすごいが。

画像6

80年代後半から90年代にかけて、少年たちに大いに訴求しえていた怪奇がだんだん廃れていったと思う。なにがあったのだろうか?を探求していく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?