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編集者が日本語運用能力を失うとどうなるか

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その能力を、僕は失くした。

何を失ったのか

昨年あたりから予兆はあった。

公私問わず、もらった連絡が頭に入ってこなくなった。LINEの瞬発力には定評があった自分が気づけばボトルネックになることが増えた。
読む書籍の数も極端に減ったが、これは学生時代が異常だったし、仕事で文章アホほど読んでるし、ということで気にしていなかった。

ある時期から、異変が起きる。

文章を目で追っても、内容が理解できない。単語も、それをつなげた句、節、文も、意味が脳に入ってこない。文章を読むとすぐに激しい頭痛に襲われる。

ディスレクシア(発達性読み書き障害)に似た症状だが、発育期からそうだったわけではない。頭にモヤがかかり思考力が低下するブレインフォグという症状が新型コロナウイルス感染症の後遺症にあるが、過去の感染歴を調べる抗体検査では陰性だった。いまだに何が原因かはわかっていない(心因性のなにかだろうとは言われている)。


僕は、ウェブと紙媒体で文章の編集者をしていた。直近は別の職種を名乗っているけれど、社会人としてのアイデンティティは「編集」に託しているし、それで収入を得てきた。

これは症状とは関係なく、どう言い表していいかわからない、ただただ混乱と呆然と絶望が含まれた感覚があった。

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Photo by Frindo Kveiks from Flickr under CC BY-NC2.0


何が起きたのか

長い文章を主軸にした仕事が、ほとんどできなくなった。

それどころか、人とのコミュニケーションすら満足にできない。一番ひどい時期には口頭での会話もままならなくなり、連絡をしないままに穴を空けた仕事もある。まだ個別に連絡できていない方もおり、先にこの文章をお目に入れるのは無礼かとも思うが、まずはこの場をもってその方々に心からお詫びしたい。

言い訳めくけれど、本当に呆然としていた。商売道具がまるっと消失してしまったのだ。自分がその道で超一流とは思わないけれど、プロではあった。たとえるなら、J2レギュラーのサッカー選手がある日とつぜん両足を失ったような感覚なのかもしれない。

そうでなくても、上に書いたような「人との連絡が滞る」などの例を挙げるまでもなく、識字や認識は人の生存や労働におけるごく基本的な能力だ。バグが起こると業務を抜きにしてもあらゆることに困る。武器を取り上げられたばかりか、社会性も最低クラスまで落ち込んだ自分に対する戸惑いと絶望は言い尽くせないものがあった。

助かったのは、ソーシャルメディア、いわゆる「140字の仕事」だ。1万字や3000字は相手にできなくとも、140字なら、なんとかギリギリ絞り出すことができる。脳は悲鳴をあげるが、こっちも食い扶持を稼がなければならない。「やれることが何もない」状況を回避できたのは、かなりの救いになった。

ただその140字の仕事も最終的には手放してしまう。きっかけはある近しい人の死だった。その人のせいで悪影響を受けた、と映るのは故人の名誉のためにも避けたいが、事実として、大きすぎる喪失に耐えられる状態ではなかった。


誰にも何も言えずに倒れた。


30を過ぎて、独りで、ベッドに臥したままシーリングライトを眺めることしかできない日々が、1日また1日と積み重なっていく。どうにかなりそうだった。どうにかなる気力もなかった。

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Photo by Kevin McShane from Flickr under CC BY-NC2.0

何をしているのか

結論から言えば、劇的な回復は見せていない。

前述のとおり、何が原因でこうなったのかも良くわからないので、根本的な対処はできないので、付き合っていくしかない。

必要最低限の仕事をしながら(それがあるだけありがたい)、ほとんど仕事しかしていなかった20代後半の少ない貯金を食い潰しつつ生きている。


少し動けるようになってからは、まずは限界を迎えるまで文章を目で追うという荒療治をやってみたりしている。力んでいれば新しい脚も生えてくるだろう、というような、往年のピッコロやセルみたいな単純でバカな考えかただけれど、僕には結局これしかないのでやっている。

効果はなくはなかったのかもしれない。当時ゼロに限りなく近づいた読み書きの能力も、読みのほうはある程度戻ってきた。過去の自分から理解のスピードにも深度にも離れはあるけれども、35%ぐらいまでは戻ってきた感覚がある。100まで戻るかは…考えないようにしている。

書きのほうはまだ全然ダメダメだ。体感はベスト比3%ぐらい。この文章をつづることも自分なりに考えたリハビリのひとつだが、ライティングの仕事はもうできないかもしれないな、と感じているところ。


没交渉になり心配したり怒ったりしているはずの知人友人の皆さんにも、ほとんど返事ができていない。人と話せるようになったら真っ先にとるべき連絡も、自分の状態をうまく説明する自信がなくて、まずはこうして状況を整理する文章を書いてみた。

何を得たのか

これだけでは三十路男性の弱音といいわけとメンヘラ日記になってしまいコンテンツとしての価値が皆無なので、デジタルを主戦場とする編集者の意地として、ひとつだけそれっぽいことを書いておく。

それは、世の中は言語中心主義的に回っている、ということ。

「言語中心主義」という言葉には、哲学において緻密で難解な議論の積み重ねがあって、それはそれで興味深いのだけれど(僕は学生時代哲学専攻だった)(不真面目だったけど)、今の僕の脳みそではそっちの話はできないのでここでは立ち入らない。

言いたいのは、世の中のあらゆる事象が言葉を中心に回っていて、それに対応できないとむっちゃ困る、ということだ。

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Photo by nofrills from Flickr under CC BY-NC2.0

文字にすると当たり前すぎるのだが、考えてみてほしい。欠勤の連絡も、ワクチン接種の手続きも、政治家への投票も、すべて言語を介して行われる。その言語がままならない人間は、あらゆる生存の過程から脱落していく。

日本人の1/3が実は日本語を読めないという議論もあるけれど、自分自身が日本語マッタクワカリマセン状態になって、その不便さ、キツさに目を開かされた。どんなに高尚で良質な議論が美しい言葉で述べられていても、それが長文である時点で「わからない」「煩わしい」「ムカつく」ものに見えてくる。お高くとまりやがって、と。自分自身がそういうコンテンツを生み出すことを誇りにしていたのに。


別の角度からも考えてみよう。

デジタルコンテンツ業界では5~10年前ほどから、非テキストのコンテンツ、音声や動画に対する注目度が高まってきた。数年前まで毎年のように "動画元年" が叫ばれてきたし、ポッドキャストなどへの期待も大きい。それ自体は悪いことではないのだが、注意しておきたいのは、これらのコンテンツは非テキストでありながらも「『言語依存』であること」からは脱却できていない印象を受けることだ。


YouTuberの動画サムネイルを見れば、いかに文字情報を読ませるかに注力しているし、質の高い動画作成の大きな部分を「どのように字幕を入れるか」が占めている。

TwitterやInstagramにおけるバズコンテンツも、一時停止や保存、ピンチアウトによる拡大を前提にして「じっくり読ませる」ものが話題をさらっている。

ポッドキャストも、現在人気を博しているのは雑誌やラジオを母体とした(あるいは模倣した)言語リテラシーの高いコンテンツだ。では、田舎のヤンキーがApple MusicやSpotifyでポッドキャストを聴いているか? スケーラビリティという観点では、そこが大きな問題になりうる。


もちろん、音楽や映画など、言葉が中心とならない表現もあるけれど、真の意味で "非言語" を意識して作られたものはまだまだ多くない。威勢よく音声だ動画だと叫ぶその言葉が、豊穣な言語を前提にしていないか、コンテンツをつくる人々は何度でも振り返る必要があるはずだ。


どん底から

つらつらと偉そうなことを述べてきたけれど、上に書いてきたことは試論に過ぎないし、上のような理解に基づいてなにか行動が起こせているわけでもない。

ただ、日本語運用能力を一度失った僕が、言語を中心に回る世界の外側、周縁にある非言語の世界に対する内在的な理解、言い換えれば「言葉が理解できない」ことに対する焦燥感や絶望感が、目下のところ武器にできる唯一のものではないかと思っている。

かつては(質は別にして)日に2万字を書いた僕が、この4000字の元になる文章を書き始めたのは9ヶ月前。言葉の世界から離れることを説きながら、こうして文章でそれを表明することしかできないのも含め、ここが、僕の現在地だ。色々あるけれど、またここから始めるしかない。

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坪井遥
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