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最果て(夏×無人島)

夢の狭間に聞こえる物音で目が覚めた。
「ごめん、起こしちゃった」
「あぁ、いいよ」
カナコはブラジャーをつけているところだった。
「お前って、上からつけるのな」
「え?うーん、どうだろう。普段は下からかも」
「なんで?」
「わかんない」
夏の朝陽は目にしみる。
しっかりカナコを捉えるまで少し時間がかかった。
カナコは窓の扉をレース越しに開けた。
朝の8時だというのに昼間のように騒々しい。
夏休みのラジオ体操帰りの子ども達が公園で遊ぶ音、終わり無く鳴き続ける蝉の鳴き声、電車が走る音、どこかの部屋で洗濯機を回す音。
蒸し器の中にいるような湿気が外へ逃げていく。
シーツに染み込んだ汗が風に冷やされて少し気分が悪くなった。
「帰るのか?」
「うん、もう少ししたらね」
カナコは下を履き、ベッドに腰を掛けた。
トオルは背中に冷たさを感じながらも未だに仰向けのままだ。
「凄い汗ね」
胸に浮かぶ水滴を結ぶように指でなぞった。
気持ち悪いかったが、何も言わなかった。
「来週の頭からサークルのみんなで無人島行くの」
「無人島?」
「そう、無人島」
端の方で丸まっていた下着に手を伸ばし仰向けのまま履いた。
「何人で?」
カナコの隣に座り直した。
「多分、10人ぐらい」
「そっか」
「興味ないの?」
不満そうにこちらを見た。
「いや、ない事はないよ。ただ、少し心配だっただけだ」
そっか、と呟き脚を伸ばしてパタパタとさせた。
背は高くないが、すらりとした脚はそれ以上に長く感じさせた。
つま先まで神経が行き届いていて、10枚の爪に塗られた紅いペディキュアは蝶を連想させた。
ゆらゆらと揺らめく紅はトオルをどこか遠くへ誘うような、そうな艶かしさがあった。
「ねぇ、聞いてるの?」
「あぁ、すまん、何だった」
「もう、だから、もし無人島にトオルと二人だけだったらどうするって」
「そりゃするだろ、セックス」
カナコは短くため息をついて、馬鹿じゃないの、と呟いた。
普段考えもしない事を唐突に聞かれると、心にも無い事を言って誤魔化したくなる。
正解か不正解か相手にとって充分か不充分か意味のない不安に駆られる時のそれと同じような心情だ。

カナコとは大学の新歓で出逢った。
鴨川デルタで執り行われたそれに俺も参加していた。
学部も趣味も違っていたが、話せば他人には湧かない親近感が満たされるのが分かった。
後に聞いた時、彼女も俺と同じような事を言っていた。
しばらくメールや電話のやりとりをして落ち着いた頃、会って食事をし、セックスをした。
初めてでは無かったが、どこか大人びた彼女を目の前にすると異様に緊張し情けない有様だった。
が、彼女はそんな俺を優しく包み込んでくれた。
大学ではそれぞれの生活を尊重し会う事も無かった。
会うのは決まって俺の部屋だった。
昨日もそうだった。
彼女の家には行った事がなかった。
誘われる事もなかったし、別に行きたいとも思わなかった。
彼女にどうして欲しいか聞かれた事がなかったからというのもあるが、何か琴線にふれる様な事なのかも知れないと自重していたからだ。
彼女はあまり自分の事を話さない女だった。
これくらいの歳の女は自分の事だけを聞いて欲しい様な会話の流れを作ってしまうものだが、彼女にはそういった素振りを見なかった。
だから俺も深く詮索をしなかったし、今を生きる彼女がすべて、それでよかった。
ただ、一度だけ、彼女の発した言葉に胸を締め付けられた。
「私はいつも一人」
やはりそこでも俺は適当に誤魔化さざるを得なかった。
彼女と男女の関係になって一年の年月が経っていた。
特に告白もしなければ、されもせず、彼女が俺の部屋に来るようになってから当たり前のような関係が築かれていた。
カナコが口にした『無人島』の一言はトオルにとって一つの区切りの様に感じられた。

「日本の季節には春・夏・秋・冬があるだろ。その中でいつが好きだ?」
「春かな」
「どうして?」
「暖かくて、花の香りが何よりも優先的に鼻腔をくすぐって、淑やかで、時には力強く雨が降って、草花に着いた水滴がキラキラしてて、あぁ生きてるなぁって思えるからかな」
「物凄く具体的だな」
「でしょ?トオルはどうなの?」
聞いてきた目にはいつにも増して答えを求める力強さが湛えていた。
「俺は夏。すべてが活発で、草花に昆虫や動物が生活の音を立てて生きてる。何もしなくても汗をかくし、その分風も感じられる。焼ける様に鋭い陽光がより影を黒々と浮かび上がらせて、あぁ生きてるなぁって思えるからかな」
「物凄く具体的だね」
「そうだろ」
カナコは声を上げて笑った。
トオルもその姿が嬉しくて笑った。
「夏の無人島に二人きりだったらどうする?」
カナコの目に籠る力強さが戻っていた。
何か試されているのだろうか、とトオルは感じた。
今まで彼女の事をほとんど聞いてこなかったが、知りたいとは思っていた。
この一見無意味な問答の中に彼女の事を知る何かがあるのならば、とトオルは思った。
「全てを共有した上で生きる」
「どういうこと?」
「その島には俺とお前だけだ。他には誰一人として存在していない。二人だけの世界。ただでさえ厳しい夏だ。この世界で俺は生について問答を繰り返す事になると思う。今までの人生の事、家族の事、友達の事、これからのこと。生きている意味をお前と探す。ただ、生きているだけではなく、これからの事も、そして今までの事も知っておきたい。生き抜く為には相手の全てを知っておかなければ、いずれお互いを潰し合う事になってしまうだろうから」
「そう」
カナコは立ち上がり椅子に掛けてあったジーンズに手を伸ばし履いた。
シャツの袖に腕を通してボタンを一つ一つ止めてゆく。
「お前はどうなんだ?」
「そうね。帰って来てから教えて上げる。実際に行ってみないと分からないからね」
少し下を出しておどけて見せた。
狡猾な女だ。
「お前はそうやっていつも、、、」
トオルの言葉を遮ってカナコが続けた。
「いつも俺の事だけ聞き出してって?ごめんね。だけど、あなたとはこれからもやっていけそうだと感じたわ。ありがとう。私にとってこの部屋は無人島なの。
わかる?心の最果てでいつも待っててくれている。置き去りになんてしないわ。だから待ってて」
カナコはそう言って部屋を出て行った。
その後ろ姿はいつにも増して大人びていた。
紅いペディキュアの残像が白い壁紙に残っていた。
汗が染み込んだシーツは未だに冷たく湿っていて、子ども達の声も蝉の鳴き声も、洗濯機の音も鳴り続けている。
この部屋に残されたトオルは一人で問答を繰り返していた。
無人島、無人島、無人島、、、
深く息を吐いてトオルはベッドに仰向けに寝た。
シーツの冷たさとペディキュアの残像がトオルの記憶に擦り込まれた。

2018/05/22


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