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AV女優という表現者

世の中にはさまざまな表現者がいる。
音楽家、画家、作家、建築家、政治家、俳優、芸術に限らず人間は生命を日々削りながら何かを表現し続けている。
例えそれが形にならないからといって表現に不足が生じることは無い。
人と人が向き合うだけで何かを感じ取ることができるように、私たちは常に何かを表現し、あるいは情報を模索している。

AV女優はセックスの表現者だが、彼女たちは基本的に一般社会から淘汰された存在であるように思う。
セックスは人間の根底に築かれたマイノリティであるから、どんな人間でもそれを大々的に表現するには常に羞恥心が障壁となる。
そもそも一対一の表現を不特定多数に表現する意味が一般的ではない。
普通の家族の下、普通に生活し、普通に学校に通い、普通に働く、普通に誰かを愛し、普通に生きて、普通に死ぬ。
その家庭に多少の起伏は存在するだろうが、AV女優を選択する道はそうそう見つけることができない。
例えば、莫大な金が必要だった場合、身体を完全な資源として費やすことは一番完結的であるが、そこには様々な困難があるだろう。
単純に肉体的な困難さ、精神の崩壊など、非日常を日常に置き換えるストレスは人間性に語りかけるものがある。

今回、私がなぜAV女優の表現について記しているかというと、それは誰もが理解している隠匿された普遍性が完全に先行した世界だったからである。
己の肉体の元より発せられる表現と精神の交雑における表現。
人間のプライバシーを表現することは非常に難しい。
どう考えても倫理が付きまとうし、閉塞的になってしまう。
しかし、その倫理が存在しない世界を創造することで、押さえ込まれたプライバシーは暴発してゆく。
倫理はプライバシーの施錠のようなもので、どうしても現実ではそれを解除することはできない。
例えば、未成年相手の猥褻、痴漢、盗撮、強姦など、どれも完全な犯罪である。
それを表現できるのだから、やはりAVは一種の芸術なのだろう。

AV女優になる人間は幼少期から性的接触が多いと聞くことがある。
父親の部屋にAVがあったり、親のセックスを目撃したり、離婚後に母親が連れてきた男に暴力を受けたりと様々だが、やはり幼少期に受けた傷はなかなか癒えることがない。
大人になっても当時の記憶がフラッシュバックするから、暗闇で寝ることができなかったり、自分でも気付かないうちに相手に防壁を張っていたりする。
一般社会に馴染めない何かが生まれたとき、この業界は常に扉を開いている。
すべて肯定的なわけではない。
むしろ、彼女たちのことは考えても良く分からないことが多いし、理解できないことの方が多い。
だから、このように考えている。

生命の閃きを感じたことはないだろうか。

幼少期、私は車の下敷きになったことがある。
学校が終わり友達の家に向かう道中だった。
道を横切ろうとしたところ、車に轢かれた。
次の瞬間には車とアスファルトの隙間にいた。
足が自転車に挟まって身動きが取れなかった。
運転者は小学生を轢いてしまったことに動揺をし、車体を前後させ何とか私を下敷きの状態から解放しようと試みたが上手くいかなかった。
隣のガソリンスタンドで知り合いのおばさんが働いていて、僕を助けてくれた。
私はわけも分からず泣いていたが、かすり傷程度で大きな外傷はなかった。
自転車は車輪がひしゃげて乗り物としての機能を失っていた。

たった一人で生命を認識することは意外と難しい。
他人がいることで自分を認識できるように、この場合自転車が私に生命を閃かせたのであった。

精神的閉塞は生命を枯渇させてゆく。
その打開としての肉体の衝突であるとしたら、それはある意味成功していると言える。
一個人が不特定多数に対して何かを語りかけることは簡単なことではない。
生命の閃きと同じくして他人に語りかける表現者としての大成は立派なことではないだろうか。
人間のプライバシーの表現は倫理的にこれからも社会的に台頭することはないかもしれないが、一方で鬱蒼とした精神の解放は自らを正へ転じるだけではなく、不特定多数に対して生を改めさせる機会となっているのであれば、それは表現者なのである。

以前、メディアにも出演している有名なAV女優を見る機会があった。
たかが、AV女優だと頭ごなしに否定するには余りにも無知蒙昧であった。
彼女には男性のみならず女性のファンも数多く存在していたのだった。
彼女とその女性たちとの関係をみていると、私は何も分かっていないのだと痛感するのであった。

自分自身で表現することは他人に対して語りかけることが全てではない。
表現することで助かるのは一番に自分自身だということを忘れてはいけない。
その結果として相手が表現者の生き様に共感して何かを受け取る。
この関係性を築けているAV女優は誰が何と言おうと表現者なのである。

また、人間を完全に理解することができないように、ある表現を完全に理解することはできない。
完全に理解することは表現者を関節的に抹殺することになる。
表現する者が人間である以上、この道はどこまでも続いて行く。

2018/06/10 前衛的表現者である彼女を想い

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