当たり前を書き残すしかねえ!

 

 ちょっと悲しい話をします!






 同じ家に住んでいても好きな食べ物を知らないことがある。物心ついたそのときから住んでいたひとほど、そういう「盲点」がある。

 それがあることが悪いってわけじゃないけど、その人とお別れした後に、見えなかったところが急に惜しく思えることがある。もったいなく思えることもある。後ろめたく思えることもある。

 流しに置かれた茶碗に残るごはん粒、と言うとあまりに卑近かもしれない。しかしかなり似ている。ひとを食べ物にたとえるな、というのはもっともなことだとして。

 要は今日、ある人とお別れをしたわけなんだが、僕のなかでその「盲点」がずっとちらついていて、悲しい。もしかしたら、その人とお別れをしたことよりも悲しいかもしれないのが、とても悲しい。

 この人と家族であることに満足して、この人の中身を覗いてこなかったのは他ならぬ僕である。家族であるというのは、この人とわかり合っているということではない。家族のまま、わからないこともあるし、家族でなくともわかることもある。

 このような当たり前のことを、このように文字にしてたびたび目につくようにしておかないと、また当たり前のことを忘れてつまずく羽目になる。今までの記事を読んで「こいつは当たり前のことを大発見のように書きおって」と憤られた方もいるだろうが、どうも僕はこのような当たり前こそ書き残しておかないとやっていけない。大発見は残さなくても忘れないしね。

 ゆっくり一つずつでも心がけていけば、六十を過ぎる頃には立派な成人になっているのではないか、希望を持って書き残しを続けます。六十過ぎてもろくでなしだったら、七十に期待やね!

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