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東寺の立体曼荼羅を前にして神仏を見つめ直す(皐月物語 142)

 参拝客の少ない午後の東寺庭園は静謐に包まれていた。五重塔を背にした藤城皐月ふじしろさつきたち6人は南大門の正面にある金堂こんどうに向かって歩いていた。
「東寺って796年に創建されたんだけど、最初に建立されたのが金堂なんだって。空海が東寺に来た823年って、まだ金堂しかできていなかったんだ。案外しょぼかったんだね。伽藍のない境内なんて、まさにがらんどう」
 伽藍が通じなかったのか、反応のなさに皐月は顔が熱くなった。
「がらんどうって、語源は仏教用語の伽藍堂だよ。中に何もなくて広々としているっていう意味だから、仏像を安置する前の御堂の様子を表しているのかもしれないね」
 吉口千由紀よしぐちちゆきは読書好きだからなのか、言葉をよく知っている。中学受験で激しく国語の中学受験で勉強している栗林真理くりばやしまり二橋絵梨花にはしえりかよりも語彙が豊かだ。漢検2級を持っている皐月でも千由紀に勝てる気がしない。
「金堂って何が祀られてるの?」
 真理はパンフレットに書かれていることをわざわざ聞いてきた。つまらない洒落を言って恥をかいた自分に花を持たせるつもりだと思い、皐月は真理の優しさが嬉しかった。
薬師三尊やくしさんぞん。薬師如来を真ん中にして、左に日光菩薩、右に月光菩薩がっこうぼさつが祀られているよ」
「それって薬師寺と同じだね」
 絵梨花に思わぬことを言われ、皐月と神谷秀真かみやしゅうまは驚いた。二人とも神社の祭神はよく憶えているが、寺院の本尊はあまり知らない。
「二橋さん。薬師寺って何宗か知ってる?」
「薬師寺は法相宗ほっそうしゅうだよ。総本山」
「え~っ! 法相宗って南都六宗じゃん。奈良仏教が嫌で平安京に寺院を作らせなかったのに、よりによって東寺の本堂に薬師寺の本尊と同じ薬師三尊を祀ってたんだ。東寺を作った人、何考えてんだろう?」
 皐月は絵梨花の話で東寺と薬師寺が繋がった。こういうところが古代史の面白いところだ。
「薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立したんだから、平安京を造った桓武天皇もまずは天武天皇にあやかって、健康第一って考えたのかもね」
 東寺は平安京鎮護のための朝廷の官寺として建立された。だから天皇の健康が国を守るために最優先された、と絵梨花は考えたようだ。
「絵梨花ちゃん、なんで薬師寺のことなんか知ってるの?」
「へへっ、薬師寺は行ってみたいお寺リストに入っているの。受験が終わったら両親に連れて行ってもらおうかな」

 皐月たちは金堂の正面に回って建物を見ることにした。金堂は入母屋造本瓦葺きの大きな建物で、現在の金堂は1603年に豊臣秀頼により再建されたものだ。
「空海ってさ、初めて東寺に来た時に薬師三尊が祀られてるのを見て、どう思ったんだろうね。薬師如来って真言密教と関係ないじゃん。『マジか!』ってムッとしたのかな?」
 空海は遣唐使から帰ってきて東寺に来るまでの間、高野山に修禅の道場を建立しようと嵯峨天皇に申し出たりするなど、精力的に真言宗の布教を行っている。
皐月こーげつ、薬師如来って曼荼羅にいたっけ?」
 皐月は真理の自由研究で荼枳尼天だきにてんを調べた時の記憶を辿った。
「いない。両界曼荼羅りょうかいまんだらに薬師如来は描かれていなかった」
「じゃあ、空海は金堂の薬師三尊が不満で、講堂に立体曼荼羅を作ったのかもしれないね」
「俺もそう思う。すでに出来上がっていた仏像を捨てるわけにもいかないだろう。空海がどういうつもりで金堂と薬師三尊を残したのかはわからないけど、残しておいてくれてよかったよ。俺、薬師如来って好きなんだよね。字面が格好いいじゃん」
 金堂に入る前に頭の中で物語が紡がれ、皐月は東寺に少し親しみを感じ始めた。
「薬師如来ってさ、牛頭天王ごずてんのうと同一視されてるじゃん。牛頭天王も素戔嗚尊すさのをのみことと同一視されているよね。だからさ、金堂って素戔嗚尊を中心に、左右に天照大御神と月夜見尊つきよみのみこと三貴子みはしらのうずのみこを仏教に偽装した神社みたいだな。しかも天照じゃなくて素戔嗚を中心にした異端の神道」
「なるほど、本地垂迹ほんじすいじゃくか……。皐月こーげつの説が本当だったら面白いけど、やっぱり薬師寺に倣っただけなんじゃないのかな? 薬師信仰って流行ってたみたいだし」
「いや、説っていうよりも、単なる思い付きだよ。そんなこと言い出したら、お寺も神社もごちゃごちゃになる」
 皐月の隣で真理が嬉しそうに話を聞いていた。秀真にしか通じないつもりで話をしていたのに、真理はなぜか楽しそうだった。

 絵梨花を先頭に、皐月たち6人は金堂に入った。左側面にある大きな扉は狭い出入口が作られ、大きな扉を開かなくても入れるように改良されている。
「うわぁ!」
 感嘆の声を上げた絵梨花が中に入ってすぐに立ち止まった。すぐ後ろにいた真理と千由紀がくっついて、ひとかたまりになった。
「神谷氏、藤城氏、凄いよ! 見て!」
 先に中を見た岩原比呂志いわはらひろしも驚きの声を上げた。秀真と皐月も続いて中に入った。
「うわっ! 凄っ!」
 中尊の薬師如来像は黄金色に輝いていた。仏像の背後の古びた木の板でできた壁と、丹塗りが剥げ落ちた柱は400年以上の歴史を感じさせた。薄暗い堂内に差す一筋の日の光が薬師如来を照らし、黄金の反射が堂内に優しい光を放っていた。
「俺、仏像って初めてちゃんと見た。こんなに凄いものだとは思わなかった。なんなんだろう、この感覚……」
 薬師如来像は台座から光背まで10mもある大きな仏像だ。須弥壇しゅみだんには本尊の薬師如来坐像の両脇に日光、月光菩薩立像が安置されている。これら仏像は室町時代後期の土一揆で焼失し、江戸時代初期に作られたものだ。
「ここにいるとタイムスリップしたような気分になるね」
「そうだな……真理の言う通りかもしれん。体は現代でも、心は仏像が焼かれる前の平安時代だ。不思議な気持ちになる」
「真ん中の大きな仏像の下に縁の下の力持ちたちがたくさんいるけど、皐月はあれが何だか知ってる?」
「何だったっけ……」
 皐月が途方に暮れていると、絵梨花が解説してくれた。
 薬師如来が座っているところを下から支えている仏像たちは十二神将じゅうにしんしょうといい、薬師如来を信仰する者を守護する12尊の夜叉のことだ。
「十二神将像は新薬師寺がが有名なの。新薬師寺も私の行きたいお寺リストに入ってるよ」
 絵梨花は嬉しそうに薬師如来像の十二神将を見ていた。
「二橋さんは十二神将像の名前、全部言えるの?」
「まさか。そんなの憶えているわけないでしょ。一つも知らない」
「じゃあ、新薬師寺に行くまでに憶えちゃえばいいじゃん」
「簡単に言わないでよ。私には藤城さんみたいな真似はできないよ。代わりに憶えて」
「俺は連れて行ってもらえないだろうから、俺の代わりにメモ帳に憶えてもらったら?」
 絵梨花が楽しそうに、声を抑えながら笑っていた。皐月たちの他に参拝客は数人しかいなかったけれど、薬師三尊像の前で大声を出すわけにはいかない。皐月は絵梨花と仏像巡りをするのも楽しそうだな、と思った。
「私たち、二橋さんに付き合うから、出る時は声をかけてね」
 班長の千由紀が仏像見学を楽しみにしていた滞在時間を絵梨花に任せた。
 絵梨花は堂内をうろうろしながら色々な角度で仏像を見ていた。皐月たちも思い思いに仏像を見た。短い時間だったが、集中していたせいか満足度は高かった。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
 秀真が薬師如来像の前で合掌し、小さく真言を唱えた。気が付けば金堂の中には皐月たち6人と監視員しかいなくなっていた。皐月と真理は秀真のすぐそばにいたので真言が聞こえたが、絵梨花たちには聞こえなかったようだ。
「神谷君、清水寺でもそういう呪文みたいなのを言ってたね」
「へへへっ、薬師如来の真言だよ。ちょっと言ってみたくなってね。本当は般若心経を唱えてみたいんだけど、さすがに栗林さんの前では恥ずかしい」
「それってお経?」
「そう。ベーシックなお経。短いから栗林さんも憶えたら? 皐月は憶えているよ」
「まあ、受験が終わったら考えてみる」
 皐月は秀真の勧めで般若心経を憶えさせられた。半分は漢字の練習のつもりだったが、そのお陰で表面的だが、ある程度の内容は理解できた。
 他の参拝者たちが続々と金堂に入って来たのを機に、皐月たち6人は金堂を後にした。皐月はここに未練を残していたので、いつかもう一度ここに来たいと思った。

 次に訪れる講堂は金堂のすぐ隣にあり、東寺境内の中心に位置している。講堂は825年に着工され、796年に着工された金堂に比べてかなり年月が離れている。
「いよいよ二橋さんが見たかった立体曼荼羅まんだらだね」
「うん。楽しみ」
 絵梨花を先頭に皐月たち6人は講堂に入った。今度は金堂の時のように立ち止まらなかった。皐月は絵梨花に続いてはいった。
「おうっ、こっちも凄ぇ!」
 絵梨花の手前、皐月は少し大げさにはしゃいで見せたが、第一印象は金堂の薬師三尊像の方が強かった。しかし、講堂の中に入って仏像群を眺めていると、立体曼荼羅も見ごたえがあると思った。
 立体曼荼羅とは絵などの二次元の曼荼羅を仏像で三次元で表現したものだ。曼荼羅とは密教の教えを図で示したもので、文章だけでは教えを伝えきれないとの理由で生まれたものだ。空海は二次元の曼荼羅では不十分だと思ったのか、曼荼羅を三次元化することによって修行僧たちへの理解を深めようとした。
「どう?」
 皐月は合掌していた絵梨花に率直な感想を聞きたかった。
「う~ん……写真や映像とは比べ物にならないくらい素晴らしいんだけど、情報量が多過ぎて目移りしちゃう」
「俺も想像以上にいいな~って思った。曼荼羅を立体化するとか、空海って面白いことを考えるよね」
「少しは密教のことを勉強しておけばよかった。曼荼羅の知識があったら、もっと楽しめたんだろうな」
 皐月は豊川稲荷の茶吉尼天だきにてんについて調べた時に曼荼羅のことを知り、勉強をしようと思ったことがあった。だが、曼荼羅に出てくる数多の仏を見てやる気が失せてしまった。あの時の皐月は真理の夏休みの宿題を片付けるのに必死だったからだ。
「俺も知識がないから、空海の意図がさっぱりわからない。曼荼羅は仏像にするよりも絵のままの方が抽象度が高くてわかりやすいと思うんだけどな」
「曼荼羅の絵があってこその立体曼荼羅なんじゃない? 修行僧向けに作ったものだから、私たちみたいに曼荼羅の知識のない一般人には、本当の意味で立体曼荼羅の良さはわからないんだろうな」
 悲しいことを言いながらも、絵梨花は楽しそうな顔をしていた。
「これは勉強し直して、またここに来なきゃいけないかな」
「だな。俺もそんな気持ちになった。曼荼羅っていうか、仏像のキャラのことを勉強して、いつかまた来る」
 絵梨花を見ると妖しい頬笑みを浮かべていた。次に東寺に来る時は絵梨花と二人きりになりそうな予感がした。絵梨花は視線を残しつつ、そっと皐月から離れていった。

 皐月は須弥壇の左側の明王みょうおう部にある5体の仏像に見入っていた。中央の如来部や右側の菩薩ぼさつ部よりも、力強い明王たちに皐月は魅かれていた。すると、真理がすぐ隣に来て話しかけてきた。
「絵梨花ちゃん、楽しそうだったね」
「実物は写真や映像とは全然違うって感動していたよ。伏見稲荷で時間のことを気にして自分を犠牲にしようとしていたけど、諦めないでここに来られてよかったよな」
「私も伏見稲荷の山の奥を見るよりも、東寺の五重塔や仏像の方を見たかった」
 修学旅行の行き先を決める時、東寺に行ってみたいと思っていたのは絵梨花だけだった。そう思うと、ここへは絵梨花に連れて来てもらったようなものだ。そして、秀真が伏見稲荷の参拝を短く切り上げたことも、ここでの時間を稼ぐことに貢献していた。皐月は自分が祇園に行くことを諦めたのも少しは時間稼ぎになったと思っている。
「でも、ここもそんなにゆっくりできないよね」
「そうだな……。ここなら京都駅から近いし、名鉄と在来線を使えば安くすむから、また来ようか」
 皐月は絵梨花だけでなく、真理とも二人で東寺を訪れてみたいと思った。だが、本心では一人でここに来てみたいという気持ちの方が強かった。
「名鉄と在来線って、どれくらい時間がかかるの?」
「んん……片道4時間くらい、かな?」
「ヤダ! そんなの。時間の無駄じゃない」
「そうか? 電車に乗ってるだけで楽しいだろ?」
「あ~、皐月も鉄オタだったか……。新幹線なら一緒に行ってあげる」
「そんな金なんてねーよ」
 皐月が今いる場所を離れて、右側の菩薩部の方へ移動すると、真理もついて来た。
「真ん中は見ないの?」
「最後に見るよ。真ん中の5体は一度焼失しているんだ。他の仏像は平安時代のもので国宝なんだ。土一揆つちいっきで講堂が炎上した時、端の方の仏像はなんとか外に持ち出せたんだろうな。真ん中の如来部の5体と菩薩部の金剛波羅蜜多菩薩こんごうはらみたぼさつ像は逃げ遅れたみたいだ」
「一揆か……宗教に民衆を救う力なんてないんだね」

 真理が皐月のもとを離れて絵梨花のところへ行ってしまった。皐月が一人になったところに千由紀が話しかけてきた。
「藤城君はこういう仏像になっている仏のことって、どういう風に思ってる?」
 千由紀にしては質問が明晰ではなかった。恐らく聞きにくいと思いながら、勇気を出して切り出したのだろう。
「それって、例えば大日如来だいにちにょらいとか不動明王ふどうみょうおうとかの存在を信じているのかってこと?」
「うん。神谷君に同じことを聞いたら、仏教の仏と神道の神を結びつけて信じているみたい。神と仏は呼び方が違うだけで、同じ存在かもしれないって考えてるって」
「ああ……神仏習合しんぶつしゅうごうとか本地垂迹ほんじすいじゃくとか、神話体系を統合しようとする考え方だね」
「そういえば、そんなこと言ってたかな。神谷君は仏を神のように信じているみたいだけど、本当のところはよくわからないって言ってた。藤城君はどう考えてる?」
 皐月は千由紀の質問の意図を量りかねていた。好奇心だけでこんなデリケートなことを自分や秀真に聞けるはずがない。千由紀は自分の神仏に対するスタンスを決めたいと思っているのだろうか。
「そうだな……俺は曼荼羅に出てくる仏はファンタジーだと思うよ。仏教はヒンズー教の神話とミックスしていて、釈迦しゃかの説く教えとは違うと思う」
「ファンタジーか……。そう考えると腑に落ちるかも。神社の神様だってファンタジーだよね」
「そうだね。あと祖先崇拝もあるね」
 千由紀の質問に答えることは、自分の神仏に対する向き合い方を確認することになった。自分の好奇心に任せた神仏への関心だけでは、自分のこんな思いには気付かなかった。
「なるほど……。藤城君って神社やお寺で神や仏を感じなかったことを気にしてたんだよね。今は神仏の存在を信じているの?」
「……正直、実在は信じられない。でも、自分の見ている世界の全ては自分の心が作りだしているものだとしたら、空想の産物である神仏を取り込むのは有りかもしれない。それは宗教の神だけでなく、文学作品の数多の登場人物も同じ」
「……凄いこと考えるのね」
「いや……この場の思いつきなんだけどね。でも立体曼荼羅を見ていたら、なんかそんな気がしてきた」
 皐月は印を結んで法具を使い、護摩を焚いて真言を唱える加持祈祷を行う真言密教に不快感を抱いていた。それなのに空海の作り上げた立体曼荼羅で皐月は自分の神仏に対するスタンスを見つめ直すことができた。
「文学と宗教を同列に扱う藤城君の考え方、私は好きだよ」
 千由紀も皐月のもとを去り、絵梨花や真理のいるところへ行ってしまった。

 皐月は如来部で大日如来と向き合っている秀真と比呂志のもとへ行った。この時、金堂にいた時のように皐月たち6人以外の参拝客がいなくなっていた。
「どう? 立体曼荼羅は」
「空海のコレクション・ルームみたいで面白いね」
 比呂志はオタク的な物の見方をした。言われてみれば比呂志の言う通りだと思った。立体曼荼羅はまるで実物大フィギュアが並べられているみたいだ。
「どんな仏像にしようとか、誰に頼んで彫ってもらおうとか、そういうのを考えるのって、空海も楽しかったんだろうね」
 空海は835年に死去したが、825年に着工された講堂は没後の839年に完成し、立体曼荼羅の仏像群はその年に開眼供養が行われた。病に冒された空海は832年に高野山へ入っていたので、立体曼荼羅の完成途上で東寺を離れ、立体曼荼羅の完成を見ることがなかった。
「ねえ、皐月こーげつ。今って僕たち以外に誰もいないから、真言を唱えてもいい?」
「いいんじゃない。遠慮なんてするなよ」
 皐月の言葉に秀真はニコッと笑い、合掌した。
「オン・アビラウンケン・ソワカ」
 秀真は大日如来に祈るときの呪文の言葉を3回唱えた。金堂の時のような小さな声ではなかったが、やはりどこか遠慮がちな声だった。
「皐月、一緒に般若心経を唱える?」
「俺はいい」
「え~っ。皐月も憶えているでしょ? 一緒に般若心経、唱えようよ」
「やるなら一人でやれよ。俺、般若心経ってあまり好きじゃないんだ」
 皐月は般若心経の中にやたらと「無」が出てくるのが好きじゃなかった。何もかも無いなんて言われると反発したくなるからだ。それに最後は呪文を唱えることで締めていた。オカルトに過ぎていて、般若心経は皐月の趣味ではなかった。
「じゃあ、いいよ。僕一人でやるから」
 秀真は小さな声で、超高速で般若心経を唱え始めた。秀真は加持祈祷や超能力への関心が高い。皐月はそっち方面には興味が持てないので、同じオカルト好きでも秀真とは距離を置いて付き合っている。
 秀真の般若心経が終わると、絵梨花たち女子3人がやって来た。
「そろそろ出ようか。このペースなら京都駅でお土産が買えるよ」
 千由紀に促され、皐月たち6人は講堂を出た。皐月はみんなと話してばかりで、集中して仏像を見られなかったが、それでも楽しいひと時を過ごせ、忘れられない思い出になった。

 皐月たちは拝観受付の門を出て、食堂の前を左へ進んで来た道を戻った。月あたりの築地塀の右手には御影堂みえどう大師堂だいしどう)という、空海が東寺にいた頃に暮らしていた住居がある。
 この建物は国宝に指定されていて、毎朝6時に空海が生きているかのように朝食を捧げる生身供しょうじんくという供養が執り行われている。絵梨花は御影堂を見なくてもいいと言い、東寺を離れるのを急いだ。
 食堂じきどうの前を過ぎたところで、皐月がみんなに声をかけた。
「南大門までみんなで横一列に並んで歩かない?」
「なんでそんなことするの?」
 皐月の突拍子もない提案に真理が不思議そうな顔をした。
「格好いいじゃん、映画の主人公みたいで。ねえ、やろうよ」
 真理たち5人が顔を見合わせた。
「いいね。やろう! 確かに皐月こーげつの言う通り、めっちゃ格好いい。僕もやりたい」
 秀真が賛成すると、比呂志も賛同した。
「ねえ、どうする?」
「私もやってみたい。藤城さんって変なこと考えるね」
「皐月はバカだから」
 絵梨花が乗り気なのに真理は驚いた。絵梨花とは波長が合うと前々から思っていたが、この旅行の中でそれは確信に変わった。
「境内には人がいないし、別にいいんじゃない? 前から人が来たらやめればいいんだし」
 千由紀は班長らしい真面目なことを言っていたが、嬉しそうな顔をしていた。
「じゃあ決まりね。センターは二橋さんと吉口さんでよろしく。俺はこっちの端ね。秀真ほつまはあっちの端に行ってくれ」
「いいよ。堂塔に近い方にしてくれるのはありがたい」
 並び順は左から秀真、比呂志、絵梨花、千由紀、真理、皐月になった。道幅が広いので、隣同士くっつかずに、一人分くらい開けて横に並んだ。
「じゃあ、行こう」
 皐月たち6人はくすのきの間を横一列になりながら、広い境内を歩き始めた。絵梨花が最初に歩き始めたので、みんなも絵梨花に足並みを揃えた。境内を歩いている間、誰も話そうとはしなかった。砂利の音だけがザッザッと鳴るのを聞いていると、皐月は意識が現代から平安時代へ飛んでいるような感覚になった。
 講堂を過ぎ、金堂を超えると五重塔が見えた。木の葉に見え隠れする五重塔へ向かって進むと南大門の前に着いた。ここまで皐月たち6人は一度も口を開かなかった。皐月はぼんやりとこの日の出来事を振り返ったり、余韻に浸ったりしていた。きっと他の5人も自分と同じだろうと思った。
「楽しかった~」
 最初に言葉を発したのは絵梨花だった。
「終わっちゃったね」
 しんみりとした口調で千由紀も話し始めた。
「まだ終わっていないよ。京都まで近鉄に乗るんだから。それに旅館に着くまでが班行動だ。それに当初の予定より15分遅れている。京都駅での買い物時間はあと20分ちょっとしか残っていない」
「そうだね。岩原君の時間管理のお陰でなんとか全部まわれたんだからね。もう東寺を出ようか」
 秀真だってもっとここにいたいのに、言い出しにくいことを言ってくれた。比呂志とアイコンタクトを取った秀真は、比呂志と並んで南大門を出た。二人に続いて絵梨花と千由紀、真理と皐月が続いた。

 南大門を出たところにはもう青鷺あおさぎはいなかった。東寺の前の国道1号は交通量が増えていた。築地塀沿いを東寺駅に向かって歩いていると、真理が話しかけてきた。
「ねえ、皐月。仏教って何なの?」
 難しい質問に皐月は即答できなかった。夏休みの自由研究や修学旅行の事前学習で仏教に触れる機会が多かったので、皐月も仏教とは何なのか気になり、調べたことがあった。自分なりの考えを少しまとめて、真理に話さなければならないと思った。前を歩く絵梨花や千由紀も皐月の言葉を待っていた。
「仏教は釈迦の説いた教えを実践して目覚めること。目覚めるっていうのは苦しみから解放されること。そのためにはどうして苦しむかを理解して、苦しみの原因を取り除くこと。そういうことをするのが仏教だと、自分は理解している」
 仏教用語を言っても通じないと思い、自分なりの言葉に変換してみた。ただ、これで合っているのかは自信がなかった。
「じゃあ、苦しみの原因を取り除くことが修行ってこと?」
「まあ、そういうことじゃないかな。俺みたいなのが軽々しく言えることじゃないけど」
 苦しみの原因を作り散らかしている自分に仏教を語る資格なんてない、と皐月は恥ずかしくなった。だが、資格を自分に問い始めると何もできなくなる。自分に呪縛をかけてどうする、と思い直した。
「他に何か聞きたいこと、ある? 間違っているかもしれないけど、答えるよ」
「じゃあ、仏教にお寺って必要? 修行するのにお寺なんて関係ないよね?」
「お寺はなくてもいいと思う。釈迦の教えは書籍になっているし、解説本もある。でも、お寺に頼りたい人は頼ればいいんじゃない?」
 京都銀行のある交差点に着いた。ちょうど信号が青になるところだったので、そのまま横断歩道を渡った。一度歩いて知った道だからなのか、時間の経つのが早く感じた。
「皐月はさっき、私に『神とか仏とか信じてる?』って聞いたよね。あんたはどうなの?」
 難しい質問だ。今までもなんとなくは考えてきたが、はっきりと自分で定義したことがなかった。だが、真理に聞かれた以上、今ここでまとめなければならない。皐月は東寺で考えていたことを答えた。
「神や仏は概念だと思う。過去の人物を神格化したのもある。そういった意味では神仏を信じていない。でも、不思議なことはあると思う。さっき真理も言ったけど『人は誰でも神様に対する認識が違う』っていう考え方、それが問題なんだよな。真理っていいこと言うなって思った」
 皐月に褒められ、真理はしまりのない顔になった。皐月も真理のお陰でモヤモヤした気持ちが吹っ切れた。
「真理ちゃんと藤城さんって、五重塔の前でそんなことを話していたんだね。二人はいつもそんなことを話しているの?」
「全然だよ。普段はくだらないことしか話していないし」
 真理の言い方にちょっと反発したくなったが、皐月はニコニコしながら真理と絵梨花を見ていた。

 皐月たち6人は東寺駅に着いた。15時53分の京都行き普通が間もなく到着するので、比呂志に促されて小走りで改札を抜け、階段を駆け上がった。ここにきて皐月は自分が思っていたよりも疲れていたことに気が付いた。二階のホームではみんな疲れきった顔をしていた。
「なんだ、みんなだらしないな」
 比呂志はまるで疲れた様子を見せなかった。休みの日は鉄道写真を撮るためにいろいろなところへ行っているせいか、普通の男子よりも体力がある。球技はあまり得意ではない比呂志だが、持久走が早かったのを思い出した。
「藤城氏はもう少し体力をつけた方がいいね」
 比呂志の言葉で皐月は年下の彼女、入屋千智いりやちさとの言葉を思い出した。千智と二人でバスケをした時に、皐月が先にバテてしまい、からかわれたことがある。皐月は修学旅行の見送りに来てくれた千智のことを、清水寺でお土産を買ったからここまで、ほとんど思い出すことがなかった。
 皐月たち6人は到着した電車の先頭車両に乗り込んだ。比呂志がまた運転台付近の空いた場所に身体を滑り込ませ、前面展望を楽しもうとしていた。どうせすぐに着くからと、皐月は他の5人と一緒にいた。
 真理たちは京都駅でお土産を買うのに、ポルタの2階のおみやげ街道ではなく、1階のおみやげ小路に行くことにしたと話していた。1階の方がホテルに近いということで、移動時間が読みやすいという理由らしい。
 京都駅に着くと、今度は女子3人が先に歩いてポルタのおみやげ小路へ向かった。改札口を出て左へ曲がり、急ぎ足で南北自由通路を直進した。女子3人は神社仏閣を参拝していた時とは別人のように生き生きとしていた。
「ポルタって manaca が使えるんだって。さっき電車の中で真理に教えてもらった。岩原氏は残高って残ってる?」
「僕は余裕で残ってる。現金は出町柳駅でほとんど使っちゃったけどね。神谷氏は?」
「僕も皐月こーげつに言われた通り、多めにチャージしておいたから大丈夫。 manaca が使える店で良かったよ」
「みんな、よく京都駅まで持ちこたえた。現金がなくなった時はヤバかったけど、お土産はなんとかなりそうだな」
 manaca は関西では端末の仕様で現金化できない。ホテルの中や、明日の奈良では現金不足に悩まされるかもしれない。
「藤城氏は清水きよみずで買い過ぎなんだよ」
「岩原氏も出町柳でまちやなぎ駅でほとんど使い切ったくせに。秀真も伏見神寶ふしみかんだから神社で結構使ってたよな?」
「あの時は焦った。お金が足りなかったから、欲しい御守を少し我慢したよ」

 皐月たちは南北自由通路の突き当たり手前を右に曲がって1階へ下りた。ポルタのおみやげ小路はすぐに見つかった。買い物客が大勢いたので、レジ待ちの時間を考慮して早く買わないと、ホテルの門限に遅れてしまう。
 店の前で千由紀がみんなに班長らしく注意喚起をした。
「今からお土産を買うんだけど、16時20分にここ集合でいいよね。遅刻は厳禁だからね。特に男子」
「え~っ? 買い物に時間がかかるのは女子じゃない?」
 皐月は試しに千由紀を茶化してみた。千由紀をこういう扱いをするのはこれが初めてだった。絵梨花にはできるが、千由紀とも真理のように絡んでみたかった。
「私は5分もあれば十分だから。じゃあ、買い物に行こう」
 皐月たちは店内に入り、みんな思い思いの店へ散った。皐月は検番けんばん京子きょうこと、京子の娘の玲子れいこ、母の師匠の和泉いずみへの土産は買わなければならないと考えていた。家用のお土産は清水で買ったが、自分も食べたいお菓子を買おうかどうか迷っている。
 京子は和菓子が好きなので、「鶴屋長生」で「京のわっかさん」というクッキーと最中種でできたドーナツ型の和菓子を買った。検番には貰い物のお菓子が常にあるし、食べきれないと困ると思い4個入を買った。
 玲子は「Coro Da Noiteコーホ・ダ・ノイチ」というクラブを経営している。店の若い女の子も食べられるようなお菓子にしようと思い、「辻利」の「京らんぐ」というラングドシャ・クッキーサンドにした。抹茶を茶筅で泡立てたようなエアインチョコが入ったものだ。これなら玲子の店でホステスをしている芸妓げいこみちるかおるにも喜んでもらえそうだ。
 和泉は焼き菓子が好きなので、「京都銘菓おたべ」の「抹茶クランチ」を買った。生八つ橋を加工したパフと抹茶チョコレートを合わせた、京都らしいチョコレートクランチだ。これは自分も和泉の家に食べに行こうと思っている。
 皐月は支出の多さに血の気が引いた。ICカードにはまだお金は残っていたが、これ以上お土産を買うのが怖くなった。自分の家用のお菓子を買うのを諦めることにした。
 店の外に出ると、すでに千由紀と比呂志と秀真が待っていた。時間までまだ10分ほど残していた。
「みんな早いね」
「藤城君みたいにお土産を渡す人がいないからね」
 千由紀の言うように、親の仕事関係の人にまでお土産を買う小学生はいないだろう。皐月は時に母親のように自分の面倒を見てくれた芸妓たちにどうしてもお土産を渡したかった。
「お待たせ~。時間、間に合った?」
「大丈夫。これならホテルまで普通に歩いて行けば間に合うよ」
 絵梨花と真理が来たので、皐月たちの班は全員揃った。体調不良などで誰ひとり脱落することがなく、無事に京都旅行をすることができた。
「じゃあ、そろそろホテルに行こうか」
 千由紀に声に元気がなかった。これで一日目の京都旅行が本当に終わったんだ、と思うと皐月は急に悲しくなった。みんなの顔を見てみると、どことなく寂しそうに見えた。
 千由紀はみんなを引き連れて、観光客や地元の人でごった返す京都駅の烏丸口を出た。タイムリミットまであと12分を残していた。

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