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小学生とは呼ばせない(皐月物語 110)

 明日美あすみに包まれるように抱きしめられていても、藤城皐月ふじしろさつきは怖くて寒気を感じていた。ロングTシャツ越しに感じる明日美の肌のぬくもりでさえ夢幻ゆめまぼろしのように思えた。
「『私が死んだら』なんて言うなよ……」
 心細さで、消え入るような声しか出せなかった。
「ごめんね」
 耳元で囁かれた声が小さすぎて、皐月には聞き取れなかった。何と言ったか聞き返そうと思ったら軽くキスをされ、皐月から離れていった。
「せっかくお菓子を持って来てくれたんだから、一緒に食べましょう。そこに座っていて」
 ずるい笑顔でかわされると、皐月は何も言えなかった。明日美の言葉には軽々しく追及することができない壁を感じた。ここで駄々をこねるような真似なんかして、子供扱いをされたくはない。
 明日美に言われた通り、皐月はふわふわのラグマットに腰を下ろした。折れ脚こたつの上には何も置かれていなかった。
 明日美は対面キッチンの奥にある冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、食器棚からステンレスの真空断熱タンブラーを取り出して持って来た。
「これしかないの」
 こたつの上に置かれたタンブラーは一つしかなかった。
「格好いいタンブラーだね。他にグラスとかマグカップとかないの?」
「人が家に来ることなんてないから、食器は自分のものしかないよ」
「明日美……いくらなんでも物、少な過ぎなんじゃない?」
「皐月がこれからも家に来るんだったら、あなたが使う食器を増やしてもいいよ」
 明日美が持って来たお茶は2Lのペットボトルの伊右衛門特茶だった。これは栗林真理くりばやしまりの家で出されたものと同じものだ。真理の母の凛子りんこが好きなお茶で、特定保健用食品という生理学的機能などに影響を与える保健機能成分が含まれている飲料だ。明日美のこのお茶の選択が凛子の影響を受けたものなのか、それとも凛子が明日美の影響を受けていたのかが気になるところだ。
 明日美がタンブラーにお茶を注いでいる間に、皐月は検番けんばんから持って来た紙袋からお菓子を取り出した。検番には安城あんじょう北城屋きたしろやの和菓子をいつも差し入れをしてくれる京子きょうこの馴染みのお客さんがいる。
「好きなのを選んでいいよ」
「えっ? 明日美へのお土産なんでしょ? 明日美から選んでよ」
「そう? じゃあ……まだ食べたことのないこれにしようかな」
 明日美が選んだのは「ほうじ茶ラテぷりん」という秋季限定商品だ。ほうじ茶のプリンの上に渋皮付きの栗が乗っていて、美味しそうだ。
「じゃあ、俺はこれ」
 皐月が選んだのは「ふんわりぶっせ」という自分好みのブッセだ。ふわふわとした生地にクリームが挟んであるのが美味しそうだ。明日美が席を立って、食器棚から小皿と小さなスプーンを持って来た。
「皐月、フォークいる?」
「いい。このまま手で食べる」
 ブッセを乗せた小皿は真っ白の無地のものだった。明日美の部屋のインテリアは白を基調にしている。こたつテーブルも白だし、ラグマットも白だ。カーテンも白。何もかもが白で、皐月には少し病的に見えた。明日美の穿いている濃いグレーのガウチョパンツと明日美の黒髪が部屋のアクセントになっていた。この部屋の中にいると、明日美のリップの赤が妙になまめかしいコントラストになっている。
 皐月はブッセを一口食べてみた。生地はふわっと軽く、バターとチーズのクリームが美味しい。明日美と話をしたかったので、口をさっぱりとさせるためにお茶を飲んだ。
「お母さんが心配していた。明日美、疲れてるって」
 明日美が食べている手を止めて、スプーンを直接テーブルに置いた。
「お母さんは心配性だから……」
「俺は高卒認定試験の勉強で疲れてるんじゃないかって、京子お母さんに言ったんだけど」
「私のフォローしてくれたんだ。ありがとうね、皐月」
 明日美も皐月と同じタンブラーでお茶を飲んだ。
「でもね……病気をしてからは勉強のモチベーションが下がっちゃって……。今は皐月が思っているほど勉強していないよ」
「じゃあ、どうして疲れてるんだよ? 体調が悪いのか? それとも家で稽古をしてるのか?」
「体調は絶好調ってわけではないかな。勉強や稽古は家でやってるけど、頑張り過ぎてはいないよ。最近は横になって休んでいることが多いから、休み過ぎて疲れちゃったのかもね。一度自分のスイッチを切ると、再起動するのにエネルギーがいるから」
「へぇ……」
 皐月は明日美言ったことと似た話を真理から聞いたことがあった。勉強は習慣化してしまえば勉強すること自体は苦にならないらしい。一度でも休むと、なかなか勉強をやる気にならないと言っていた。明日美もそんなものかな、と皐月は納得した。
「そういえばお母さんが言ってたよ。明日美は仕事を減らすようになってから忘れ物が多くなったって。暇過ぎてボケちゃったのかって心配してた」
「へぇ~」
 明日美が両肘をついて楽しそうな顔をして微笑んでいる。けたと言われて何が楽しいのか、皐月にはわからない。
「本当に大丈夫なの?」
「あのね……忘れ物はわざとだよ」
「わざと?」
「そう。わざと」
 同じポーズで明日美は皐月のことをうかがっている。理由を聞けば教えてくれるだろうが、これは理由を自分で考えてみろという意味だと思った。改めて考えてみると、すぐにピンときた。
「あっ……俺に届けさせるためにわざと忘れ物をしたんだ」
 明日美は何も答えずに、まだニヤニヤしている。満点解答ではないという意味だろう。本当は少し違うことを考えていたが、大人相手に言うのは恥ずかしいので、つい抑制して言ってしまった。皐月は言いづらいのを押し切って、思い切って言ってみた。
「明日美、俺に会いたかったんだろ」
「うん」
 こんな自惚れたことを言うのは恥ずかしかった。だが、言っても良かったようで、ほっとした。
「皐月が検番に来てくれなかったら、私はずっと忘れ物をし続けなければならなかったかもしれない。そうなると、本当にボケたって思われちゃったかもね」
 明日美が笑っていても、皐月には笑えなかった。明日美の回りくどいやり方が大人なのに子供みたいでいじらしかった。
「も~っ、面倒くさいことするな~。メッセージを送ってくれればよかったのに」
「まあ、そうなのかもしれないけど……皐月のスマホって百合ゆり姐さんに管理されていないの?」
「ママが俺のスマホを見ることはないよ。画面ロックの設定をしているからね。それにママもプライバシーはわきまえてるよ」
「そう……。百合姐さんの溺愛ぶりだと、皐月の私生活って雁字搦がんじがらめにされているのかと思った」
 ついさっき検番で、京子にも小百合に溺愛されていると言われた。家ではそんな風に感じたことがなかったので、母が外で自分のことをどんなふうに言っているのか、気になるところだ。
「俺ってこれからも明日美に会いに来ていいのかな?」
「いいよ」
「明日美って芸妓げいこの仕事があるし、なんか遠慮しちゃって……」
 大人の明日美に対し、さすがの皐月も同級生の家のように気軽に遊びに来ようとは思えない。明日美には真理よりも気を使う。
「遠慮しないで遊びに来て。お座敷のない日の午後3時以降なら大丈夫だから。休みの日は検番で遅くまで稽古をしないようにって言われたの。お母さんが心配するからね」
「じゃあ、学校が終わったら明日美に会いに来てもいいんだね。でも、晩御飯までに家に帰らなければいけないんだ。それでもいい?」
「皐月は小学生だもん。仕方がないよね」
「そういう言い方をするなよな……」
「ごめんね」
 明日美に肩をさすられてなだめられたが、遠慮がちだったことが皐月には物足りなかった。今までの明日美は暑苦しいくらいベタベタとしてきた。
「なんだよ、それ……。前は俺のことむぎゅってしてくれて、チューしてくれたじゃん」
「だって皐月って大きくなったじゃない。もうそんな子供みたいな扱いできないよ」
「さっきは俺のこと小学生だってバカにしたくせに。……都合のいいこと言って」
 皐月から明日美の背中に身体を寄せた。今まで自分がやられてきた子供扱いを明日美にしてやりたくなった。
「これからは俺が明日美にされてきたことをしてやるよ」
 両手を肩に置き、背後から明日美の右のこめかみのあたりに軽くキスをした。子供の頃の皐月は明日美にこのキスをされている時が最高に幸せだった。
 唇を触れたまま幸せを味わっていると、明日美の頭が傾き始めた。薄く眼を開けると、明日美も瞼を閉じていた。唇を頬へ滑らすと、明日美から声にならない声が聞こえた。
 皐月は明日美の頬から唇を離し、人差し指と中指を明日美の顎に添えて自分の方へ引いた。明日美が抵抗しなかったので唇を重ねた。子供扱いではない大人のキスをした。


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