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殺風景な部屋(皐月物語 109)

 今日は誰も芸妓げいこが来ていないかもしれないなと思いながらも、明日美あすみに会えることを期待して、藤城皐月ふじしろさつき検番けんばんの表玄関の紅殻格子べんがらごうしの引き戸を開けた。中はしんとしていた。
「皐月だよ。お母さんいる?」
 奥から老芸妓ろうげいこ京子きょうこがゆっくりと現れた。皐月には京子が元気がなさそうに見えた。
「いらっしゃい。今日はどうしたんだい?」
「別に……。ちょっと寄ってみただけ。お母さん元気かなって」
「私は元気だよ。昼過ぎに明日美が来て、少し稽古をして帰ったよ。こんなとこ立ってないで、まあ上がりな」
 皐月は勝手知ったる応接間のソファーにランドセルを置き、京子のいる台所へ行った。
「お母さん、珈琲コーヒーある?」
「ペットボトルに入ったのもインスタントもあるよ。温かい珈琲でも飲むかい?」
「アイスがいいな。ガラスの脚付きのタンブラーを使ってもいい?」
「いいよ。何でも好きなのを使いな」
 皐月は食器棚から前に検番に来た時に出されたのと同じものを持ち出した。それはフリージアの彫刻がなされた美しいタンブラーだ。
「あったあった。これ使うね。この花ってフリージアだよね」
 ソファーに座ってアイス珈琲を飲みながら、スマホでフリージアの指輪を画像検索してみた。フリージアで稲荷小学校の校長先生のしていたフリージアの指輪のことを思い出したからだ。検索してみると、婚約指輪がたくさん出てきた。さすがに今の皐月に買えるものではない。だが、もしも一回りも年上の明日美と結婚するなら、こんな婚約指輪を買ってあげたいと思った。
 京子が温かい緑茶を湯呑に入れて持ってきて、皐月の向かいのソファーに座った。
「そのグラスは明日美のお気に入りでさ。あの子、フリージアが好きなんだって」
 皐月は今まで明日美がフリージアを好きなことを知らなかった。校長の伊藤先生がしていたフリージアの指輪のを見て、いつか明日美にフリージアの指輪をプレゼントしたいと思ったその考えは間違いなさそうだ。
「俺もフリージア、好きだよ。可愛いし、いい匂いがするよね。そういえばさ、昔は検番の軒先にフリージアのプランターがあったけど、今はないよね。どうしちゃったの?」
「今年は球根を掘り上げたからね。明日美が球根を欲しいっていうから、少し分けてあげたよ。花が咲くのは来年の春なんだけどね」
「へぇ……」
「皐月にも分けてあげようか? 今から栽培しても、まだ間に合うよ」
「家は日当たりがいいところが二階しかないからな……。古い建物だから、ベランダなんてないし。家でも栽培できるのかな?」
「そういえばそうだったねぇ。百合ゆりんとこりは家が密集しているからねぇ……」
 及川祐希おいかわゆうきたちが皐月の家に来るまでは二階の回廊の日当たりの良いところを独占できた。だが今は日の当たる部屋は及川親子に使ってもらっているので、皐月の日の当らない部屋では植物の世話をできない。
「俺は諦めるよ。花が咲く頃にまた検番に来るから」
 フリージアの花が咲く時期は小学校を卒業して中学に上がる頃だ。皐月はいつまで検番に遊びに来ることができるのかと不安になった。中学生になれば、もう子供とは言えなくなる。検番は女の園だ。大人の男が出入りするような場所ではない。

「お母さん、明日美ってあれからお仕事減らしているの?」
 皐月は明日美の健康状態が気になっていた。メッセージのアカウントを交換しているのに、皐月はまだ明日美と直接やりとりをしていない。
「前から決まっているお座敷は断れないけれど、新しいお座敷は減らすようにしているよ。昨日も今日も、明日もお休みにしているからね」
「へ~。じゃあ少しは身体が休まるね」
 明日美の病気が命に関わるものだと知ってから、皐月は明日美がいつか目の前から消えてしまうのではないかという不安に駆られるようになっていた。今の皐月には京子からしか明日美の情報を仕入れることしかできない。後ろめたい気持ちがあるので、母の小百合さゆりには明日美のことを聞けない。
「最近は稽古も減らしているの?」
「検番ではね。家では何をやっているのか知らないけどね。あの子は家で高卒認定試験の勉強をしてるって言ってたよ」
「そっか……。勉強は勉強で大変そうだな。真理まりが中学受験の勉強をしてるけど、いつも疲れた顔をしてるからな……」
「そうなの? 勉強って疲れるのかい?」
「そりゃ根を詰めて勉強すれば疲れるでしょ。お母さんってもしかして勉強したことないの?」
「あたしゃ昔から勉強なんてしたことなかったからね」
「マジか!」
 京子が勉強をしたことがないというのには驚いたが、考えてみれば皐月も栗林真理くりばやしまりのように勉強に打ち込んだことがなかった。
 明日美は真理にタイプが似ているのだろう。明日美も真理も不安を打ち消すために仕事や勉強に打ち込むように見える。だから明日美は真理のお母さんの凛子りんこに可愛がられるのかもしれない。凛子は真理の母なので、真理と明日美の気性が似ているところに親しみが湧くのだろう。
 皐月や小百合は不安を覚えると逃げたり誤魔化したりする傾向がある。そんな性格なので、小百合は明日美と相性が悪いのかもしれない。皐月は母の小百合の性格を受け継いでいるので、本来は真理や明日美と相性が悪いはずだ。
「……そうか。勉強って疲れるんだ。あの子が仕事や稽古を減らしているのに疲れが抜けてないように見えるのは、そういうことだったんだね」
「家で勉強を頑張られちゃったら、お母さんも止めようがないね。お母さんって明日美の家に行ったりしないの?」
「そんなことするわけないだろ。あの子にはあの子の暮らしってものがあるんだから。あの子は豊川とよかわに友達や恋人なんていないから、誰も家に呼んだことがないんじゃないかな。皐月、あんたこの前あの子の家まで送って行ったんだろ? 部屋には上がらせてもらえなかったのかい?」
「『寄ってく?』って言われたけど、門限が迫ってたから寄らずに帰っちゃった」
「そうだったのかい……バカだねぇ。女に誘われたら男は乗らなきゃダメだよ。据え膳食わぬは男の恥って言うからね。あんたにはまだ早いか」
 皐月は明日美の部屋に行かなかったことをずっと後悔していた。せめて1分でもいいから寄っておけばよかったと思っている。新しい家族になった及川親子に気を使い過ぎていたのかもしれない。
「お母さん、小学生にそんなこと言ってもいいの?」
「こういうことは大人が教えてあげないとね。百合なんかあんたのこと溺愛しているから、女遊びなんか絶対に教えないだろうし」
「女遊び! それって俺にプレイボーイやジゴロになれってこと?」
 皐月は友達の花岡聡はなおかさとしが憧れているジゴロのことを思い出した。言葉の意味は調べたから知っているが、実際にジゴロがどういう男なのか、まだ皐月にはピンときていなかった。
「バカだねぇ、あんたは。そんなんじゃないよ。いい男になれってこと。あんたは百合に似て綺麗な顔をしているから、これから女が大勢寄ってくるようになるよ。その時にあんたも女も不幸にならないような遊び方を知らないとねぇ」
「じゃあ、お母さんが俺に女遊びを教えてくれるんだ」
「バカ言ってんじゃないよ。そんなことは自分で考えな。でも、あんたに困ったことあったら助言くらいはしてあげるよ」
「お婆さんに恋愛の相談してもなぁ……」
「酷いことを言うねぇ、あんたは。さっきは私に女遊びを教えろって言ったくせに。私に助言をもらうのが嫌なら玲子れいこを頼ればいいよ。あの子なら私よりもずっと頼りになるよ」
 玲子は京子の一人娘で、芸妓以外にもクラブを経営している。玲子の店にはキャストが豊川芸妓組合よりもたくさんいる。その中にみちるかおるもいて、彼女らはホステスだけでなく芸妓もしている。玲子は物腰が柔らかく優しいが、大勢の女の子たちを従えているからなのか、京子以上に威厳を感じる。
「大丈夫だよ。俺、いい子だから。今からそんな心配しなくてもいいって」
「そうだねぇ……あんたもまだ小学生だからねぇ。でも最近のあんたは色気づいてきたから、ちょっと心配になっちゃってねぇ……」
 さすがに京子は鋭いな、と思った。本当に困った時は京子に頼れば間違いがなさそうな気がしてきた。京子だけでなく玲子もいる。心強いと思う反面、下手なことはできないという恐怖もある。
「グラスを洗ったら帰るね」
 皐月は珈琲を飲み終えたフリージアのグラスを持って、台所へ行った。あまり遅くなると京子の夕食の用意の邪魔をしてしまうことになる。手早くグラスを洗い、タオルで拭きあげて元の棚に戻した。
「皐月、あんた明日美の家に行ったことがあるんだろ? ちょっと悪いけど、帰りにこれを届けてくれないか」
 皐月が京子から手渡されたのは小さな紙袋だった。
「お客様から差し入れでもらったお菓子なんだけどさ、あの子、持って帰るの忘れちゃったんだよね。仕事を減らすようになってから忘れ物が多くなったみたいでさ。暇過ぎてボケちゃったのかね」
「いいよ。明日美ん家は帰り道とそんなに方向違わないから」
「悪いね。別に急ぎのものじゃないんだけどね。あの子、このお菓子食べたそうにしてたから渡してあげたくてさ」
「これって安城あんじょう北城屋きたしろやの和菓子じゃん。このお店のって何でも美味しいよね。明日美にお願いして一つ分けてもらおうかな」
「私から明日美に電話しておくから、皐月にお願いするね」
「ランドセルを背負っているし、なんか俺、Uber Eats みたいだね。いいよ。任せて」
 皐月は渡りに船だと喜んだ。これで堂々と明日美に会うことができるからだ。明日美とはいつでも会えるはずだったが、何となく自分からは会いたいと言い出せなかった。
 明日美と口づけを交わしたにもかかわらず、皐月は真理や祐希ともキスをしていた。そのうえ入屋千智いりやちさとに告白まがいのことまでした。どの面下げて自分から明日美に会いたいと言えようか。
 しかし今日は大義名分がある。京子の頼みを断れるはずがない。皐月は何の後ろめたさも感じず、晴れやかな気持ちで検番を出た。

 明日美のマンションの前に立ち、皐月は足がすくんだ。小学生の友達の家に遊びに行くのとはわけが違う。知らない建物に入るという緊張感もあるが、これから明日美のプライベートな空間に踏み入ることへの期待と恐れがある。
 ここは真理の住むマンションと同じくオートロックによるセキュリティーが施されている。風除室に入り、インターホンで明日美の部屋番号のボタンを押すと明日美の返事が聞こえた。防犯カメラからこちらの顔を見られているが、こちらからは明日美の顔が見えない。真理の家で何度も経験しているが、このシステムにはまだ慣れていない。
「皐月だよ」
「今、開けるね」
 明日美にエントランスの共用玄関ドアの鍵を解除してもらい、皐月は建物の中に入った。
 エレベーターに乗っている間、皐月は緊張していた。明日美の部屋の前まで来て、玄関のチャイムを鳴らすと明日美が出てきた。
 明日美は濃いグレーのガウチョパンツと白のロングTシャツのラフな格好だった。稽古の時とは違い、髪をメッシーバンにまとめていて、薄くメイクをしていた。リップで赤みを増した唇につい目がいってしまう。誰とも違う、明日美だけのいい匂いがした。顔がかっと熱くなった。
「いらっしゃい」
「お母さんに頼まれたもの、持って来たよ」
 検番で稽古をしていた時とは違うプライベートな明日美の姿を見て、皐月は柄にもなく緊張してしまい、声が小さくなってしまった。
「ランドセルを背負っているのを見ると、皐月ってやっぱり小学生なんだね」
「言うなよ、気にしてるんだから……。一度家に帰ってから来ればよかった」
「怒らないで。可愛いんだから」
 子供の皐月に戻ってしまったのかなと思い、悲しくなった。
「俺、1秒でも早く会いたいと思って来たんだぞ」
「ありがとう。そんなに会いたいって思ってもらえるなんて嬉しいよ。まあ、上がってよ。持って来てくれたお菓子、一緒に食べましょう」
 玄関の床にランドセルを下ろした皐月は靴を脱ぎ、脱いだ靴を揃えて家に上がった。玄関を右に曲がり、すぐに左に曲がるとリビング・ダイニングに出た。皐月は部屋を見て驚いた。物があまりにも少なすぎるからだ。
 10畳ほどある部屋にはТVボードに乗った小さめのテレビがあり、小さめの折れ脚こたつがラグマットの上に置かれていた。ソファーは Yogibo のビーズソファが一つだけあり、部屋の片隅に小さなアンティーク調キャビネットがあった。それだけだ。
「ねえ、この部屋って物が少な過ぎじゃない?」
「そう? まだ部屋が二つもあるから、この部屋はこれで十分なんだけどな……」
 明日美に案内されて他の部屋も見せてもらった。一つは衣裳部屋で、衣類関係は全てこの部屋にあるが、そんなに多くの衣装があるわけではないので場所が余ってスカスカだった。
 もう一つの部屋は寝室で、部屋の真ん中にベッドがあり、他にはバタフライワゴンが一つ転がっていた。窓際に鉢が一つだけぽつんと置かれていた。これは京子から分けてもらったフリージアだ。球根が5つ、土から頭を出している。
 リビングに戻り、部屋全体を眺めまわした。皐月にはどの部屋も殺風景に見えた。
「やっぱり物が少ない。こんな広い家に一人じゃもったいないね」
「分譲マンションは 2LDK からしか売ってなかったのよね。もっと部屋が少なくてもよかったんだけど……」
「俺なんか頼子さんたちが家に住み込むようになったから、二部屋使ってたのを一部屋に減らされちゃったよ」
「その話、頼子さんから聞いたよ。頼子さんは随分と気にしていたな……。皐月ちゃんに悪いことしたって」
「そんな……。部屋が狭くなったなってのは思ったけど、嫌なんて思ったことはないよ」
 皐月は明日美が小百合寮のことをよく知っていることに驚いた。明日美は及川親子のことについてもある程度のことは知っているようだ。今まで考えたこともなかったが、芸妓仲間になった明日美と頼子が会話を交わしていたとしても何ら不思議なことではない。
「そうだよな……。隣の部屋に可愛い女子高生が引っ越して来たんだから、皐月は嬉しいよね」
「そんなことないよ……。気を使うことばかりで、家にいても全然リラックスができなくなったし……」
 頼子と祐希が家に住み込むようになってからは、良いこともあれば悪いこともある。皐月はあえて悪いことだけを言った。祐希を否定するようなことを言って、明日美の意識から祐希の存在を少しでも薄くできたらと思ったからだ。
「そうか……。部屋が狭くなって、他人と同じ家に住むことになったから、皐月は落ち着ける場所がなくなったんだね」
「うん……。まあ、そんなとこ」
 明日美が思っているほど皐月は深刻な状況ではなかった。でも、家で落ち着けなくなったというのは図星だった。今は公私ともに忙しいので気にならないが、ときどき心がざわつくことがある。
「皐月さえよかったらこの家を自由に使ってくれていいよ」
「えっ? どういうこと?」
「一人でこんな広い家に住んでいても寂しいからね。皐月がこの家に遊びに来てくれると、私は嬉しいな……」
 皐月には明日美がひどくはかなげに見えた。直観的に京子の懸念していた疲れとは違うと思った。
「それに……」
「それに?」
「私が死んだら、この家は皐月にあげる」
「えっ!?」
 皐月は明日美が命に関わる病気を持っていることをすっかり忘れていた。明日美の置かれている深刻な状況を思うと、皐月の顔から血の気が引いてきた。
 泣きそうになるのをこらえていると、皐月は明日美にそっと優しく抱きしめられた。皐月も明日美の背中に手をまわしたが、強く抱きしめると壊れてしまいそうな気がして、軽く力を込めることしかできなかった。


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