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男子小学生と女子高生の街歩き (皐月物語 8)

 家の近くに月極つきぎめ駐車場がある。藤城皐月ふじしろさつきは暇な時、いつも駐車場の背の低い万年塀にゴムボールを投げて遊んでいる。皐月の好きな一人遊びは野球のピッチャーの真似事だ。
 及川祐希おいかわゆうきがセーラー服から私服に着替えてくるまでの間、皐月はピッチング練習をすることにした。
 ゴムボールを投げるのは、投げそこなった時に器物を破損させないためだ。壁の向こうの鄙びたバーは壁がトタンでできている。うっかり壁にぶつけてしまうと壁を壊してしまいそうなのが怖い。普段使っている軟球だと、ぶつけたら壁に穴を開けてしまう恐れがある。皐月の本心としてはプロと同じ硬球を投げてみたいと思っているが、それだとボールが硬く、バーの壁どころか、万年塀の薄いコンクリートさえ割ってしまうだろう。
 皐月はスポーツの中では野球が一番好きだ。ソフトボールなら学校の授業でやったことがあるが、野球はまだやったことがない。人を18人も集めるのも大変だし、そもそもあまり人気がないからだ。
 皐月が野球を好きになったのは古い昭和の野球漫画の影響だ。床屋や喫茶店のパピヨンで読んだ「ドカベン」や「キャプテン」は何度も繰り返し読んだ。プロ野球は地元の中日ドラゴンズのファンだ。
 友だちと野球の話をしたいと思っているが、残念ながら周りの友だちとはあまり話が合わない。クラスでは人気者の月花博紀がサッカーをやっているので、流行っているのは野球ではなくサッカーだ。

「野球少年、お待たせ!」
 祐希が私服に着替えて来た。ベージュ地の花柄ブラウスがよく似合っている。キャンディスリーブが大人っぽいけど、高校生らしくてかわいい。デニムの膝上のスカートとスニーカーがちょっとラフな感じで格好いい。小学校でこういうファッションの女の子はいないし、近所の大人の女性でもこういう着こなしをしている人はいない。私服の女子高生を前にして、皐月はちょっとドキドキしている。
「一球投げさせてよ」
 祐希に見入っていたら意外なことを言われた。野球をやりたがる女の子を皐月は初めて見た。
「塀の上の壁にぶつけないでね」
「大丈夫、大丈夫」
 ワインドアップの堂々たるフォームだ。左足を前に出し、右足を上げたのを見て左利きだと気がついた。大きく手を振って、しかし棒立で軽く投げているように見えた。それなのにボールはうなりを上げて皐月よりずっと速かった。
「あ~気持ちいい!」
「凄ぇ……。なんでそんな速い球が投げられるの?」
「カッコ良かった? 部活でソフトボールやってたんだよ。ライト守ってたの」
 教えを請いたいと思う皐月だったが、負けたと思う悔しさから言葉が出ない。
「あ~あ、皐月が野球好きなの知ってたらグローブ捨てるんじゃなかった」
「捨てちゃったの? もったいない」
「引っ越し前に断捨離したの」
「ダンシャリ?」
「新生活に備えていらないと思ったものを思い切って捨てたの。部活はもう終わったし、今後ソフトボールをすることもないと思ったから処分しちゃった」
「じゃあ、またグローブ買う?」
「お金ないし、いいよ。またゴム毬でキャッチボールしようね」
「左利き用のグローブ、友達から借りてくるから、いつか硬球でキャッチボールしようよ」
「そうだね。硬球は怖いけど、いつかしようね」

 家に戻ってボールを玄関の下駄箱の上に置き、皐月は祐希の元に走って戻った。
「どこか行ってみたいところってある?」
「この近くだと豊川稲荷が有名なんだよね。まだ行ったことないから行ってみたいな。連れてって」
 さっき入屋千智いりやちさとを誘った場所だ。偶然の一致に皐月はビクッとした。
「いいけど、お寺なんて大丈夫? つまんないかもしれないよ?」
「えっ? つまらないの?」
「俺はよく遊びに行ってるから、好きだし楽しいけどさ……。ただ案内できるような知識が何もないから、祐希のこと退屈させちゃうかもしれない」
「歴史とか、そういうのは別にいいよ。お寺の雰囲気が好きなんだし。それに皐月がどこでどんな風に遊んでいるとか、そういうのが知りたいな。小学生男子って興味深いよ」
「そんなのが面白いの?」
「そういうのが面白いじゃない。楽しみだな~」

 祐希の期待が少し重かった。皐月は栄町の商店街を通って豊川稲荷表参道を歩きながら、自分の知っていることを片っ端から話そうと思った。面白いかどうかはわからないけれど、とにかく退屈させないようにしなければならない。
「じゃあ、商店街を抜けて行くね。その前にうちの隣、ここは旅館。木造なのに三階建てって凄くない?」
「うん、凄いね。こういうちょっと古い普通の木造の家で三階建てって見たことないかも」
「ここ今でも旅館やってるのかな? お客さんが泊ってるの見たことないな。建物はうちより地味だけど、三階からの眺めはよかったよ」
「中入ったことあるの?」
「友達んちだし」
 旅館の隣はブロック塀に囲まれた駐車場。その隣の紙屋の軽トラックが停まっている。
「うわ~っ、ここ雰囲気あるね。この細い道、通ってみたいな」
 駐車場と紙屋の間に車も通れない細い道がある。元旅館や料亭、バーや小料理屋などが軒を連ねているレトロな路地だ。
「ここは昔旅館だった建物。今は空き家。子供の頃、ここに住んでいた大人のお姉さんに怖い話をしてもらうのが好きだった」
「今でも子供なのに」
「うるさいな。で、お姉さんに話の元ネタの古い本をもらってね、その本に載ってた絵が怖かったんだ。葛飾北斎の『百物語さらやしき』とかね」
「なんか急に賢いこと言い出したね。葛飾北斎とか……」
「葛飾北斎くらい知ってたって別に賢くも何ともないじゃん」
「浮世絵の名前までちゃんと言えたから賢いなって思ったんだよ。普通そこまで覚えてないよ」
 皐月は最初、祐希にバカにされたのかと思ってムッとしたが、意外なところを褒められて嬉しくなった。
「この細い道の奥も行ってみたいな」
 この旅館だった家を左に入れるさらに細い道がある。住人や配達員以外、誰も足を踏み入れることのないゾーンだ。
「この奥に家の裏口があるよ。あと今の家で暮らす前、小さい頃に住んでいた家もあるし、お母さんの師匠の和泉いずみ姐さんの家もある」
 さっき見た三階建ての旅館の裏口には三味線工房がある。その隣の今にも崩れそうな木造の物置が皐月の自転車置き場だ。その隣に泉寮という、和泉の置屋がある。さらに奥に行くと皐月が赤ちゃんの頃に育った昔の家があり、突当たりには今は亡き皐月の祖母の家がある。もうどちらも空き家になっていて、廃墟のようになっていて気味が悪い雰囲気を出している。
「和泉んとこってもう行った?」
「うん。こっちに着いてすぐに行ったよ。さっき皐月が言った家の裏口を出たんだけど、ここに繋がっていたんだね」
「そうそう。じゃあ、今日はこの道はもう行かなくてもいいか」
 和泉の家に寄ると話が長くなると思い、皐月はまた日を改めて祐希を連れて行こうと思った。
 今来た道を戻り、さっきの路地の突き当たりに出た。そこには小さな料亭がある。
「芸妓さんはこの料亭にお座敷で呼ばれることもあるみたい」
「へぇ~。こんな近くに呼ばれることもあるんだ」
 いいのか悪いのか皐月にはわからないが、百合はあまりここには呼ばれないらしい。ここは明るくてお客と一緒に騒げる若い芸妓が好まれるらしく、百合はあまり呼ばれないと聞いたことがある。本人も行きたくないみたいなので、呼ばれても断ったりするそうだ。
「商店街を通りたいから、ちょっと道戻るね」

 紙屋まで戻って左に曲がり、喫茶パピヨンのある辻を左に曲がると、そこには小さな商店街がある。履物屋、煙草屋、化粧品店、時計店、美容院、魚屋が2件、雑貨屋、肉屋、八百屋、酒屋とここだけで生活に必要なものはほとんど揃う。
「商店街っていいね。徒歩圏内だけで生きていけちゃう。コンビニでもいいのかもしれないけど、商店街の方が人が温かそう。私が住んでいたところはお店なんて何もなかったから、バイクや車で町まで出て、スーパーとかホームセンターで買い物してたよ」
「この辺って古い町だから家に駐車場がなくてさ。だから家から離れた駐車場まで行って車で買い物に行くよりも、ここらで買い物済ませたほうが楽なんだって」
 商店街を抜け、表参道と交差する辻には酒屋、金物屋、布団屋、食堂がある。ここの酒屋は角打ちかくうちができる。
「この食堂のソフトクリームが美味しいんだ。ここよりウマいの食べたことない。食べてく?」
「今はいいよ。後でお寿司食べるから、お腹空かせておかないとね。また今度食べに来ようよ。看板に大きく書いてあるかつ丼とかオムライスも食べてみたいな」
 布団屋の隣に小さな本屋がある。皐月が時々利用する古本屋の竹井書店だ。本が欲しい時はまずここで探してから買うようにしている。お店の番をしている女性が大人なのに可愛くて、皐月はこの店が大好きだ。だがこれは祐希には内緒にしなければならない。
「ここの質屋で麻雀牌を買った」
「皐月、麻雀なんてするの?」
「この辺の子はみんなするよ。雨の日とか暇じゃん」
「ゲームとかスマホゲーとかしないの?」
「ゲームってビデオゲームのこと? もちろんするけどさ、みんなで遊ぶ時は麻雀とかトランプとかアナログな遊びの方が盛り上がるんだよ。デジタル系は一人で遊ぶ時用かな」
「ふ~ん。私の周りの男子たちはみんなスマホとかで遊んでる」
 表参道は普通の商店街と違って、掛け軸や人形、占いや鍼灸など変わった店が多い。
「ここの床屋で髪を切ってもらってる」
 狙っていないのに物凄くレトロな理髪店がある。ただ古いだけなのだが、設備や調度品が大切に使われていて手入れが行き届いているので味がある。
「皐月って髪が長くて女の子っぽいから美容院で切ってもらってるのかと思った」
「昔から通ってるからいろいろ注文しやすいんだよ」
「自分でそういう髪型にして欲しいってお願いしてるんだ。へぇ~」
「似合ってるからいいんだよ!」
 祐希がニヤニヤしている。皐月は最近、この女の子みたいな長い髪が嫌になり始めている。凛姐さんに勧められて髪を伸ばしたが、最近はあまり凛姐さんと会っていないので、もうそろそろこの髪型から卒業したいと思っている。

 豊川稲荷が近付くにつれ、食事処や土産物屋が増えてくる。お稲荷さんだからか、店頭に狐の置物をしているお店が多い。アクセサリーの店では狐のアクセ、神具店には狐の狛犬、食堂では稲荷ずしなど観光気分が盛り上がる。
「食べ物屋さんがいっぱいあるね。どこの店も美味しそう。全店制覇したいな」
「そういや俺、どこも来たことないや」
「え? なんで?」
「なんでだろう? 親に連れてきてもらったことないな……。行くのはいつも決まった店ばかりだし」
「え~っ、せっかくこんないいとこ住んでるのに勿体ないな~。じゃあここの喫茶店も来たことないの?」
「ない。家の近所のサ店しか行かないや」
「カフェ巡りとか楽しいのに。大きくなったら彼女連れてカフェでデートするといいよ」
「祐希はカフェでデートなんてしたことあるの?」
「私、高校生だよ。当たり前じゃん」
「ふ~ん」
 一瞬で血の気が引いた。皐月にとってこんなのは初めての経験だ。祐希にデートの経験があることがショックだった。
「じゃあ俺は誰とカフェ巡りしようかな……」
 皐月の頭に浮かんだのは栗林真理くりばやしまりだった。前にパピヨンでコーヒーが好きだって言ってたから、真理だったら一緒に喫茶店に行ってくれるだろう。でも、真理は受験勉強で忙しいから断られるかもしれない。
「誰かじゃなくて、私と一緒にカフェ巡りしようよ」
 祐希が笑っていた。どうしてそういう発想にならなかったのだろう。話の流れだと、ここは祐希とカフェ巡りをするに決まっている。
 祐希に笑われているのが気になった。デートのことで焼きもちを焼いているのを見透かされたのか。だが皐月は自分が本当に嫉妬していたのかもよくわからない。そもそも自分がどうして嫉妬しなければならないのか。祐希の無邪気な笑顔を見ていると、頭が混乱してきた。

 皐月のスマホから名鉄の名車、パノラマカーのミュージックホーンが鳴り出した。メッセージアプリの着信音だ。
「ママからかな……」
 祐希の微笑が爆笑に変わった。しかも大きな声を上げて笑っている。
「皐月、お母さんのことママって呼んでるの? ウケる!」
「しょうがないだろ! もうクセになっちゃってるんだから!」
 イライラしながらスマホを見ると千智からだった。
「入屋です。すぐにメッセージを送ろうと思ったんですけど、初めてのアプリだったから時間かかっちゃいました。引っ越しもう終わりましたか?」
 すぐに返信しようとスマホを触り始めたら祐希が覗きこんできた。
「入屋って子、友だちなのになんで敬語なの?」
「あ~、後輩」
 面倒くさいなと思い、皐月はわざとぶっきら棒に返事をした。
「今時の小学生男子って敬語使うんだ?」
「女子だよ」
「わ~おっ! なかなか隅の置けないねっ、皐月」
「ちょっと、黙っててくれないかな。今から返信するから。邪魔しないでくれよ」
「はいはい。その辺見てるから、終わったら教えてね」
 祐希は豊川稲荷の総門の前の通りに並んでいる土産物屋を見てくると言って皐月から離れて行った。早く千智に返信しなきゃと焦った。
「メッセージありがとう。慣れないアプリ使わせちゃってごめんね。引っ越しは終わったよ」
「お疲れ様です。新しいお弟子さんはいかがでしたか?」
「いい人そうで良かった。たぶんうまくやっていけると思う」
「良かった。藤城先輩を自分に置き換えて考えていたら、ちょっと心配になっちゃってました」
「ありがとう。ところで、俺と話す時はこれからタメ口でいいよ。なんか敬語で話されるのって落ち着かなくて」
 皐月は自分が祐希と話す時はタメ口なのに、千智に敬語で話しかけられるなんて偉そうで嫌だった。
「わかりました。じゃなくて、わかった」
「あと、先輩もなくていいや。呼び捨てでいいよ」
「じゃあ、藤城!」
「えーっ!」
「先輩は付けさせてもらうよ。やめたくないな」
 昼間の二人の会話を思い出して顔がにやけてきた。思えば今日はなんという日だろう。千智と祐希みたいな美少女と一度に出逢うなんて運が良過ぎる。久しぶりに明日美とも会い、皐月にとってはめくるめく日になった。
「藤城先輩。今、何してたの?」
「新しいお弟子さんの家族を連れて、近所を案内してた。これから豊川稲荷に行こうとしていたところ」
「私、豊川稲荷にいるよ。今日藤城先輩に連れてってもらえなかったから一人で見て回ってたの」
 少し浮かれていた皐月だが、一瞬にして素に戻った。こんなヤバさを感じたのは初めてかもしれない。
「今どこにいるの?」
「入口の門の近くの鐘のあるところ。鳩と遊んでる」
「近いね。俺、今総門の前の土産物屋の前」
「総門ってどこ?」
「たぶん千智の言う、入り口の門のことだと思うけど」

 千智からの返信が途絶えた。スマホをポケットにしまった皐月が視線を上げると、土産物屋の達磨を見ていた祐希と目が合った。チャットが終わったと思ったのか、祐希が皐月に向かって歩き出した。
 総門に目をやると、千智が走って総門から出てきてた。キャップはさっきと違っていたが、レットナのアートがプリントされたTシャツと、デニムのショートパンツがよく似合っていてかわいい。皐月を見つけたのか、千智が大きく手を振りだした。
「藤城せんぱ~い!」
 祐希のことは気にしないようにして、皐月は千智に手を振り返した。石畳の上を軽やかに駆けて来た千智は県道495号宿谷川線の手前で立ち止まり、車が来ないのを確認して横断歩道をダッシュで渡った。息を切らしながら、嬉しそうな顔をして皐月のところへやって来た。
「さっきぶりだね、千智」
「まさかここで先輩に会えるとは思わなかった」
 キャップを深めにかぶっていても、皐月のことを見上げていたから千智の表情が良く見えた。水から上がって息を弾ませた時のような千智を見ると、学校のプールや体育館で一緒に遊んだ夢のような時間が確かなものだったと嬉しくなった。
「皐月、そのかわいい女の子は彼女?」
 いつの間にか祐希が千智の死角に入るように回り込んでいた。祐希はニヤニヤしながら、千智の肩越しに皐月のことを見ていた。


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