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ねえ、先輩?(皐月物語 102)

 歩道橋の上に取り残された藤城皐月ふじしろさつきはしばらく言葉を発することができなかった。皐月は水野真帆みずのまほが先に帰ってしまった本当の理由を考えていた。
 真帆への対応で何かを失敗をしたんだろうとは思うが、それがまだわからない。明日、真帆本人に聞けばいいのかもしれないが、本音を話してくれるかどうかはわからない。皐月は自分なりに理由を考えておかなければならない思った。
「ねえ、先輩?」
 隣にいた入屋千智いりやちさとが話しかけてきた。いつまでも無言でいるわけにはいかない。皐月は真帆のことを考えるのをやめることにした。
「ああ……そういえば千智、さっき村中と同じ班だって言ってたけど、6年生の村中茂之むらなかしげゆきのことだよね?」
「うん」
「そうか……。あいつは俺のクラスメートなんだ」
「知ってるよ」
「あれっ? 知ってたの? 俺、茂之しげからは千智の話って何も聞いたことないな。あいつ、隠してるのかな?」
「えっ? そんなこと聞いたの? なんで?」
「だって先輩のこと、もっと知りたかったんだもん。私が知ってる6年生って、同じ通学班の村中君しかいなかったから、他に聞ける人いなかったの」
 皐月にはいろいろショックだった。自分の知らないところで自分の話をされていて、そのことを何も知らなかった。それはよくある話に違いないが、当事者になるとあまり気分のいいものではない。茂之にしても千智にしても、すぐに自分に話してくれればいいのにと思った。
「俺のことなら茂之しげになんか聞かないで、直接俺に聞けばいいじゃん。何でも教えてあげるから、遠慮しないでいいよ」
「うん、わかった」
「で、あいつ、俺のこと何て言ってた?」
「『藤城は同じクラスだけど、何だよ?』だって」
「『何だよ?』って何だよ?」
「村中君、ちょっと怒ってるっぽかったから、それ以上は聞けなかったんだけど……」
 皐月は茂之の千智への対応が気になった。気になる点は二つある。
 一つは茂之が月花博紀げっかひろきと同じ感情を皐月に対して抱いているかもしれないということだ。つまり、男のやきもちだ。
 茂之は同じクラスの筒井美耶つついみやのことが好きだ。このことはクラスの男子ならみんな気が付いている。だが、その美耶が皐月のことを好きだということもクラス中に知れ渡っている。だから茂之が皐月のことを気に入らないと思っていてもおかしくない。
 茂之が千智から自分のことを聞かれ、美耶のことを思い出して機嫌が悪くなったか、あるいは千智のことでも茂之が自分にやきもちを焼いているのかと思った。
 もう一つは茂之の千智に対しての口の利き方だ。千智の話すニュアンスから、茂之は少し乱暴な言い方をしたんじゃないかと想像した。茂之が千智のことをいじめることはないと思うが、少し心配になってきた。
茂之しげってクラスではほとんど女子としゃべらないから、そういう会話に慣れてないだけなんじゃないかな。ぶっきら棒に見えたかもしれないけど、あいつはいい奴だよ」
 茂之がいい奴だというのは皐月の本心だ。一緒にクラス対抗で球技をしている時、皐月と茂之は十年来の親友のように仲良くなる。だから皐月はここで茂之のことを庇ってやりたくなった。
 だが皐月は普段、茂之とはクラスであまり話をしない。茂之は博紀たちとつるんでいるので、休み時間のクラス対抗戦以外で皐月が茂之と雑談をすることがほとんどないからだ。だから茂之にそこまでサービスをしてやる義理はないと思わないでもなかった。
「でも、もしあいつが千智に嫌な思いをさせるようなことがあったら、俺に言ってくれ。何とかするから」
「大丈夫だよ。村中君は優しくしてくれてるから」
「そうだよな……。あいつは面倒見がいいからな。ちょっと心配し過ぎたか」

 皐月は歩道橋の柵越しに、姫街道ひめかいどうを見た。遠くに名鉄めいてつ飯田線いいだせんを渡る踏切が見える。踏切の名称は、JRで言えば姫街道2920、名鉄では稲荷口いなりぐち9号だ。今はちょうど遮断機が下りていて、停車した車が連なっている。踏切は待ってさえいれば必ず開く。
 皐月は真帆のことが気になっていた。やはり真帆のことを怒らせてしまったんだろうな、と思った。
 皐月は江嶋華鈴えじまかりんのことも気にしていた。華鈴は千智にきつい言い方をしていたが、これは自分が華鈴を怒らせたせいだと思っている。華鈴や真帆を差し置いて、即座に千智のもとへ走って行ったのは失敗で、千智のところへ行くにしても何らかの気づかいをするべきだったと反省した。
 皐月が真帆を怒らせたのは、皐月が華鈴のことを軽く扱ったことだと考えている。その時は無意識だったが、あの時の皐月は確かに華鈴のことをないがしろにしていた。そう考えると、真帆が腹を立てるのも無理はないと思う。
 だが、それだけではないような気もする。皐月は何か真帆のことを軽んじたことがあったのではないかと思い返してみた。考えられるのは千智と二人で歩道橋の上で話をしていたことだ。
 思い当たることが見つかった。皐月はあの時、千智と二人の世界に入り込んでいた。もしかしたら真帆はそのことに疎外感を抱いていたのかもしれない。もしそうだとすると、皐月の言った「なんか、ずっとここにいたくなっちゃうな……」の一言が真帆を怒らせた引き金になったのかもしれない。
 複数の女の子を同時に相手にすることの難しさを改めて知った。皐月は自分のことを女の子と二人で話すことが得意だと思っていた。それはその時この世界に、自分と相手の子の二人だけしかいないと思いながら話ができるからだ。二人きりの場では、自分の全ての気持ちを相手に注ぐことができる。
 そこにもう一人別の女の子が加わると状況が複雑化する。二人で話をする時のような接し方をすると、残された一人を孤立させることになりかねない。それがたとえ短い時間であっても、残された子を傷つけてしまうことはあり得る。
 こういう人のさばき方は芸妓げいこの接客に通ずるものがあるのかもしれない。皐月は芸妓の誰かに客の捌き方を聞いてみたいと思った。ナンバーワン芸妓の明日美あすみに聞いても駄目だろう。明日美は客の相手が下手だと母の小百合さゆりに聞いている。母に聞けば的確なアドバイスをもらえそうだが、さすがに母に聞くことではない。若い芸妓のみちるかおるに聞くのがいいのかもしれない。あるいは老芸妓ろうげいこ京子きょうこか。京子が一番頼りになりそうだな……。

「ねえ、先輩?」
 隣にいた千智が話しかけてきた。皐月はまた黙りこくっていたようだ。
「何をそんなに一所懸命見ていたの?」
 皐月は歩道橋の下を流れる車の流れを見ているように見えたらしい。以前、喫茶パピヨンで栗林真理くりばやしまりが理科の問題に見入っていた時に、「見ているように見えるかもしれないけど、何も見ていないよ。集中しているから」と言っていたことを思い出した。自分も同じ境地にいたのかもしれない。
人気ひとけのない所よりも、ここみたいに車が絶えず走っていたり、いつも人が歩いている所の方が好きだなって思ってたんだ。だって誰かがいると思うと、寂しくないじゃん?」
「前に住んでいた東京がそんな感じだったよ。どこに行っても人がいっぱいだったから。確かに先輩にそう言われると、そうだったかもしれない。でも私、あまりそういう風に考えたことなかったな」
「中途半端な田舎って寂しいんだよな。いっそ自然に囲まれた田舎だと、もうちょっと安心感があるんだけど……」
「先輩って寂しがり屋なの?」
「そうみたいだね」
 千智に微笑ほほえまれた皐月は恥ずかしがり屋になっていた。いつもならばつが悪くて逃げ出したいと思うところだが、今はこのままずっと照れているのもいいかな、と思った。
「今日はどうして校門の前で待ってたの?」
 皐月は千智に、会ってからずっと気になっていたことを聞いてみた。
「塾が休みだから、先輩と会いたいなって思ったの」
「ホント? それは嬉しい!」
 あまりハイではない気分のところ、少し頑張って弾けるような笑顔を作って見せると、千智も今日一番の笑顔を返してくれた。千智の笑顔は皐月の作られた笑顔と違って本物だった。
祐希ゆうきから高校の文化祭のこと聞いてるよね。一緒に行く?」
「うん、行く!」
「じゃあ行こう!」
 校門前で見た憂いを含んだ千智から、二人で会っていた時の明るい千智に戻っていた。皐月は千智の顔が見たくなったので、膝をかがめて目線を合わせてみた。バイザーで陰になった顔を見ると、そこには圧倒的に可愛い千智がいた。
「えっ、どうしたの? 先輩」
「ちょっと顔が見たくなっただけ。千智がキャップを被ったままだから、こうしないと顔が見えないだろ?」
「あっ、ごめんね」
 千智が慌ててキャップを脱いだ。ずっと被ったままだったせいで髪の毛が少しぺちゃんこになっていた。こういうことは慣れているのか、千智は手櫛で髪を下から持ち上げて、髪をふんわりとさせた。皐月は千智の仕草が余りにも可愛くて、見惚れてしまった。
「最近、塾の帰りに駅で盗撮されたっぽいことがあってね、家の外でも帽子を被って顔を隠すようになったの」
「そんなことがあったんだ」
「うん。それで外でも帽子を被るようにしてたんだけど……先輩と一緒にいる時は脱げばいいのにね。なんか変に癖になっちゃって」
「気になるんだったら、キャップ被っててもいいよ」
「ううん。やっぱり先輩の前では素顔でいたい」
 皐月も千智の顔を見たいから、そう言ってもらえるのは嬉しい。でも、千智が犯罪まがいの出来事に遭遇したことを聞くと心配になってくる。
「これからはサングラスをかけたり、マスクをした方がいいのかな……」
「そんなに心配なんだ……」
「うん。だって今はみんなスマホ持ってるから」
「ああ……なるほど」

 皐月は同級生の博紀のことを思い出していた。
 目のクリっとして、黒目が大きい博紀は女子の間で人気があり、クラスではファンクラブまである。そんな博紀だが、ファンクラブができるまでは女子の間で盗撮写真が出回っていたことがあり、SNSに上げられたりして困っていたことがあった。
 SNS に強い新倉美優にいくらみゆと、博紀のことが好きなクラスのカースト最上位の松井晴香まついはるかが手を組んで、博紀を守るためにファンクラブを作った。美優がSNS に写真を上げている女子を特定し、晴香たちがその子らに圧力をかけた。これで完全に博紀の盗撮がなくなったわけではないが、見つけ次第そのつど対処をしていたので、盗撮騒ぎは次第に沈静化していった。
 皐月は博紀を近くで見てきたので、千智の憂鬱がよくわかる。皐月は芸妓の明日美が外ではいつもサングラスをしているのを思い出した。明日美が素顔を隠しているも、千智と同様、盗撮を警戒しているためかもしれない。同じ芸妓の満と薫はまるで警戒をしていないし、満はカメラを向けられたら喜んで被写体になりそうな気がする。
「先輩も気をつけた方がいいよ」
「えっ? 俺が?」
「先輩も格好いいから、写真撮られそう」
「それはないって。何言ってんの?」
「自覚ないんだ……」
「自覚?」
「そう。先輩って自分が格好いいことに気付いていない」
 皐月には自覚があった。最近よく背が高くなったとか、格好良くなったと言われているし、自分でもそんな気がしている。鏡を見ると、顔立ちが以前よりもシャープになったような気もしていた。だが、こんなことは相手が千智でも言えることではない。
「さっき先輩が水野さんたちを連れて出てきた時、変なオーラが出ていた」
「何だよ、その変なオーラって?」
「そんなのわかんないよ……」
 千智まで様子がおかしい。皐月には千智の機嫌があまりよくないように見える。千智に対しても何か失敗したのだろうかと考えたが、皐月には思い当たることがなかった。
「でも、悪いわけじゃないよ。どちらかといえばいい方っていうか、魅力なんだけど……」
「っていうことは、変な魅力があったってこと?」
「んん……まあ、そうかな」
「じゃあいいや」
 千智の言う「けど」が気になったが、いいならなんでもいいやと開き直った。なんなら千智から少しくらい悪く思われていても構わないとさえ思った。皐月の千智に対する意識がいつの間にか変わっていた。

 千智に先立って、皐月は歩道橋の階段を下りはじめた。千智が後から追い付いてくるのを待って、二人並んで階段を下りた。
 皐月は今までこの辺りを自転車で走ったことがなかったので、千智の通学路は新鮮だった。街路樹が植えられている歩道は広々として、歩きやすい。平成や令和の風情の住宅街の中に、所々昭和の建物が入り混じっている箇所があって、味わい深いおもむきを出している。
「ねえ、先輩?」
「ん? どうした?」
「さっきからずっと黙っちゃってる。私と二人でいても楽しくない?」
「そんなことないよ。何言ってんだよ、千智。そんなわけないじゃん! ただ、この辺りは歩いたことがなかったから、ちょっと街並みが珍しかっただけ。でも、こういう風景って商店街で育った俺には少し寂しい風景かな」
「また寂しいって言った……。先輩、今日はいつもと違うね。どうかしたの?」
 千智の表情が曇っている。今日は誰よりも自分が一番おかしいのかもしれない。
「いや……別にどうもしてないよ」
「私がさっき変なこと言ったから、気にしてるの?」
「ああ……俺から変なオーラが出てるってこと? 別に気にしてないよ。それに魅力があるって言ってくれたんだから、嬉しいし」
 皐月は立ち止まった。千智も遅れて立ち止まり、皐月の方を振り向いた。
「ねえ、千智。そろそろその『先輩』っていうの、やめてくれないかな? なんか微妙に距離を感じるんだけど」
「……わかった。じゃあ、皐月ちゃん」
「ちゃんっ! 皐月ちゃんか……。まあ、いいけど」
「冗談だよ。ちょっと美香みかちゃんの真似をしてみただけ。皐月君でいい?」
「いいよ。皐月ちゃんでもいいし、祐希みたいに皐月って呼び捨てにしてくれてもいい。気分次第で好きなように呼んでよ」
「じゃあ、これからは皐月君って呼ぶね。へへへっ……なんか慣れていないから恥ずかしいな」
 皐月は千智にずっと名前で呼んでもらいと思っていた。千智は先輩という呼び方に思い入れがあったようだが、皐月は軽く嫌悪感を覚えていた。皐月の提案におどけて応えてくれた千智のことが皐月にはありがたかった。
「俺も千智のこと、千智さんとか千智ちゃんって呼ぼうかな」
「先輩の好きなように呼んでくれていいよ」
「先輩?」
「あっ! 言っちゃった……」
「徐々に慣れていこうか」
 皐月たちは道の狭い住宅地にいた。ここはもう二見町ふたみちょうだから、千智の家はこの辺りにあるのだろう。なんの余情もないこの場所で、皐月はこれ以上何も話したくなくなっていた。


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