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歩道橋の上から眺める景色(皐月物語 101)

 秋風が子供たちのいない校庭を吹き抜ける頃、稲荷小学校は最終下校時刻を迎えていた。
 修学旅行実行委員会で委員長を務めている藤城皐月ふじしろさつきしおり作りをなし終えた達成感で心が軽くなっていた。実行委員になった時は、できるだけ早く委員会を終わらせて帰ることばかりを考えていたが、今では副委員長の江嶋華鈴えじまかりんと書記の水野真帆みずのまほと一緒に、少しでも長く仕事をしていたいと思うようになっていた。
 この日はクラブ活動もなく、最後まで学校に残っている児童がほとんどいなかった。皐月たちは最終下校をしらせる「遠き山に日は落ちて」を聞きながら閑散とした校内を歩き、三人揃って校門を出ようとしていた。皐月は真帆と別れた後、華鈴と二人で家に帰るのを楽しみにしていた。

 華鈴は5年生の時、担任の北川先生の意向で半年もの長期間にわたってずっと皐月の後ろの席にされていた。このいびつな席の配置は、問題児と思われていた野上実果子のがみみかこの目付け役として華鈴が指名されていたからだ。実果子はクラスで暴力沙汰を起こし、男女問わずクラスメイトから恐れられていた。
 皐月もずっと実果子の隣の席だった。当時の皐月は、自分も実果子の目付け役のつもりでいたが、実際は皐月も華鈴に監視されていたと、後に華鈴から聞かされた。皐月は授業中でも隣の席の女子とお喋りをしていて、よく先生に怒られていた。そんな皐月を封じるために、北川先生は皐月を実果子の隣の席にを置いた。
 北川先生の目論見の半分は上手くいき、半分は上手くいかなかった。上手くいったのは実果子の暴走を抑止できたことで、クラスは落ち着きを取り戻した。上手くいかなかったことは皐月のお喋りを止めることができなかったことだ。皐月は実果子とお喋りをするにとどまらず、華鈴も巻き込むようになっていた。華鈴にたしなめられたことで皐月は声を抑えるようになったので、先生からは実果子との多少のお喋りは大目に見られるようになった。
 皐月は華鈴や実果子と過ごす5年生の後半がこれまでの小学校生活で最も楽しかった。その頃は何とも思わなかったが、学年が変わり、華鈴と別々のクラスになると、華鈴が自分のそばにいない学校生活に寂しさを感じるようになっていた。だが新しいクラスは刺激的で、皐月は華鈴のいない教室にもすぐに慣れた。
 修学旅行実行委員会で華鈴と再会した時は懐かしかった。クラスが離れれば話をする機会がなくなる。皐月が委員長になり、華鈴が副委員長になったことで、二人で話をすることが増えた。初めこそぎこちない二人だったが、委員会を重ねるごとに、昔のように話せるようになった。華鈴は児童会長になり、すっかり大人びていたが、それでも時々見せるの部分は5年生の時と何も変わっていなかった。
 気が付くと、皐月と華鈴は5年生のころと比べて距離はぐっと近くなっていた。修学旅行実行委員で遅くなった日、皐月と華鈴は初めて二人で下校をした。華鈴が皐月の家に寄り、皐月は華鈴の部屋に上げてもらうまでの仲になっていた。
 だが、皐月には華鈴に対して幼馴染の栗林真理くりばやしまりや、芸妓げいこ明日美あすみに抱いているような恋心があるわけではない。それでも皐月は華鈴に対して異性として好意は持っていて、華鈴のことを魅力的だと思っている。タイミングが合っていれば、華鈴とは恋仲になっていたかもしれないと思うこともある。皐月にとって華鈴は一緒にいると心安らぐ存在だ。

 校門の門柱にキャップをかぶった女の子がもたれかかって立っていた。皐月はその子が入屋千智いりやちさとだとすぐにわかった。
「ちょっと俺、用があるからここで。じゃあ、また明日」
 皐月は少し強引に華鈴と真帆に別れを告げた。華鈴に見られていることはわかっていたが、構わずに千智のところへ駆け寄った。
「千智、どうした?」
「うん……先輩のこと、待ってた」
 千智は不安げな顔をしていた。皐月と会う時はいつもキャップを取るのに、この時はキャップを取らなかった。
「だいぶ待ったんじゃないのか?」
「ううん。先輩たちが委員会をやっていたのは知っていたから、終わる時間に合わせてここで待ってたの」
「そうか……」
 皐月は千智がこういう行動を起こすタイプではないと思っていたので、何か事情があるのではないかと心配になった。だが、このまま校門の前で話を聞けるはずがないので、すぐにここから移動しなければならない。皐月は千智を家に送る道すがら、じっくりと話を聞こうと思った。
 皐月と千智が帰ろうとすると、華鈴と真帆がまだその場で立ち止まって、皐月たちのことをじっと見ていた。皐月と帰る方角が同じ華鈴は途中まで皐月と一緒に帰るつもりでいたのか、皐月と千智に不審の目を向けている。二人を無視して千智と帰るわけにはいかないと思い、皐月は華鈴と真帆に千智を紹介することにした。
「ええと……。彼女のこと、紹介するね。5年生の入屋千智さん。俺の友達」
「初めまして。入屋です」
 千智は脱帽して、礼儀正しく礼をした。千智が顔を上げると、真帆が目を見開いて驚いていた。
「初めまして。江嶋です。入屋さんは3組だったわね」
「えっ? どうして知ってるんですか?」
「私、全校生徒のことを把握してるから」
 華鈴らしくない言い回しだな、と皐月は思った。
「江嶋は児童会長だから、この学校の児童全員に気を配ってるんだ。こっちの彼女は水野さん」
「初めまして。入屋です」
「こちらこそ初めまして。水野です」
 真帆からは華鈴のような攻撃性を感じられなかった。
「知ってるかもしれないけど、水野さんも児童会役員で、書記をやってるんだ。修学旅行実行委員会でも書記をやってくれて、俺のことを助けてくれている」
 皐月の話が止まると、たちまち沈黙が流れる。空気の重さを感じた皐月はここでこれ以上会話を続けようとしても仕方がないと思い、千智を連れてこの場を離れることにした。
「俺、入屋さんのこと、家まで送らなければならないから行くね。じゃあ、明日の中休みにまた。バイバイ」
 皐月は華鈴と真帆に手を振り、千智は丁寧に頭を下げた。いつもの帰り道を左折せずに通り過ぎ、県道495号線に出る手前の分かれ道を前にして皐月は千智に尋ねた。
「どっち?」
「右」
 前に二橋絵梨花にはしえりかと一緒に帰った道と同じだった。だが、千智の住んでいるところは二見町ふたみちょう。皐月の行動範囲外なので、地理がよくわからない。
「家は稲荷口いなりぐち駅の近くだったよね。学校からだと、この道で帰るんだ」
 皐月の知識では稲荷口駅に行く経路は別の道しか思い浮かばなかった。
「うん。姫街道ひめかいどうの向こうに住んでいる人は、歩道橋を渡らなきゃいけないんだって。学校って安全策が徹底しているよね」
「学校としては児童にはできるだけ横断歩道を渡らせたくないってことなんだろうな。あの歩道橋のところって横断歩道がないから、自転車で横切ることってないんだよな」
「そうなの。だから前に先輩の家に行った時は豊川稲荷とよかわいなりの横を通って行ったんだよ。私、こっちに引っ越して来てからまだそんなに日が経っていないから、道がわからなくて、一所懸命地図を見たよ」
「千智んから俺ん家だったら、名鉄めいてつに乗って豊川稲荷駅まで行くのが一番いいかも。今日は俺、名鉄に乗って家に帰るつもりだし」
「そうなんだ……。さっき先輩が私のこと、家まで送って行くって言ったから、えっ? どうしようって思ったの」
「なんだ、それ? じゃあ、どうして校門の前で待ってたんだよ?」
「んん……何も考えてなかった」
 二人で笑い合ってはいたが、皐月は聡明な千智にしては軽率な行動だと思った。
「先輩、電車代使わせちゃうことになってごめんね」
「いいよ。俺、電車に乗るの好きだし。それに豊川線で稲荷口駅だけ乗り降りしたことなかったんだよね。これで豊川線全駅コンプリートできる」
 皐月は鉄道ヲタクの友達、岩原比呂志いわはらひろしの影響で乗り鉄に興味を持ち始めていた。名鉄豊川線の駅の諏訪町すわちょう駅はショッピングモールのプリオに行く時に、八幡やわた駅は祖母が入院していた豊川市民病院に行く時やイオンモールに行く時利用したことがある。国府こう駅は比呂志と一緒に鉄道写真を撮りに行った。だが、稲荷口駅は自転車で通りかかることはあっても、鉄道で利用したことがなかった。
「千智は名鉄に乗って塾に通ってるんだよな。いいな~、鉄道に乗れて」
「えっ? 電車に乗ってるだけだよ?」
 千智はクスクスと笑っていた。鉄道の趣味は女性から嫌悪感を抱かれることが多いと比呂志から聞かされていたが、千智からはそんな空気を感じなかった。いつか千智と鉄道に乗って遊びに行ってみたいな、と皐月は比呂志と鉄道写真を撮りに行った時に空想した。千智の反応を見ると、この夢は叶いそうな気がした。

 姫街道の歩道橋を渡ろうとした時、ふと後ろを見ると、距離を開けて真帆が一人で歩いているのが見えた。皐月は華鈴と真帆から離脱した瞬間、意識を全て千智に振り向けていたので、真帆が同じ通学路の新宿町しんじゅくちょうに住んでいることを忘れていた。
 皐月は歩道橋を上らないで立ち止まった。真帆に気が付いた以上、声をかけないわけにはいかなくなった。
「ねえ、千智。俺、ちょっと水野さんに声をかけてくるわ。あの子が同じ通学路だと思わなかった」
「うん」
 皐月はうっかりを装い、嘘をついた。帰り道が同じなら、最初から真帆を誘うべきだ。皐月は千智に友達を置いて行くひどい奴だと思われたくなかった。
「水野さんと途中まで一緒に帰ってもいい?」
「うん、いいよ」
 修学旅行実行委員会の時と違って、一人で帰り道を歩いている真帆は委員会の時よりも小さく見えた。皐月は真帆の元へ駆けていったが、ランドセルが背中で暴れて走りにくかった。
「どうしたの?」
 真帆がきょとんとしていた。
「俺……水野さんもこの通学路だってこと、気付かなかった。水野さんって新宿町だよね? 俺、新宿町って行ったことないから、場所がよくわからなくて……」
「私も委員長の住んでいる栄町さかえまちって、どこら辺なのかよくわからない」
 皐月には真帆が気分を害しているようには見えなかった。少し気が楽になった。
「途中まで一緒に帰ろうよ」
「えっ? ……別にいいけど、二人の邪魔にならない?」
「邪魔じゃないよ。変な気、まわさないでよ」
「ふ~ん」
 千智が歩道橋の階段の前で待っている。真帆を促して、皐月は千智の元へ歩き出した。
「ねえ、委員長」
「ん? 何?」
「今日は会長と一緒に帰るつもりだったんでしょ?」
「まあ、方角が同じだからね。でも、そういう約束をしてたわけじゃないけど」
「そう……」
 真帆の表情が曇ったような気がした。
「後で江嶋にメッセージ送っておくよ。水野さんと三人で帰ったって」
「私のこと、しに使うの?」
「ダメか?」
「まあ、いいけど」
 皐月は真帆のことを利用しようとしていたことを自覚していなかった。真帆に言われてハッと思ったが、言い訳はできなかった。
 千智がキャップを取って真帆に再び礼をした。皐月は千智にも真帆にも余計な気を使わせたことに罪悪感を覚えた。いっそ真帆に気付かないふりをして、千智と二人で先に進んでしまえばよかった。
「入屋さんって村中君と同じ通学班だよね?」
「あっ、はい」
「ウソ?!」
 皐月は思わず絶句した。村中茂之むらなかしげゆきは皐月の同級生だ。昼休みによく一緒にドッジボールなどをして遊ぶ仲だ。
「あなたのこと、見たことあるなって思ってたの。女の子なのにキャップをかぶってたから印象的だった」
「そうだったんですね……」
「うん。私、そういうキャップって全然似合わないから、羨ましいなって思ってた」
「そんな……水野さんだって似合うキャップありますよ」
「あればいいんだけど、まだ見つかっていないな……」
「水野さんはマカロンキャスケットが似合うんじゃない?」
 皐月はキャスケットが真帆に似合うと思った。キャスケットでもころんと丸くて可愛い、マカロンキャスケットが特に似合いそうだ。
「委員長、そのマカロンキャスケットってどんな帽子?」
「丸くてふんわりとした感じの帽子なんだけど、ちょっと画像出すね」
 皐月はランドセルからスマホを取り出して画像検索をして見せた。
「可愛い~」
 真帆よりも先に千智が喜んでいた。真帆も興味を持って見てくれた。
「確かに可愛いけど、これってモデルが可愛いから帽子も可愛く見えるだけで、私がかぶったら可愛くなくなるかも……」
「そんなことないよ。水野さんだって可愛いじゃん。絶対に似合うって」
 真帆が顔を赤くしていた。すぐに顔を赤くする真帆のことを皐月は可愛い人だなと思った。真帆が先に歩道橋を上って行ったので、皐月と千智は後を追った。

 皐月がこの古宿ふるじゅく歩道橋を渡るのはこれで二度目だ。初めて渡ったのは5日前で、絵梨花と歩いた時だ。二人並んで歩道橋から姫街道を行き交う車を見ていた時間は、皐月にとって至福の一時だった。
「歩道橋の上から見る景色っていいよね」
 絵梨花が皐月に言った言葉をそのまま千智と真帆に言ってみた。台詞の使いまわしだ。
「うん。東京からこっちに引っ越してきて、最初に好きになったのがここからの眺めだった」
「へえ~。どうして千智はここから見た景色を好きになったの?」
「転校して来てからしばらくは不安が多かったんだけど、この歩道橋の柵越しに俯瞰ふかんしたら、『あ~、ここがこれから私が暮らす街なんだな~』って腑に落ちたの」
「ああ、それわかるわ。俺も駅の跨線橋こせんきょうからプラットホームを見下ろすと、この駅に確かに来たっていう実感が湧くよ。こういう感覚って、Googleマップで鳥瞰ちょうかんしてもわかんないよな」
 皐月の言葉を聞いて、千智は嬉しそうに笑っていた。皐月は転校の経験がないので、千智が感じた不安はよくわからない。だが、ここからの眺めが千智の救いになった感覚はわかるような気がした。
 千智と話していて、皐月は改めて千智と絵梨花が同じ時期に転校してきた偶然に神秘的な縁を感じた。転校生なんてそんなに多くはないのに、同じ時期に豊川に転校してきて、その二人と縁を結ぶことができた。皐月はこのことが不思議で、何か意味があるような気がした。
「なんか、ずっとここにいたくなっちゃうな……」
 今は千智や真帆と一緒にいるのに、皐月はこの瞬間を絵梨花といた時の幸福感と重ねていた。
「私、親が心配するから先に帰るね。二人はここにいればいいよ」
 真帆が委員会の時と同じ顔、同じ口調で言った。真帆の淡白さに慣れていない千智に緊張が走った。
「いや、本気でずっとここにいようと思っているわけじゃないんだ」
「わかってる。でも、二人はお話があるんでしょ。だから私、やっぱり邪魔をしたくない。委員長、明日は栞の印刷だから手伝いに来てね。じゃあ、また明日」
 真帆は手を振って、皐月たちを置いて歩道橋を下りて行った。真帆を見送りっていると、皐月は千智と一緒にいるのにもかかわらず、ひどく寂しくなっていた。


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