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藤城皐月の楽しい小学校生活(皐月物語 100)

 月曜日の朝、藤城皐月ふじしろさつきはいつもより朝早く目が覚めた。これから小学校へ行けることが楽しみで、起きた瞬間からテンションがマックスだ。
 大好きな栗林真理くりばやしまりと教室で会える。高嶺の花のような二橋絵梨花にはしえりかや、文学の香りがする吉口千由紀よしぐちちゆきとも会える。土曜日に二人で自転車で豊川とよかわ市内の神社を巡った神谷秀真かみやしゅうまや、日曜日に二人で豊橋とよはし駅周辺で鉄道の撮影をした岩原比呂志いわはらひろしとも会える。
 今日の昼休みには3組とドッジボールの試合がある。球技の好きな皐月は昼休みのクラス対抗戦が何よりも楽しみだ。自称キャプテンの村中茂之むらなかしげゆきからは今日こそは付き合えと誘われていた。助っ人で筒井美耶つついみやも参戦するので、茂之がいつも以上に張り切っているのだろう。美耶はエースの月花博紀げっかひろきにもひけをとらない身体能力だ。今日の6年4組はベストメンバーだから、絶対に負けられない。
 放課後の修学旅行実行委員会ではアンケートが各クラスから集まってくる。みんなが修学旅行でどこに行くのを楽しみにしているかがわかるので、今から楽しみだ。副委員長の江嶋華鈴えじまかりんと、書記の水野真帆みずのまほと三人を中心で進めてきた修学旅行のしおり作りは、この作業が片付けば終わりが見えてくる。二人と一緒にする仕事は小気味好くて、自分まで有能になったような気になれる。皐月が委員長としてやってこられたのは華鈴と真帆のお陰だ。

 皐月が自分の部屋を出て洗面所で顔を洗おうとしたら、すでに及川祐希おいかわゆうきが念入りに身なりを整えていた。
「おはよう、皐月」
「祐希、おはよう。今朝は早いね」
「今週から少しずつ文化祭の準備をしなければならないから、早く学校に行かなきゃいけないの。帰りも少し遅くなるから、夕食はお母さんと二人で食べててね」
「うん……わかった」
 普段通りのルーティーンをこなしている祐希を見ていると、昨日の夜のことがなかったかのように思えてくる。皐月も昨晩の祐希とのやりとりを思い出すと恥ずかしいので、祐希に倣って普段通りに振舞うよう心がけることにした。
 顔を洗い終わった皐月は、祐希のドライヤーを借りて髪をセットした。皐月は最近、一部の女子から格好良くなったと言われるようになった。それは祐希にドライヤーの使い方を教えてもらったからだ。髪を手入れするようになって、自分でもビジュアルがワンランク上がったと思う。
美紅みくがね、皐月と会えるのを楽しみにしてるんだよ」
「ふ~ん」
「文化祭、絶対に来てね」
 皐月が顔を洗い終わっても、祐希は髪を整えていた。皐月も祐希の友達の黒田美紅くろだみくとは会ってみたいと思っていた。美紅から自分の知らない祐希の話をいろいろ聞いてみたい。だが、文化祭に行っても祐希の恋人とは会いたくない。鏡越しに祐希を見ながら、皐月はまだ祐希に対して恋心が残っていることを知り、複雑な気持ちになった。

 一階に下り、台所に顔を出すと母の小百合さゆりと祐希の母の頼子よりこが朝食の準備をしていた。二人はお喋りしながら楽しそうにしている。皐月はこの光景を見ると幸せな気持ちになる。
「おはよう……」
「皐月ちゃん、おはよう」
 小百合と頼子が二人でいる時は、いつも頼子が先に挨拶を返してくれる。
「おはよう。今朝はいつもよりも早いね。ご飯はまだできていないから、一人でモーサテでも見てればいいよ」
「今日も見なくていいや。ご飯ができるまでの間、勉強してる」
「最近は勉強熱心なのね」
「うん。算数が面白くて。それに、できるようになりたいし。千智ちさとって俺よりも算数ができるんだよ。たまに勉強を教えてもらうんだ」
「千智ちゃんってまだ5年生でしょ? 6年生のあんたに勉強を教えられるの?」
「千智は賢いよ。真理よりも勉強ができるんじゃないかな」
「まあ……凄いのね」
 皐月は居間で『応用自在 算数』を読み始めた。問題量が多いので、皐月は解くのをやめて、どういう理屈で解答を導くのかという理解に重点を置くことにした。読むだけなのでどんどん先に進む。もうすぐ読み終わるので、次は一度挫折した『特進クラスの算数』だ。
 最近は学校の小テストでも120点が取れるようになってきた。100点以上の20点は中学受験の問題が出る。最近は皐月でも真理や絵梨花のように小テストの力試しの問題なら解けるようになった。だが、入試で出題されるようなガチの応用問題はきっと無理だろう。自分で勉強をし始めて、真理や絵梨花、そして入屋千智いりやちさとの凄さがわかった。
 祐希が二階から下りてきた。制服に着替え、スクールバッグを持った祐希が家の中にいるという状況に皐月はまだ慣れていない。セーラー服姿の祐希は私服の時よりも3倍はかわいい。今でも皐月は登校前の祐希を見るたびにドキッとする。
 小百合と頼子が朝食を居間へ運んできた。焼き魚と御浸しと味噌汁という、オーソドックスな献立だ。
「わあっ、美味しそうだね」
「ありがとう、皐月ちゃん」
「ママって魚料理、全然作ってくれなかったから、こういうのって嬉しい」
「ちょっと皐月、私だって魚料理くらい作ったでしょ?」
「刺身買って来て、切っただけじゃん。あっ、切ってある刺身か」
「しらすだって出してあげたでしょ。あとヤマサのちくわも」
 頼子が爆笑すると、小百合も大笑いした。だが皐月は苦笑いしかできなかった。
 小百合が BGM 代わりに録画中のモーニングサテライトを追っかけ再生した。経済ニュースに付き合わされる祐希と頼子に悪いんじゃないかと、皐月は小百合に聞いたことがある。小百合曰く、一般のニュースは暗い世相や政治家たちの腹立たしい言動、悲しい事件が報道されることがあり、朝から嫌な気持ちになりたくないとのことだ。経済ニュースならそこまで負の感情になることはないと小百合は言うが、自分が持っている金融商品が値下がりすると機嫌が悪くなる。こういう時、皐月は朝から嫌な気持ちになる。
 小百合のいる四人で食事をしている時は、小百合がいない三人の時よりも会話が弾む。小百合と頼子は高校時代の同級生だったこともあるのか、二人が話し始めると止まらなくなる。だからといって、二人だけで盛り上がるわけではなく、皐月や祐希にも話を振ってくれる。だから皐月は四人の朝食の時に疎外感で寂しい思いをしたことがない。
「皐月、今度明日美あすみと一緒に服を買っておいで」
「えっ? なんで明日美と?」
「だってあんた、私が選んだ服、嫌がるでしょ? タクシーの中でそんな話をしてたら、明日美が服を選んであげるって言うのよ」
「ホント? それは嬉しいな。前に明日美の私服姿を見たことがあるんだけど、すっげーカッコ良かった。明日美が選ぶ服なら間違いない」
「どうしてあんたは私が選ぶ服を嫌がるのよ?」
「え~っ、だってママの買ってくる服って地味じゃん」
「地味じゃなくてシックなんだって」
「でも微妙にオッサン臭いんだよな……」
 皐月は華やかなファッションに憧れているので、渋好みの小百合とは趣味が合わない。
みちるもあんたに服を買ってあげたいって言ってるのよ。どうする?」
「満姉ちゃんも? 嬉しいけど、変な服を着せられそうだな……」
「あの子ならあんたのことを着せ替え人形みたいにして遊んでみたいんだろうね。断っておこうか?」
「いや、いいよ。俺、満姉ちゃんと服、買いに行ってみようかな。面白そうだし」
「わかった。じゃあ、二人に話を通しておくね。メッセージのアカウント、教えちゃってもいい?」
「いいよ」
「じゃあ、後はあんたらで話をつけておいて」
 皐月はこんな形で明日美と会えることになるとは思ってもいなかった。皐月はまだ明日美とプライベートで会ったことがない。明日美の仕事や体調のことを考えると、皐月は会いたくても自分から会いたいとは言えなかった。だが、明日美の連絡を待っていれば会える時が必ず来るようになった。こんな嬉しいことはない。

 食事を終えると、すぐに祐希が登校のために家を出た。頼子と小百合が台所で片づけをしに行くと、皐月は自分の部屋に戻り、ランドセルを持って再び居間へ下りてきた。スマホでタイマーをセットして、登校時間まで勉強を始めた。
 皐月は今、『応用自在 算数』の第6編「さまざまな文章題」のところを読んでいる。線分図や面積図を使って問題を解くのは面白い。千智は最近、文章題を方程式で解く練習をしているという。中学で習う連立方程式や一次関数を使って解くのは、中学の数学の先取りになるらしい。千智は抽象的な数学も面白いけれど、直観的な算数の方が解いていて楽しいと言っていた。
 タイマーが鳴ったので、皐月は登校前に小百合と頼子に挨拶をして家を出た。皐月の家の前が班登校の集合場所だ。皐月が一番乗りだったが、すぐに3年生の岩月美香いわつきみかと4年生の山崎祐奈やまざきゆうながやって来た。
「美香ちゃん、祐奈うなちゃん、おはよう」
「皐月君、おはよう」
「おはよう、皐月ちゃん!」
 美香は皐月のことを皐月ちゃんと呼ぶ。前に千智と美香の教室に行った時に、千智の前で皐月ちゃんと呼ばれて以来、千智からは時々ちゃん付けで名前を呼ばれるようになった。
「あれっ? 美香ちゃん、カラーし直した?」
「うん。ちょっと色が落ちてきちゃったから。皐月ちゃんも染め直した方がいいよ」
「そうだね……修学旅行前に一度、美香ちゃんのお店に行こうかな」
「おいでおいで~」
 美香の家は美容室だ。皐月は髪のカットは馴染みの床屋でしているので、カラーだけを美香のお母さんにしてもらう。
「祐奈ちゃんもカラーする?」
「私はいいかな……。だって美香ちゃん、先生に嫌なこと言われたんでしょ?」
「うん。でも友達はみんな褒めてくれたよ。それに髪を染めたら皐月ちゃんが心配して教室に来てくれたの」
「え~っ。皐月君なんかが来て、何が嬉しかったの?」
 祐奈になんか呼ばわりされた皐月は苦笑するしかなかった。でも祐奈が相手だと腹は立たない。
「皐月ちゃん、アイドルみたいな女の子を連れて来てくれたんだよ」
「えっ? それどういうこと? ねえ皐月君。美香ちゃんのとこに女の子と一緒に行ったの?」
「ああ。祐奈ちゃんが好きな入屋さんと一緒に行ったんだ」
「嘘っ! マジで? 美香ちゃん、入屋さんとお話したの?」
「少しだけ話したよ。皐月ちゃんが私の友達に『美香ちゃんのこと守ってあげてね』って言ってくれたから、友達が『いいよ』って言ってくれて、それで入屋さんが友達に『ありがとう』ってお礼してくれたの。その後、私の髪のこと褒めてくれた」
「いいな……。ねえ、皐月君。私のクラスにも入屋さん連れて来てよ」
「なんだよ。さっきは俺なんかが来て何が嬉しいのかって言ってたくせに」
「入屋さんがいるなら話は別!」
 祐奈は同じ町内の月花博紀げっかひろきに憧れているので、皐月はあまり優しくしてもらえない。祐奈を見ていると、同じクラスの松井晴香まついはるかのことを思い出す。晴香は博紀のことが一番好きだが、自分のことも嫌いではないと皐月は思っている。それどころか博紀に次いで二番目に好かれているような気がする。皐月は祐奈に晴香と同じ雰囲気を感じる。
「祐奈ちゃん、千智は俺には絶対にそういう言い方しないよ」
 皐月にしては珍しく、祐奈を冷たい目で見下ろした。祐奈の顔色が変わったタイミングで背を向けると、祐奈が皐月の腕を掴んだ。
「おはよ~。朝から仲がいいね~、祐奈ちゃんと皐月君は」
 喫茶パピヨンのマスターの息子、今泉俊介いまいずみしゅんすけがやって来た。俊介はいつも朝から元気がいい。俊介の的外れの言葉に、祐奈は何も言い返せなかった。皐月は祐奈の肩を抱いて話しかけた。
「こないださ、俊介と千智と一緒に麻雀したんだ。直紀なおきと博紀もいたよ。今度そういう機会があったら、祐奈ちゃんも一緒に遊ぶ?」
「えっ……いいの?」
「ああ。麻雀じゃなくて他の遊びでもいいよ」
「皐月ちゃん! 私も一緒に遊ぶ!」
「そうだね。美香ちゃんも一緒に遊ぼうか」
 無邪気に喜ぶ美香の横で祐奈がほっとした顔をしていた。皐月は軽く祐奈を引き寄せた後、にこっと笑って祐奈から離れた。
「皐月君。僕さ、最近入屋さんの挨拶できるようになったよ」
「へぇ~。千智が他のクラスの男子と挨拶するなんて珍しいな」
「でも話はまだできていない。廊下ですれ違った時に僕が手を上げると、入屋さんが帽子のツバをクイッってやってくれるだけ。一緒にいた友達に羨ましがられたな」
「それって適当にあしらわれているだけなんじゃないの?」
「そんなことないって。バカだな~、皐月君は。女の人にとって帽子は服装の一部だから、挨拶でいちいち帽子を取らなくてもいいんだよ。それに、僕は入屋さんに反応してもらえるだけでも嬉しいんだから」
「そっか……。一度は一緒に遊んだ仲だもんな。敬意を表してくれたんだ。でも、千智は校内ではなるべく男子と話をしないようにしてるんだから、そっとしておいてやれよ」
「えっ? なんで?」
「いろいろあったんだよ。女子の間の問題だから、直紀に聞いてもわかんないと思う。俺に聞いても、何も教えてやらないからな」
「んん……、わかった」
 皐月の家の隣の旅館に住んでいる近田こんだ兄弟がやって来て、班のみんなが揃った。皐月としてはもっと早く学校に行って、クラスのみんなとお喋りをしたいところだが、集団登校だとそうはいかない。東京に住んでいた千智は個別登校だったと言う。皐月は個別登校に憧れたこともあったが、今朝のようにこうして近所の子たちとお喋りするのも楽しい。だが、嫌な奴が同じ班にいたら地獄だろうなと思う。

 この日、校門の前で児童たちを出迎えていたのは校長の伊藤先生だった。校長が校門前に立つのは珍しい。
「おはようございまーす!」
 皐月たちの班はみんなで元気良く挨拶をしようと決めている。これは皐月の提案で、皐月たちの班はいつも列を乱して登校しているので、そのことを注意される前に元気に挨拶をして好印象を与えようという作戦だ。
「おはよう。藤城君たちの班はみんな元気ね」
「先生。今日はいつもよりカジュアルだね。スーツで決めている時よりも、こっちの方が好きかも」
「今日は外出する用事もないし、来客の予定もないから気が楽なのよ」
「校長先生でもそんなこと気にするんだね。……あれっ? その指輪……フリージア?」
「そうなの。藤城君、よくわかったわね」
「わかるよ。僕もフリージア、好きだから。フリージアって可愛いよね」
 校長は皐月に見えやすいように、右手を目の高さまで上げてくれた。皐月は手を取って、顔を近づけて見た。祐奈や美香も寄って来て、皐月と一緒に指輪を見た。
 校長のしている指輪はシルバーの花弁かべんの中に、ゴールドメッキの花蕊かずいがいいコントラストになっていて美しい。繊細な造形なので、どこかにひっかけて壊してしまいそうな危なっかさもある。
「先生。この指輪、よく似合ってるね。いいな……」
 皐月はこの指輪を見ながら、いつか真理や明日美にもフリージアのアクセサリーをプレゼントしたいと思った。
「ねえ、藤城君。そろそろ手を離してもらってもいいかな?」
 顔を上げると、校長が恥ずかしそうな顔をしているので手を離した。皐月は最近、こういう反応に慣れてきた。
「先生って、手も綺麗だね」
「ありがとう。今日も学校、楽しんでね」
 皐月たちの後から別の班が次々とやって来た。校門を抜けた皐月に背後から声がかかった。
「おい、藤城!」
「なんだ、野上じゃん。おはよう」
「おはー。お前、なに校長とイチャついてんだよ」
 6年3組の野上実果子のがみみかこだった。5年3組の時に同じクラスで、2学期からずっと同じ班だった子だ。金髪で乱暴な言葉遣いをする実果子のことを祐奈と美香が怖がっている。
「なんだ、お前も俺にイチャイチャしてもたいたいのか? してやってもいいぞ」
気持ち悪いきめえこと言うな、バカ」
 祐奈や美香に手を振って別れた皐月は、実果子と一緒に玄関の靴箱へと向かった。皐月はさっき見た校長の指輪の話を実果子にした。だが実果子はそういったアクセサリーにあまり興味がないようだ。
「野上って最近ハマってることってある?」
「ハマってることか……そうだな、最近は料理を作るようになったかな」
「料理! いいじゃん。どんな料理作ってんだよ?」
「どんなって、よくある食いもんだよ。自分が普段食べるような、普通の飯だな」
「へ~。じゃあ自分の食べるものは自分で作ってんの?」
「まあな。今までは親父に金もらって、好きなもん買って食ってたけど、飽きるんだよな、買い食いって」
 実果子の家族は父親だけで、トラックの運転手をしている。仕事で疲れている父親の代わりに実果子が家のことをやっているが、家事は好きではなく嫌々やっていると言っていた。そんな実果子が料理を作っていると聞くと、皐月は嬉しくなってきた。
「華鈴がときどき料理を教えてくれるんだよ。あいつん家って中華料理屋だろ。華鈴が教えてくれる料理は店の味だから、美味うめぇんだ」
「そうか……。今度お前の作っためし俺にも食わせろよ」
「オレの飯よりも華鈴に飯食わせてもらえよ。あいつの作った飯の方が美味いから」
「江嶋の料理も食べてみたいけど、俺はお前が作った飯を食ってみたい」
 実果子が複雑な顔をして笑っている。人前ではほとんど笑わない実果子の笑顔はなかなか可愛かった。

 6年4組の後ろの出入り口のところで実果子と別れて、皐月は教室に入った。近くの席の松井晴香まついはるかがずっとこっちを見ていた。
「おはよう。どうかした?」
「おはよう。藤城って野上さんと仲いいんだ」
「5年の時、同じクラスだったからな。半年くらいずっと席が隣だったし」
「ふーん」
 実果子は晴香にとって苦手なタイプなんだろうな、と皐月は思った。お洒落な晴香にしてみれば、いつもジャージ姿の実果子とは趣味が合わないだろう。それに晴香に限らす、気が強く言葉が乱暴な実果子は男女問わずみんなから恐れられている。見た目が金髪なのも近寄りがたい雰囲気を出している。
「松井はいつもお洒落で可愛いな」
「ありがとう……」
「野上も松井くらいお洒落おしゃになれば、いい女になると思うんだよな~」
「そう思うなら、藤城が言ってやればいいじゃん」
 晴香の視線を背中に感じながら、皐月は自分の席に向かった。皐月の周りの吉口千由紀よしぐちちゆき二橋絵梨花にはしえりか栗林真理くりばやしまりはすでに席についていた。岩原比呂志いわはらひろし神谷秀真かみやしゅうまはまだ登校していない。
「おはよう」
 自分の席まで来た皐月は三人に声をかけた。
「おはよう」
「おはようございます」
 千由紀は読んでいた本にしおりを挟み、絵梨花は読んでいた問題集を机に置いた。少し遅れて真理が振り返った。
「おはよう」
 真理の表情がいつもよりも柔らかかった。皐月は席に座り、机の中にランドセルの中身を入れながら真理に話しかけた。
「今日は何の勉強をしてんだ?」
「ん~、国語。私ね、昨日の夜から急に国語ができるようになったみたい。ブレイクスルーがあったかも」
 あれから勉強したのかよ、と皐月は真理の精神力に驚いた。ただ余韻に浸っていた自分とは大違いだ。
「ブレイクスルーって、何か限界突破でもしたのか?」
「苦手だった国語の記述問題がはっきりとわかるようになってきた。あれって一度わかるようになったら簡単なのね。あとは時間短縮の訓練を積むだけだわ」
「へ~、なんかすげーな。どうして急にできるようになったんだ?」
「私もよくわかんないんだけど、大人になったのかな」
 意味深なことを言う真理だ。皐月は大人になったという言葉にドキッとした。真理が学校では絶対にしない艶めかしい顔をしていたので、絵梨花や千由紀に二人の関係を気付かれやしないかと冷や冷やした。
「最近は塾の推薦図書じゃない小説を読んだり、千由紀ちゃんや絵梨花ちゃんと文学の話をするようになったから、そういう体験が良かったのかも」
 千由紀も絵梨花も真理の話を興味深く聞いていた。
「そんなんで成績が伸びるか? 真理の今までの努力が結実しただけなんじゃないの?」
「そうだったら嬉しいけど。でも千由紀ちゃんや絵梨花ちゃんとの本の話をするようになったのがきっかけってのは確かだと思う」
 最近は三人でよく文学談義をしている。皐月もその話題に混ざりたいな、と思うこともあるが、比呂志と鉄道の話をしたり、秀真とオカルトの話をするのも楽しいから仲間には入れてもらっていない。
「苦手だった国語が克服できそうで良かったじゃん。合格が見えてきたんじゃない?」
「かもね」
 皐月がランドセルを片付けに行くと、真理たち三人は楽しそうにお喋りを始めた。一学期はずっと一人でいた三人が、こうして仲良くしているのを見ると、皐月は感動で泣きそうになった。

 ランドセルを自分の棚に入れて、席に戻ろうとすると、花岡聡はなおかさとしと目が合った。皐月が軽く手を上げると、聡が近付いてきた。
「先生、朝から絶好調だな」
「聡、久しぶりじゃん。お前、最近俺のこと避けてただろ?」
「まあな」
「寂しいことするなよ……」
わりぃ……」
 皐月は聡の絵梨花に対する想いを聞いてからは、教室では絵梨花と仲良くし過ぎないようにと意識していた。だからいまだに絵梨花のことを二橋さんと呼ぶようにしている。
 だが、教室外では既に絵梨花との関係は深くなっていた。一緒に下校したこともあるし、メッセージのやり取りもしている。いつか学校外で会うこともあるだろう。このことは絶対に聡に知られてはならない。
「藤城って雰囲気変わったよな?」
「そうか?」
「ああ。なんか大人っぽくなった」
「それはあれだよ。花岡に相手にされないようになって一念発起したんだよ」
「一年勃起?」
発起ほっき)だって……一年も勃起ぼっきしてたら死ぬわ」
 いつもなら大きな声で言うところを、今日は周りに聞こえないように小声で言った。久しぶりに聡と皐月はバカ笑いしたが、この時の皐月は少し無理をして聡に合わせて笑った。
「俺はお前にふさわしい友人になろうと男を磨いてたんだよ」
「なんだ、それ。でも、なんか修行してたみたいだな」
「修行?」
「そう。女の修業。藤城ってマジで先生になっちゃったよな。もう俺とは違う世界に生きてるって感じ」
(勘がいい奴だな)
 少なからず性的な経験を済ませている以上、皐月は今までのように聡とは下ネタ話で盛り上がることができなくなっていた。これからは聡とどういう付き合い方をしていこうか……。
「藤城、花岡」
 村中茂之むらなかしげゆきが機嫌良さそうな顔をして近づいてきた。
「今日の3組との試合、頼むぞ」
「今から楽しみだぜ。最近、委員会ばっかで全然ドッジできなかったからな」
「あいつらの飽和攻撃と戦えるのは藤城しかいないからな。花岡のコントロールも頼りにしてるぜ」
「そういう展開にならないように先攻しないとな」
 最近はボールの数を増やしてドッジボールをするようになった。最初は2個に増やしたが、今ではエスカレートして3個になった。ゲーム展開が早くなって時間切れの引き分けがなくなった。新ルールでは皐月のボールを避けるのと受けるのが上手い能力と、聡のコントロールの良さが今までよりも重宝されるようになった。

 皐月は自分の席に戻ると、聡の目を気にして絵梨花には話しかけず、千由紀に話しかけた。
「金曜日に『雪国』と『人間失格』買ったよ」
「一度に二冊買ったの?」
「うん。古本屋で買ったから、在庫がある時に買わないとね」
「もう読んだの?」
「読んだよ」
「どうだった?」
「……ちょっと今はまだ言葉にできないかな」
「どうして?」
「……言いたくない」
 皐月は小説を読んだ感想を言うことがこんなにも恥ずかしいことだとは思ってもみなかった。
「ふふふ。いいよ、言わなくても」
「もう一度……いや、何度か繰り返し読んでみるよ」
 千由紀が優しく笑っていた。千由紀には自分の中にある大庭葉蔵おおばようぞう島村しまむらを見透かされているのかな、と思った。気が付くと、隣の席の絵梨花も微笑んでいた。
「二橋さんって『雪国』と『人間失格』、読んだことあるの?」
「うん。つい最近、みんなの話の中で出てきたから読んでみた」
 もしかしたら絵梨花にも自分の暗部に気付かれたかもしれない、と皐月は緊張した。絵梨花から『雪国』と『人間失格』の感想を聞いてみたかったが、自分が千由紀に感想を言わなかった以上、そんな図々しいことは聞けなかった。
 聡の目を気にして絵梨花との会話を躊躇していると、比呂志と秀真が慌ただしく席にやって来た。彼らの通学班はいつも登校が遅い。
「おーはよー」
「おはようございます」
 秀真も比呂志もこの班に馴染んできた。修学旅行の行き先決めがきっかけで、班の女子達と話ができるようになった。
 秀真は隣の席の真理と、比呂志も隣の席の千由紀に声をかけている。彼らの話す内容が休みの日に皐月と遊びに行ったことだったのが皐月にはおかしかった。秀真と比呂志の二人は女子と積極的に話すタイプではない。今までの陰キャっぷりから考えると、話題の内容はどうであれ、単独で女子に話しかけられるようになったことは大きな進歩だと皐月は思った。
「藤城さん、休日も忙しかったのね」
 秀真と比呂志が同時に自分の話をし始めたので、どっちの話に加わろうかと迷っていたら絵梨花に話しかけられた。
「忙しいって言っても、遊んでばかりだけどね」
「絵梨花ちゃんなら遊ぶ余裕くらいあるでしょ?」
 秀真と比呂志がランドセルを片付けに行ったので、真理が話に加わった。
「時間ができたらバイオリンやピアノのレッスンをしないといけないから……。まあ、どっちも楽しいからいいんだけど。真理ちゃんは?」
「私は寝ちゃう」
「寝ちゃうんだ……。だから背が高いんだね」
 真理と絵梨花が二人で話し始めたので、皐月は千由紀に話しかけた。
「吉口さんは週末、何してたの?」
「私はいつも本を読んだり、小説を書いたりしているよ」
「小説書くの?」
「まあ……一応。web小説を投稿してる」
「すげー! 何か賞とか狙ってるの?」
「そんなこと考えてないよ……。読者だって10人もいないし……」
「俺、読ませてもらってもいい?」
「嫌っ!」
「えっ! なんで?」
「……だって恥ずかしいじゃない。知ってる人に読まれるのって」
 面と向かって嫌だと言われると、皐月はそれ以上は怖くて何も言えなくなる。皐月は自分が傷つきたくないので、女子と話をする時は「嫌」と言われないように気をつけながら言葉を選ぶようにしている。真理や美耶のように気心の知れた相手なら「嫌」と言われても平気だし、わざと「嫌」と言われるようなことも言う。だが、まだ十分に仲良くなっていない千由紀に「嫌」と言われたことは少々こたえた。
「いつか必ず読んでもらうから、それまでは待って」
 気まずさに耐えかねたように千由紀が皐月に言葉をかけた。心配そうにしている千由紀を見て、皐月は今自分がどんな顔をしているのか気になった。

 昼休みになった。給食を食べ終えたものから続々と校庭へ出ていった。委員会のない皐月は大いに張り切って、最速で給食を食べ終えようと、あまり好きでない和風ポトフを掻っ込んだ。早食いしたせいで満腹感を得られず、ご飯とおかずお代わりをしていると、茂之が先に食べ終えてしまった。
「藤城、お先に~。お代わりしてんじゃねえよ」
「あ~、畜生!」
 茂之に先を越されてしまった皐月は慌ててお代わりした給食を食べ終え、ダッシュで校庭に向かった。ドッジボールは校門の近くのバスケットコートの隣の空いた場所で行われる。ここは校舎に近いので、予鈴が鳴ってから教室に戻るまで時間がかからないのがいい。近くに体育で使われる道具置き場があるのも利点だ。
 ドッジボールをする場所はいつもラインパウダーでコートが描かれている。運動会などのイベントがある時は消されてしまうが、学校側の配慮で消さないで残してもらっている。コートの数は2面あるので、同じ時間に下級生や他のクラスの児童たちもドッジボールをしている。
 コートに行くと、茂之以外に3組の男子もすでに来ていた。彼らは3組クインテットと呼ばれる5人だ。ボール3個を使ってドッジをするようになってからは、この5人が連携して一斉に1人を狙う飽和攻撃が必殺技になっている。
「3組の連中、早えなあ~。気合入りまくりじゃねえか」
 皐月は一人しかいない4組の茂之に声をかけた。
「あいつら、一人一人は大したことねえのにな」
「でもコントロールはいい」
「俺たちのクラスで言えば藤城や花岡タイプか。パワーなら俺と月花の圧勝なのにな」
「でも茂之しげは筒井に負けてるじゃん」
「筒井さんに勝てないのはしゃーないわ。あの子、凄過ぎるから」
 皐月が美耶の名前を出すと、茂之は照れたような顔をした。負けず嫌いの茂之だが、美耶に負けるのは悔しくないみたいだ。
「ちょっとボール借りるぞ」
 皐月は茂之の持っていたボールをもらい、メンバーが集まるまでドリブルの練習をすることにした。千智に教えてもらったフロントチェンジはだいぶ上達して来て、今はレッグスルーの練習もしている。バックチェンジまではできるようになりたい。
「あれっ? 藤城ってバスケできたっけ?」
「最近ちょっと興味持ってな。少し練習し始めている。だって中学に上がっても、ドッジボール部ってないだろ? シゲは中学の部活どうすんだよ?」
「部活か……。俺は野球部かな」
「野球! 本当は俺も野球部がいいんだけど、坊主頭が嫌だから無理だ」
「俺だって五分刈りとか嫌だよ。坊主にしなくてもいい中学が羨ましいぜ」
 3組と4組の児童が次々とやってきた。今週の給食当番の月花博紀げっかひろき筒井美耶つついみやはまだ来ていない。人数がある程度揃ってきたので、早速試合開始だ。
 4組の主力メンバーも来たので、3組とはなんとか戦えている。少し遅れて花岡聡はなおかさとしもやって来た。コントロールのいい聡が加わると、二人同時に一人を狙う時の攻撃力が増す。茂之の強力なボールは単独だとかわされることもあるが、受けやすい聡のボールに合わせて茂之が速球を投げると面白いように当たる。
 3組クインテットが本気を出し始めると、形成が一気に傾いた。真っ先に茂之が狙われて、逝った。4組のメンバーが次々と当てられ、最後に皐月が一人残った。
「また藤城が残ったよ。あいつってどうやったら堕とせるんだ?」
 3組のエースがぼやいている。3組クインテットの飽和攻撃でも皐月はなかなか堕とせない。
 皐月はボールを避けるのと受けるのが得意で、3人からの一斉攻撃を上手く躱す。3つのボールのうち、1つを確実にキャッチして2つを避ける。3つのボールが全て皐月に命中する軌道で飛んできても紙一重で躱す。この見切りが皐月の特殊能力だ。これは皐月が3組クインテットのコントロールの正確さを信じているからだ。
 皐月が粘っていると博紀と美耶たち給食当番が遅れてやって来た。稲荷小学校のルールでは、途中から内野に加わることができる。
「げえ~っ! 月花と筒井が来た!」
 博紀は茂之レベルの速球を投げることができ、しかもコントロールが良い。美耶は茂之よりも強い球を投げ、避けるのが上手い。ただ、ボールを受けるのが苦手という欠点がある。
「皐月、サンキュー。よく耐えてくれた」
「そろそろ疲れで集中力が切れるところだった。助かった~」
 博紀と美耶が来てから形勢が一気に傾いた。聡と茂之の連携に博紀が加わることで撃墜率が上がった。避けるのや受けるのが上手い3組クインテットも美耶の浮き上がる剛速球で堕とされていく。美耶と皐月のいる4組は強い。
「筒井、お前凄いな」
「藤城君が一人で頑張っていたからね」
「筒井さん、最高だよー!」
 皐月の声をかき消すような大きな声で茂之が美耶を賛美していた。美耶のことが好きな茂之を不快にさせたくないので、皐月は美耶からそっと離れた。

 放課後、修学旅行実行委員の藤城皐月ふじしろさつき筒井美耶つついみやは帰りの会で回収したアンケート用紙を持って理科室へ行った。3組以外の委員はもう来ていて、副委員長で児童会長の江嶋華鈴えじまかりんがアンケート用紙の回収を済ませていて、書記で児童会書記の水野真帆みずのまほが議事録に回収枚数を記録していた。
「藤城君、みんな集まったらアンケート用紙の回収のお礼を言ってもらいたいんだけど、お願いできる?」
 華鈴が委員会の段取りを考えてくれている。皐月は華鈴に従うだけで委員会を進められる。
「わかった。データの入力はどうする? みんなにも手伝ってもらう?」
「水野さん、どうする?」
「私たちだけで大丈夫。大した量じゃないから」
「じゃあ、みんなにお礼を言ったら解散しようか」
「それでね、これも藤城君に頼んでもらいたいんだけど、印刷が終わって製本する時は委員全員で手分けをしてやってもらいたいの。製本はちょっと面倒だから」
「江嶋って製本の経験があるの?」
「児童会で何度かあるよ。ホチキスで留めるだけだったけど」
「そのホチキスって何個くらいあるか知ってる? 各委員に自分たちのクラスの栞の製本を頼みたいんだけど」
「4個はあるけど、8個もあったかな……」
「4個あればいいじゃん。ペアでやれば」
「……そうだね。作業に慣れていないから、その方が効率がいいかも」
 3組の田中優史たなかゆうし中澤花桜里なかざわかおりがやって来た。これで委員が全員揃った。真帆が枚数の確認をして、議事録に記録している。
「では今から修学旅行実行委員会を始めます。今日はアンケート用紙を回収してもらい、ありがとうございました。これで修学旅行のしおりを完成させることができます」
 委員長の皐月が真面目な口調で委員のみんなにお礼を言うと、副委員長の華鈴が集まったアンケートについて話をした。
「アンケートの回収率は9割を超えました。これは各クラスの委員の働きかけのお陰だと思います。募集したイラストもたくさん描いてもらえたので、誌面が賑やかになると思います。いい栞ができきそうです」
 華鈴の補足説明を聞いた委員たちの表情がほころんだ。皐月から業務連絡があるので、華鈴の言葉に続けた。
「委員のみんなにお願いがあります。データの入力と印刷は委員長と副委員長と書記でやっておきますので、製本をみんなに任せたいと思っています。各委員は自分たちのクラスの分の製本をして下さい」
「製本って大変?」
 2組の中島陽向なかじまひなたから質問が飛んできた。陽向からの質問には華鈴が答えた。
「手分けしてやるので、そんなに時間はかからないでしょう。明後日の委員会で栞を完成させられる程度の仕事量です」
「じゃあその日のうちに終わりそう?」
「終わります。二人ペアで40部弱なので、30分もあれば終わるでしょう」
 陽向に限らす、放課後に残って委員会をすることに抵抗のある委員が多い。皐月も最初は嫌だった。だが今では華鈴や真帆と共同作業をすることが楽しくなっている。
「じゃあ、今日はこれで解散。次の委員会は明後日ね。みんなヨロシク!」
 皐月の号令で委員たちが帰った後、残った皐月と華鈴と真帆で入力作業を始めた。
「私、応募イラストのスキャンしてくるね」
 華鈴がアンケート用紙にイラストが描かれているものだけをピックアップして職員室に行った。真帆と皐月は Chromebook を立ち上げて、Googleドキュメントを開いた。皐月は真帆が作ったフォーマットの説明を受け、入力を始めた。
「ねえ、水野さん。思ったよりも量、多くない?」
「大丈夫。私は委員長の3倍は速く入力できるから。とりあえず読んで楽しむのは後回しにして、入力に集中して」
「オッケー」
 真帆の3倍速い入力という言葉を盛っていると思っていた皐月は、真帆のタイピングの速さに驚愕した。3倍速ではすまない速さだ。こんなスピードで打ち込んでいけば、この程度の分量の原稿なんてすぐに終わってしまいそうだ。
 皐月は自分のクラスの4組の原稿の入力から始めた。みんながどこに行きたがっているのかがわかって楽しい。記名のある回答が少ないのは仕方がないが、名前が書かれている回答を読むと楽しくなってくる。絵梨花の楽しみにしている場所は予想通り教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ)だ。博紀は二日目に学校全体で行く奈良の東大寺とうだいじだ。晴香はやっぱり東映太秦とうえいうずまさ映画村だ。SNS 好きの新倉美優にいくらみゆ千本鳥居せんぼんとりいが映える伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃだ。
「水野さん、この作業めっちゃ楽しいね」
「ほんと。この企画は大当たりだと思う。さすがは委員長だね」
「水野さんはどこに行くのが楽しみなの?」
「私は法隆寺ほうりゅうじ夢殿ゆめどの聖徳太子が好きなの」
「へ~。じゃあ古代史が好きなんだ」
「うん。家族旅行で奈良に行ったことがあるよ。でも修学旅行のために、法隆寺に寄っても夢殿だけは行かないで取っておいたの」
「水野さんって面白いね。俺、そういう考え方って好きだわ~」
 真帆が顔を赤らめていた。
「委員長、お喋りはやめて入力に専念しましょう」
「大丈夫。だんだん指が温まってきたから。でもここからは無言の本気モードに切り替えるよ」
 皐月のタイピングもスピードが乗ってきた。なんとか真帆の半分くらいの速さまでに追いついてきた。皐月が4組の分の入力が終わる頃に、華鈴が職員室から戻って来た。
「スキャン終わったよ。私は画像データを貼り付けやすいように加工しているね。持っていった分のアンケートの入力もお願いね」
 華鈴が持っていったのは20枚だった。皐月はその原稿を受け取って、入力を再開した。真帆は自分のクラスの2組と華鈴のクラスの1組を既に打ち込み終えそうだ。残りの3組も真帆に任せることにした。
 華鈴の作業も速かった。華鈴の画像の加工と真帆の入力が終わっても、皐月の作業はまだ少し残っていた。
「二人とも仕事早すぎ。俺、一人で足引っ張ってるな……」
「ふふふっ。児童会は伊達じゃないでしょ?」
 華鈴が勝ち誇ったように笑っている。稲荷小学校の児童会長と児童会書記は仕事が有能過ぎる。
「私がアンケートの編集をするから、会長はイラストのレイアウトをお願い」
「うん、わかった」
「水野さん、俺は?」
「委員長は会長と一緒にレイアウトを考えて。会長は実務能力は高くても、センスはあまり良くないから」
「あはははは。私、いつも水野さんにダメ出しされちゃうんだよね。そういうわけで、藤城君にレイアウトは任せる。私は藤城君に言われた通り、イラストを配置していくから」
 集まったイラストはどれも力作揃いだった。京都・奈良の名所のイラストや、アニメキャラのような美男子の絵、ワンポイントに使いやすい花や小物のイラストがあり、皐月と華鈴は感動していた。二人はこれらのイラストをページの余白などに挿入していった。誌面のクオリティーがぐっと上がった。
「水野さん、イラストは終わったよ。編集はどう?」
「もうすぐ終わる」
 皐月が真帆の作業を見ていると、華鈴が明日以降の打ち合わせをしようと言ってきた。
「明日の中休みと昼休みと放課後にプリントアウトをしようと思うんだけど、藤城君はプリンターの使い方わからないでしょ? 私がやっておこうか?」
「いや……それはさすがに悪い。俺も付き合うよ」
「でも、藤城君がいたってやることないよ?」
「そりゃそうかもしれないけど、俺だけ仲間外れにするなよ」
 考えてみれば、プリントアウトなんてボタンを押すだけだから一人いれば十分だ。華鈴の言うことはもっともだ。
「そういうつもりじゃないんだけど……。だって藤城君、休み時間はみんなと遊びたいでしょ?」
「江嶋たちに仕事をさせて、自分だけが遊んでも全然楽しくないよ。それに何か手伝えることがあるだろ?」
「んん~、とくに手伝ってもらうことなんてないんだけど……。だったらプリントした栞を児童会室まで運ぶのを手伝ってもらおうかな」
「いいよ。お安い御用だ」
 皐月は今回のような大量にプリントアウトをする作業をやったことがない。家のパソコンでプリントアウトしたいものがある時は、いつもコンビニでやっていた。こういう事務的な作業というものをよく知らないので、一度経験してみたいと思っていた。
「なあ、プリントアウトしたものって、1冊ずつページ順にまとめなきゃいけないんだよな。それってめっちゃ面倒なんじゃない?」
「ああ……。藤城君の言ってるのってページ単位印刷のことだね。大丈夫。部単位印刷にすればそんな面倒な作業しなくてもプリンターが全部やってくれるから」
「へえ~。そんなことができるんだ」
 真帆の入力が終わった。これで栞の原稿が脱稿した。
「会長。明日は私も立ち合いたいんだけど、いいかな?」
「いいけど、やることないよ?」
「まあ、刷り上がるところが見たいっていう、私の趣味なんだけど。それとも、邪魔だった?」
「何言ってるの、水野さん!」
 いたずらっぽい表情をした真帆とは対照的に、華鈴は恥ずかしそうな顔をして、少し怒っていた。そんなやりとりを続けている二人を見ていると、皐月は華鈴も真帆も小学6年生の普通の女の子だな、と思った。

 最終下校の時間の5分前になり「遠き山に日は落ちて」が流れ始めたので、慌てて Chromebook を片付けて、理科室を出た。
 皐月と華鈴と真帆の三人は『修学旅行のしおり』を作る仕事をなし終え、心が軽く安らかになった。皐月は修学旅行が終わったら、この三人だけで打ち上げをしたいと思った。


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