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幼馴染ではなくなった(皐月物語 99)

 栗林真理くりばやしまりの部屋に残った藤城皐月ふじしろさつきは食べ終わったかつ丼の容器にパンやおにぎりなどのゴミを詰めて、レジ袋の口を縛った。こうしておけばパッと見、一人分のゴミにしか見えない。これで真理の母の凛子りんこの目には不自然なゴミには見えないはずだ。
 部屋の窓を開けて換気をした。10階の高さの風は想像以上に強く、窓の外に顔を出すと前髪が靡いた。皐月は、日の暮れる前に小百合さゆり寮の二階の窓から空を見上げながら思索してた時のことを思い出した。
 あの時無性に逢いたかった真理には既に逢えた。あんなに寂しく感傷的になっていたことが嘘のように、今は心が満たされている。皐月はセンチメンタリズムに囚われた夕方の自分のことが恥ずかしくなった。芥川龍之介の『羅生門らしょうもん』の下人ではないが、あの時の自分の心は途方にくれていたのかもしれない。
 思いがけず一人になったことで、意識の底に秘めておいた明日美あすみが表に現れた。脳裏に浮かぶ実体感のない明日美を見て、皐月は強烈な罪悪感に襲われた。この罪の意識が皐月から離れなくなったのは、初めて明日美と口づけをかわした時に始まった。
 ついこの間までは恋愛を知らない皐月だった。しかし、ここに来て自身を取り巻く様相が一変した。魅力的な少女たちが同時期に皐月に関わり始めたからだ。それだけでなく、憧れ続けてきた美しい芸妓げいこへの思いも遂げることができた。
(いい気なり過ぎていたのかもしれないな……)
 皐月は自分が誰を一番好きなのかわからなくなっていた。短期間に多くの女性を好きになってしまったからだ。一人を深く好きになる前に、次の女性を好きになってしまう。好きな人がいるから他の人を好きにならない、ということは皐月にはできなかった。
 真理や明日美、入屋千智いりやちさと江嶋華鈴えじまかりん及川祐希おいかわゆうき筒井美耶つついみやに至るまで、皐月は彼女らと二人でいる時はこの世界で二人しかいないつもりで接してきた。その時はとても楽しく、幸福感に包まれていた。
 だが、一人になった途端に心が乱れる。初めのうちはふわふわとした高揚感に陶酔していたが、日替わりのように違う少女と関わっているうちに、単純に楽しんではいられなくなった。
 真理と口づけを交わし、その後、明日美ともキスをした。そして今日はこれから、真理とさらに深い関係になるだろう。身体的には幸せなっても、精神的には苦しくなるに違いない。
「皐月……」
 開け放たれた部屋の入口に真理が立っていた。新しい口紅に変えた真理は、さっきまでの大人ぶった艶めかしい感じから、清楚系メイクの大学生みたいな感じになっていた。
「今度は可愛くなったね。すごく似合ってる」
「ありがとう」
 皐月は窓辺から離れ、真理は部屋に入ってきた。二人は自然と寄りそい、しばしの間、お互いを確認するかのように見つめ合った。
 開け放たれた窓から冷たい風が入って来る。真理の二の腕が少し冷えているのをてのひらで感じたので、皐月は窓を閉めるために真理から離れた。
「もう秋だな。少し寒い。上着、着る?」
「いい」
「じゃあ暖房、つける?」
「嫌」
(まあそうだろうな……)
 真理が求めているのは自分が求めているものと同じ、身体の温もりに違いない。そう思った皐月は真理の後ろに回り、半袖同士の生腕を重ねた。自然と後ろから抱き締めるような格好になった。
 真理は姿勢良く立っていた。自分の方に倒れるように身体を預けてくれると楽なのにな、と思いながら真理を抱き続けていると前屈みになってしまう。皐月は体勢を維持するのに疲れてしまった。腰の痛みがひどくなる前に真理をベッドに座らせたが、もう少し楽になりたかった皐月は真理をベッドに押し倒した。
「あれっ? あれっ? 皐月、どうしちゃったの?」
 真理が嬉しそうにしている。皐月も真理に優しい笑顔で応えた。
「別にどうもしてねーよ」
 真理が目を閉じたので、皐月はキスをしようとした。唇が薄っすらと開いていた。軽く口ではさむようにキスをすると、真理の吐息が少し乱れた。
「優しいキスだね」
「塗り直したリップが取れちゃうだろ。せっかくだから、もう少し真理の可愛い顔を見ていたい」
「じゃあ、しばらくはキス禁止ね」
「まあ、しょうがないか……」
 覆いかぶさるようにしていた皐月は真理の隣で横になった。横になりながら向かい合っていると、子供の頃に二人で母たちの仕事の帰りを待っていた頃のことを思い出す。でも二人はもう、あの頃のような子供ではない。
「ねえ、布団の中に入ろうよ」
 皐月が返事をする前に、真理は掛け布団の下へ潜り込んだ。皐月も真理に続いて掛け布団を身体に掛けた。自分の罪の重さなんて羽毛の軽さと同じ程度のものかもしれない……今の皐月にはそう思えてきた。
 部屋の照明を消され、ベッドサイドの照明を切り替えた。3Dプリンターで月を再現したナイトライトが神秘的だ。真理と二人で銀河鉄道から月を眺めているみたいだ。
「満月を見てると狼男に変身しちゃうかも」
「変身してもいいよ」
「えっ?」
「可愛いメイクなんか、いつでもしてあげるから」
 顔を紅潮させている真理は妖しいまでに美しかった。真理の鼓動が伝わってきて、皐月の鼓動も速くなった。
「いいのか?」
「うん。でも最後まではダメ。わかるよね?」
「……わかった」
「約束できる?」
「約束は守る」
 この日、皐月と真理は幼馴染ではなくなった。

 皐月が家に帰ったのは夜の10時を過ぎていた。小学6年生としては遅すぎる時間だ。祐希はすでに帰宅していたようで、玄関の下駄箱に登下校用のスニーカーが揃えて置かれていた。
 祐希と顔を合わせたくなかったので、小百合の部屋の洋服箪笥から着替えを出して、さっさと風呂に入ってしまおうと思った。着替えを揃えて風呂に入ろうと浴室に向かうと、階段を下りる音がした。
「おかえり」
「ただいま」
 祐希は心配そうな顔をしているが、どことなく怒っているようにも感じた。
「遅かったね」
「ごめん。ちょっと真理とカラオケに行ってたから」
「もう……心配したんだから」
「うん……ごめん」
「お風呂わかしておいたから入って。私はもう済ませたから」
「わかった」
 祐希は一度も笑顔を見せずに二階へ戻って行った。祐希も母の小百合さゆりのように匂いに敏感なところがある。もしかしたら何かを感づかれたかもしれないと、少し不安になった。祐希にも同じ経験があれば、皐月と真理がしていたことに気付いても不思議はない。
 浴室に入った皐月は着ていた服を脱ぎ、洗濯ネットに入れて洗濯機に放り込んでおいた。この習慣が証拠隠滅に役立つとは思わなかった。小百合か頼子よりこに服を畳んでもらったら、十中八九、真理との関係がバレてしまうだろう。
 風呂を上がり、二階の自分の部屋に戻ると、自分の部屋と祐希の部屋を隔てる襖は閉められていた。今日はこのまま祐希と話さないで寝てしまおうと思った。
 寝る前にスマホの電源を入れると、千智や美耶、華鈴からメッセージが届いていた。全て軽い内容だったので、美耶と華鈴は手短に、千智には丁寧な返信をした。月曜日の学校の準備をして照明を落とした時、襖越しに祐希の声がした。
「皐月、まだ起きてる?」
 襖を開けるとTシャツを着た祐希が布団の上に座っていた。蒲団が敷かれた祐希の部屋を見るのは初めてだった。
「もう寝ようかなって思ってたんだけど……」
「ごめんね」
「どうしたの?」
「……うん。特に大した用ってわけじゃないんだけど」
「えっ? なんなの?」
 皐月は思わず苦笑した。祐希も顔をこわばらせて笑っている。
「皐月って10月の第3土曜日って空いてる?」
「修学旅行が終わった後か……。まあ、空いてるかな。どうせヒマだし」
「私の通ってる高校で文化祭があるの。土曜日は一般の人に開放しているから、皐月と千智ちゃんに来てもらえたらいいなって思って……」
「土曜日か……。俺は大丈夫だけど、千智はどうかな? 塾があるんじゃなかったかな?」
「さっき千智ちゃんに聞いたら、塾は休むって。どう? 来てくれる?」
 さっき見た千智からのメッセージには祐希の高校の文化祭については一言も触れられていなかった。だが皐月はそれよりも千智が塾を休むことが気になっていた。塾を休むのは不真面目だということではなく、経済的なことが心配だった。真理に塾なんかサボっちゃえばって言ったことがあるが、親がお金を出してくれているから休めないと言われた。千智はそのことをどう考えているのか。
「そうだね……一度千智と話し合ってみるよ。ちょっと今すぐには決められないかな」
「うん。わかった。眠いのに話しに付き合わせちゃってごめんね」
「いいよ」
 しばらく沈黙が続いた。祐希は何かを話したがっているような顔をしている。皐月はこういう時にいつも、を持たせるために何かを話すか、何かを聞くかする。だがこの時はそういう優しい気持ちにはなれなかった。
「じゃあ、おやすみ」
「あっ、ちょっと待って」
 皐月から話を終えようとすると、祐希に止められた。
「何?」
 言った後、言い方が少しキツかったかなと思った。今日は真理との余韻に浸りたかったので、すぐにここから離れたかった。だが、これでは祐希に八つ当たりしているみたいだと思い、意識して優しく微笑んだ。
「どうしたの? 大事な話があるなら、俺、そっちに行こうか?」
「あっ、……うん」
 祐希が掛け布団の上に座っているので、皐月は布団の横の畳の上に座った。話しが長くなるのかな、と覚悟を決めた。
「で、どうしたの?」
「うん……。前から聞きたかったんだけど、皐月って真理ちゃんのこと好きなの?」
「そりゃ好きだよ。当たり前じゃん」
「皐月、今日も女の人の匂いがした。前も真理ちゃんと会った日に男の子じゃ絶対にあり得ない匂いをさせてたけど、何やってたの?」
 祐希が不安げだが、怒っているような顔をしている。祐希は皐月と真理が子供らしからぬことをしていたと疑っているようだ。
「何って、飯食ってカラオケしてただけだけど」
「それだけ?」
「そうだよ」
 尋問されているみたいで気分が悪い。だが馬鹿正直に本当のことを話すわけにはいかない。
「匂いのことは説明できる。真理が凛姐さんの香水をつけてたから、多分その匂いが俺に移っちゃったんじゃないかな。祐希って本当に鼻が利くんだな」
「また人のことを犬みたいに言う……」
 皐月には祐希が安心したように見えた。祐希をやり過ごすことができたと思いホッとしていると、祐希から第二の矢が放たれた。
「皐月は真理ちゃんと千智ちゃん、どっちが好き?」
 皐月は答えにくいことを聞いてくる祐希を恨んだ。今の皐月なら明確に答えることができる。だが、ここで本当のことを言うと、祐希の向こう側にいる千智を傷つけることになりかねない。
「真理も千智も好きだよ。どっちが好きだなんて答えられない」
「ん~、そうきたか……。じゃあ質問を変えるね。真理ちゃんと千智ちゃん、恋人にするならどっちがいい?」
 祐希が皐月の心を探るような顔をしている。この質問は祐希の質問というよりは千智からの質問だ。だが、千智が祐希に聞いてもらいたいと思っているはずがない。祐希が千智のために、皐月の好きな人が誰なのかを知っておきたい、といったところか。そう考えると、皐月は気持ちが軽くなった。
「恋人? そうだな……二人とも魅力的だから、両方の恋人になれたらいいな」
「皐月、二股かけるの? そんなのダメだって!」
「何言ってんの? 現実と妄想をごっちゃにするなよ。それにさ、こんな話を二人に聞かれたら怒られるぞ? 人を比べるようなことを言っちゃダメだよ」
 同じ「ダメだ」という言葉を返すと、祐希がしょんぼりとした。我ながら嫌らしいレトリックを使ったと思った。皐月は祐希が思っていたよりも弱いことを、この時知った。
「それにさ、もし千智と祐希のどっちが好きかって聞かれたら、どっちも好きで比べられない、って答えるよ。俺、祐希のこと好きだから」
「えっ?」
「千智と祐希、どっちを恋人にしたいかって聞かれたら、両方って答えるよ。どういう意味かわかる?」
「……」
「祐希を恋人にしたいってことだよ」
 皐月は布団の上に乗って、祐希に身体を寄せた。皐月が凛々しく見つめると、祐希はうつむき加減になった。
 皐月だって健康な思春期の少年だ。祐希に性的な興味がないわけではない。今の祐希ならキスぐらいできそうな気がする。人の性的なことに踏み込んでくる祐希に対し、皐月は攻撃的な気持ちになっていた。
 そんな祐希をしばらく眺めていると、気持ちが鎮まってきた。皐月は身体を引いて、元いた畳の上に戻った。祐希の古い木綿掛け布団は真理の羽毛布団に比べて硬い手触りだった。
「ねえ……私、恋人いるんだよ?」
「そうみたいだね」
「もう……私を恋人にしたいとか、変なこと言わないでよ」
 怒っているようなことを言っているが、皐月には満更でもない感じにも見える。
「祐希が変な質問をするから、ちょっとからかっただけだよ。俺、もう寝たいんだけど、部屋に戻ってもいいかな?」
「あっ、ごめん。もう遅いね」
「明日は学校が休みだから、もうちょっと遅くまで付き合いたいんだけど、いつもならもう寝てる時間だからね。じゃあ俺、寝るわ。おやすみ」
「おやすみ」
 皐月は自分のベッドに戻り、祐希に軽く手を振って襖を閉めた。寝ると言ったせいか、急に眠くなった。寝付きのいい皐月は、一人になるとすぐに寝てしまった。


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