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短すぎる学校の帰り道(皐月物語 92)

 帰りの会が終わり、藤城皐月ふじしろさつき筒井美耶つついみやのところへ修学旅行実行委員会に誘いに行くと、美耶の前の席にはまだ月花博紀げっかひろきがいた。サッカークラブがある日は真っ先に家に帰る博紀だが、今日はのんびりしている。きっとサッカーのない日なのだろう。
「なあ、皐月の班はどこに行くんだ?」
 皐月たちのクラスでは学活の時間を使って6時間目まで修学旅行の京都観光の行き先を決めていた。博紀が「皐月は」ではなく「皐月の班は」という聞き方をしてきたので、皐月は微妙な違和感を感じた。おそらく博紀の興味は皐月ではなく、二橋絵梨花にはしえりかの行きたがっている訪問先だろう。絵梨花と皐月は同じ班なので、博紀は皐月に聞けばいいと思っているに違いない。
「俺たちはね、清水寺きよみずでら下鴨しもがもと神社と伏見稲荷ふしみいなりかな。あと、二橋さんのリクエストで教王護国寺きょうおうごこくじにも行くよ」
 皐月はあえて絵梨花の名前を出して、博紀の裏のリクエストに答えてやった。
「教王護国寺? それってどこにあるんだ?」
「教王護国寺は京都駅のすぐ近くだ。東寺とうじって言った方がわかりやすいのかな」
「いや、東寺でもわからん」
 博紀は人前ではええ格好しいだが、皐月の前では見栄を張らない。
「そうか。東寺って京都駅の近くにあるでっかい五重塔があるお寺で、世界遺産なんだぜ。世界遺産だから覚えておこうよ。で、二橋さんは東寺の立体曼荼羅りったいまんだらが見たいんだって」
「立体曼荼羅? 何だ、それ?」
「だよな。俺も最初言われた時『はあっ?』ってなった」
「立体はわかるけど、曼荼羅って何だ? 言葉だけは聞いたことがあるけど」
 皐月も博紀と同じ程度の認識だった。当事者の絵梨花とオカルト好きの神谷秀真に曼荼羅の説明を聞いてはみたけれど、なかなか理解ができなかった。二人の話を総合して、自分なりにまとめたものを博紀に話そうと思った。
「曼荼羅っていうのは仏教の世界観を仏の絵にしたもので、修行僧が仏教の悟りを開くための教材みたいなものらしい」
「へえ~、難しそうだな。そんなもの俺たちが見て面白いのか?」
「さぁ~、どうなんだろう。で、東寺の立体曼荼羅ってのは仏の絵を仏像で表現したものなんだって。曼荼羅の教えが絵や言葉だけじゃ伝わりにくいからって、空海が仏像で表現しちゃったんだ。すげー発想だよな」
「凄いんだ……」
「俺もその凄さはよくわかんないんだけどな。でも、あの二橋さんが興奮するくらいだから、相当凄いんじゃないかな。俺も見るのが楽しみだ」
「そうか、凄いのか……」
 皐月たちはガイドブックやウェブサイトで画像を見た。だがこの手のものは現場で実物を見なければ本当の凄さはわからない。これは女の子も同じだな、と皐月は思った。女の子だって、映像や写真で見るよりも目の前で本人を見た方が絶対に魅力的に見える。
「博紀たちはどこに行くんだ?」
「俺たちか……。まず金閣寺きんかくじに行って、嵐山あらしやまに行く。嵐山でいろいろ見た後は映画村だな」
「そっち方面か。俺たちも検討したよ。嵐山はいいよな。映画村は真理まりが行きたがってたんだけど、時間が足りなくなるからって諦めたところだ」
「なんだ、諦めたのか。栗林くりばやしさん、俺たちの班だったら映画村に行けたのに」
「今からメンバーのトレードでもするか?」
「そんなことできるわけないだろ」
「真理とお前をトレードしてやろうか? そうすれば二橋さんと同じ班になれるぜ」
「だからできねえって言ってんだろ!」
 ちょっと博紀をおちょくり過ぎた。博紀は絵梨花だけでなく真理にも気がある感じがするので、割と本気でキレられた。学校内ではいつも穏やかな博紀が声を荒げたので、ファンクラブの女子たちがびっくりしていた。
「ちなみに俺も映画村は行ってみたいと思ったよ。お前らのコース、なかなかいいよな。修学旅行が終わったら俺に自慢でもしてくれ」
 すぐ隣で皐月たちの話を聞いていた美耶に委員会へ行くよう促して、皐月たちは博紀から離れた。

 委員会の行われる理科室に移動している間に、皐月は美耶に委員会の仕事の依頼をした。
「筒井と中澤なかざわさんに頼んだページ、今日やってく?」
「どうしようかな……。そんなに量がないんだったら、私が家に持ち帰って、一人でやっちゃってもいいんだけど」
「それは全然構わないよ。でも、そうすると中澤さんはその仕事に携われなくなっちゃうけど、いいのかな?」
「やることが減る分にはいいんじゃない。私から花桜里かおりちゃんに話しておくよ」
「じゃあ、その件は筒井に任せた。ありがとうな」
 理科室に着くと、もう修学旅行実行委員のみんなが集まっていた。副委員長の江嶋華鈴えじまかりんと書記の水野真帆みずのまほがアンケート用紙を用意して、各クラスの委員に配付し終わっていた。今日は委員会を早く終わらせようと、昼休みに華鈴たちと話をしてあったので、華鈴と真帆の二人が皐月の代わりに仕事を進めていた。
「各クラスの実行委員にアンケートの説明もしておいたから。もう一度委員長から念押しで説明してもらって、委員会を解散しましょう」
 華鈴は根回しまで済ませていた。華鈴は委員長のやることがなくなってしまいそうな勢いで仕事を進めてくれる。この調子なら、今日の修学旅行実行委員会はあっという間に終わる。
「今から修学旅行実行委員会を始めます。まずはじめに、今みんなの手元にあるアンケート用紙を見てください」
 委員のみんなが封筒から用紙を取りだし、文面に目を落としたのを確認して皐月は話を続けた。
「委員の皆さんにはこのアンケート用紙を明日の朝の会でクラスのみんなに配ってもらいます。この用紙を明後日の帰りの会までに回収してください。明後日の委員会でアンケートを集計します」
 なんとなく委員たちが不安そうな顔をしているので、皐月は砕けた口調でもう少し掘り下げた話をした。
「このアンケート用紙の文章、よくできてるよね。これならこのプリントを読むだけアンケートの目的が全部わかると思う。だから実行委員はクラスのみんなに説明しなくても大丈夫。配って集めるだけでいいよ」
 みんなの表情が少し緩んだ。
「朝の会で言って欲しいことは、このアンケートは、出したくない人は出さなくてもいいってこと。でもたくさん集まったら実行委員は嬉しいから、『ご協力お願いしま~す』ってことも、軽い感じで付け加えてね」
「そんな適当な感じでいいのか?」
 2組の中島陽向なかじまひなたが不安そうに聞いてきた。
「いいよ。だってこの学校っていろんな人がいるじゃん。出したくないって人もいれば、面倒だったりうっかりだったりして出さない人もいると思う。でも、そんなの俺たちは責められないからさ、実行委員からのお願いはこれくらい緩くていいんだよ」
「ふ~ん。そんなものかね……」
「というわけで、今日の修学旅行実行委員会は終わります。明日は委員会をお休みにします。明後日の委員会はアンケートの集めるだけで終わる予定です。では、解散」

 アンケート用紙を封筒に戻した委員たちが帰ろうとしている時、音楽室からピアノの音が聞こえてきた。美しいメロディーにみんなの足が止まった。音楽室のピアノは休憩時間や放課後などで自由に使ってもいいことになっているので、誰かがピアノを弾いているということはよくある。だが、こんなに本格的な演奏を皐月は聞いたことがなかった。
 クラシック音楽に疎い皐月にはこの曲が誰の何の曲なのかわからない。演奏に聞き入っていると1組の黄木昭弘おおぎあきひろが理科室を出ようとしていたので、皐月は昭弘をを呼びとめた。
「黄木君、イラストの進み具合はどう?」
「絵は描けている。あとはレタリングだけで完成」
「すご~い! 仕事が早いねっ。じゃあいつでもいいから、完成したら委員会に持ってきてくれるかな?」
「うん、明後日のアンケートと一緒に持ってくるよ」
「助かるよ。ありがとう」
 昭弘が理科室を出る頃には、すでにピアノの演奏が終わっていた。音楽の先生が弾いていたのかな、と皐月は思った。短い間の出来事だったが、気持ちのいい時間だった。
 皐月は委員全員が理科室から出て行くところを見送るつもりでいた。だが華鈴はまだ帰ろうとしない。真帆はまだ Chromebook を片付けていない。
「じゃあ俺たちも帰ろうか」
 たまには早く家に帰りたいので、皐月は華鈴と真帆に帰宅を促した。
「藤城君って明日の委員会、休みって言ったよね。じゃあ規則に理由をつける作業はどうするの?」
「ああ……あれは予定通り、明日やるよ。昼休みに俺たちだけでやるつもりだったけど、いいよね」
「そうだよね。もしかして忘れてたのかなって思っちゃった」
 5年生の時、皐月はよく忘れ物をして先生に怒られていたので、華鈴は皐月に対して忘れっぽいイメージを持っている。
「ちゃんと覚えていたよ。水野さんに音声入力をお願いするんだったよね」
「そう。一応、明日はマイクを持ってくる」
「音声入力、ちょっと楽しみだな。あと水野さん、もうタブレット閉じてもいいよ。これ以上、委員会の話しはしないから」
「わかった」
「じゃあ、帰ろうか」
「私たちはこれから児童会室に行くから。たまには児童会の仕事もしないとね。じゃあね」
「おう……。じゃあ、また明日」
 皐月は華鈴と真帆が児童会の会長と書記だということをすっかり忘れていた。児童会の二人に頼り過ぎていることに罪悪感を感じたが、二人はそれほど大変そうには見えない。皐月は華鈴と真帆の精神的な強さに感心した。

 皐月が下駄箱で靴に履き替えていた時、背後から二橋絵梨花に声をかけられた。
「藤城さん、今帰り?」
 不意を突かれて、びっくりした。小さくてニコニコしている絵梨花はとても可愛い。
「今日は委員会が早く終わったから帰るとこ。それより二橋さん、どうしたの? 学校に残ってるなんて珍しいね」
「今日は塾がお休みだから、図書室に寄ったり、音楽室で遊んだりしていたの。藤城さんは委員会?」
「うん、今日は早く終わった。そういえばさっき委員会をやっていた時に音楽室からピアノの演奏が聞こえてきたんだけど、あれってもしかして二橋さんが弾いてたの?」
「そうだよ。そっか……藤城さんに聞こえてたんだね。音楽室の前を通ったらピアノの屋根と鍵盤蓋が開いていたんで、つい弾きたくなっちゃったの」
「ああ~わかるわ、そういうの。ボールが落ちていたら、つい投げたくなっちゃうような感じだよね」
「そうそう。やっぱり遊びたくなっちゃうよね」
 対象が高尚なだけで絵梨花も自分と同じ感性を持っているんだな、と皐月は絵梨花に親しみを感じた。
「美しい曲だなって、思わず聞き入っちゃった」
「……恥ずかしいな。あまり上手く弾けなかったから、途中で引くのやめちゃったのに」
「そうなの? 俺には細かいテクニックみたいなのはよくわかんないや。さっきの曲って誰の?」
「ショパンの『エチュード』。今、練習中の曲なの。上手に弾けるようになったら、その時はぜひ聴いてね」
「えっ? 本当? 俺、聴かせてもらえるの?」
「うん。卒業までには弾けるようにしたいなって思ってるから、楽しみにしていてね」
 絵梨花はクラスの行事でピアノを担当している。きっと卒業前にクラスのみんなに披露してくれるのだろう、と皐月は予想した。
 この時ちょうど二人とも一人だったので、皐月は途中まで一緒に帰ろうと誘ってみた。絵梨花に対してこんなことをするのは初めてだったので少し緊張したが、絵梨花はあっさり聞き入れてくれた。
「二橋さん家って何町なにまち?」
豊川町とよかわちょう伊呂通いろどおりだけど、わかるかな?」
「ん……姫街道ひめかいどうのところ?」
「そう。よく知ってるね」
「うん、友達の家があるから。でもなぁ……帰る方向が全然違うな……」
 自分の家とまるで方角が違うので、どうやって理由をつけようかと頭をフル回転させたが、全然いい考えが浮かばなかった。
「踏切の手前まで一緒に帰ろうかな」
「藤城さんはどこに住んでいるの?」
栄町さかえまち。駅前だよ」
「じゃあ全然方角が違うじゃない。すごく遠回りになっちゃうよ?」
「大したことないって。修学旅行はもっと歩くことになるんだよ」
「あっ、そっか。そういえばそうだったね」
 絵梨花の『遠回りになっちゃうよ?』がヒントになって、いいアイデアが浮かんだ。修学旅行はもっと歩くのだ。
 帰り道の話のネタ振りにもなった。修学旅行のことだったら、話したいことはいくらでもある。そう考えると、帰り道なんて短すぎるくらいだ。皐月は絵梨花との二人の時間を一秒でも長く過ごしたいと思い始めていた。


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