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ほんの70mでも一緒にいたかった(皐月物語 93)

 藤城皐月ふじしろさつき二橋絵梨花にはしえりかの通学路を歩こうと思った。一緒に帰ろうと誘ったのは皐月だから、自分が遠回りをしなければならない。
 皐月が絵梨花と二人で並んで歩くのはこれが初めてだった。背の低い絵梨花と歩いていると、同じ班の4年生の女の子と一緒にいるような気持ちになる。自分がお兄さんの役割を果たさなければならないといった変な義務感が芽生えてくるが、精神年齢は明らかに絵梨花の方が上だと思っている。
「修学旅行実行委員って大変?」
「ん~、そうでもないよ。みんなに助けられているから、思ってたよりも何とかなってる。児童会長の江嶋えじまとか、書記の水野みずのさんも実行委員なんだけど、この二人がすごく有能で、ほんと助かってる」
「そう。よかったね」
 普段歩かない道を歩きながら、学校の外で話したことのない女の子と喋っている。皐月は違う世界にいるような気になってきた。
「委員会ってどんなことをしているの?」
「今はね、主に修学旅行のしおりを作っているかな。早くみんなに配れるよう、急いで作らなくちゃね」
「頑張ってるのね」
「うん。怠け者の俺にしては珍しく頑張ってる。いい栞ができると思うよ」
 小学校の校庭の並木に沿って歩き、姫街道ひめかいどうと呼ばれる県道5号線を左に曲がれば絵梨花の家に行ける。歩きながら皐月が委員会での栞作りの話をすると、絵梨花は興味深そうに聞いてくれた。
 姫街道は歩道橋を超えないと渡ってはいけないというのが稲荷小学校のルールがある。絵梨花の家に行くためには、歩道橋を渡って通りの向こうへ行かなければならない。

「俺、この歩道橋を渡るの初めて」
 歩道橋の上から見る景色は皐月には新鮮だった。姫街道は豊川駅前通りに比べて格段に交通量が多い。
「歩道橋の上から見る景色っていいよね。私、学校帰りにいつもこの道を見てる」
 皐月の日常生活は自動車とほとんど縁がない。こうしてぼんやりと流れる車を見続けるのも悪くないと思った。
「道路って空が広いね。俺、移動はいつも自転車だからさ、歩道橋の上に行くのって面倒だったんだよね。こんなにいい所だったら、自転車を下りて上ってみればよかった」
 涼風が気持ち良かった。皐月は絵梨花としばらくの間、姫街道を行き交う車を無言で眺めていた。時々、車を運転している人と目が合うことがある。運転手から見ると自分たちは恋人同士に見えるのかなと思っていたら、タクシーの運転手と目が合った。その男は皐月の母がお座敷に行く時にいつも指名する永井ながいだった。
「藤城さんと真理ちゃんって幼馴染なんだってね。家は近いの?」
 ずっと修学旅行の話をしていたのに、急に栗林真理くりばやしまりの話題に変わった。
「そうだね。近いかな。昔はすぐ近くに住んでいたんだけど、真理が隣町に引っ越して離れちゃった。家が近かった時はお互いの家を行き来してたよ」
「いいな、幼馴染って。私は名古屋から引っ越してきたから、豊川でそういう仲のいい友達っていないの」
「そうなんだ……」
「うん」
 重い話をしていても、絵梨花はまるで深刻さを感じさせない。絵梨花はいつもふわふわと柔らかく、軽やかだ。
「真理とはいい友達になれそう?」
「もうなってるよ」
「そっか」
「うん」
 皐月のことを見上げる絵梨花の顔が少し誇らしげに見えた。
「でも中学が別々になったら会う機会が減っちゃうかな。同じ中学に行けたらいいんだけど、真理ちゃんは私よりも上を目指しているから」
「二橋さんは真理が目指している中学を受験しないの?」
「私は祖母と母が通っていた学校に行くように言われているから、志望校は変えられないの」
「へぇ……。なんかそういうの、ヤダな」
「私は全然嫌じゃないよ。むしろ憧れているくらい。だからどんなにお勉強ができても、私はその学校に行きたいの」
「あっ、そうなんだ。俺、名古屋の学校のこと何も知らないから……。学校ごとにそれぞれの魅力があるんだね」
 皐月は真理から受験する学校の魅力について聞いたことがなかった。女子校に行く真理は自分に女子校の良さを語る必要がないとでも思っているのだろうか。皐月も自分の行かない学校にはあまり興味を持てなかったので、あえて聞こうともしなかった。

「真理ってさ、二橋さんと同じ班になってから明るくなったよね」
「真理ちゃんが明るくなったのは藤城さんと同じ班になったからでしょ」
 皐月は絵梨花が自分と真理のことをどう思っているのか気になっていた。この返答は皐月の望むものだった。
「いやいや。やっぱり二橋さんや吉口よしぐちさんと仲良くなったってのは大きいと思うよ」
「そうなら嬉しいな。じゃあ真理ちゃんが明るくなったように、私も明るくなったと思う?」
「思うよ。だって、俺と同じ班になったからな」
「ええっ? 真理ちゃんや吉口さんと仲良くなれたからだよ」
 皐月の軽口に絵梨花が楽しそうに笑っている。学校で見る笑顔とは違う。今は誰にも気を使わないで、自分だけに見せている笑顔だ。
「二橋さんもよく喋るようになったよね。だいぶイメージが変わった」
「えっ? イメージが変わったって、藤城さん、私のことどういう風に思ってたの?」
「高嶺のなでしこ……かな?」
「何、それ?」
「アイドルだよ」
 とっさに出たアイドルは皐月の本音に近かった。絵梨花のルックスはアイドルにも負けないくらい可愛いし、小学生にしては大人びたファッションは気品がある。アイドル好きの皐月から見ても絵梨花にはアイドルの持つ尊さがある。
 入屋千智いりやちさと及川祐希おいかわゆうきと出会う前や、真理との関係が深くなる前の1学期の間、皐月は絵梨花に仄かな好意を抱いていた。その気持ちは恋心とは呼べないもので、アイドルのファンのような感情だった。だが、こうして絵梨花と二人いると恋愛感情に昇華しかねない危うさがある。
「私が最近明るくなったのはね、藤城さんのおかげでもあるんだよ」
「嘘だー。さっき違うって言ったじゃん」
 皐月はわざと素っ気ない返事をした後で、軽く微笑んだ。
「だって藤城さんってすごく私に話しかけてくれるんだもん。そんな男の子、前の学校にもいなかったよ」
 歩道橋の上を通り抜ける風に、皐月は秋を感じた。学校が休みになる夏が一番好きだったが、今は秋が一番好きかもしれない。
「転校してきた当初はこの学校に一人も友達がいなかったの。だから1学期は誰も話しかけてくれなかったんだよ。1学期の途中に転校してきたらもう少し友達ができていたかもしれないって残念に思ってた」
 確かに絵梨花の言う通りだったかもしれない。皐月が初めて絵梨花を見た時、「誰? この子」だった。皐月は同じ学年の女子を全て把握していたので、転校していた絵梨花は皐月にとって全く知らない女の子だった。絵梨花と話をしてみたいと思っていたが、席が近くならなかったので仲良くなるきっかけが掴めなかった。
「別に嫌われてなんかないよ。嫌われてるわけないじゃん。二橋さんはいつも穏やかだし、学級委員として人望もあるし。それに男子の間では人気があるみたいだよ」
「そんなことないと思うけど……」
「いや、これは本当。みんな二橋さんのこと大好きだよ」
「もう……藤城さん、絶対に適当なこと言ってる」
「本当だって」
「みんなが大好きってことは、藤城さんも私のこと大好きなの?」
「お、おう……。もちろん大好きだよ」
「あははは……。面白いね、藤城さんって。告白されたみたいで嬉しいな」
 穏やかで真面目な印象だった絵梨花はときどき小悪魔的な面を見せる時がある。絵梨花の二面性は席が隣同士になり、話をするようになって初めて気付いた。月花博紀げっかひろきなどクラスの男子たちは誰も絵梨花のこの魅力を知らない。
「ただ、何て言うかな……二橋さんって完璧すぎて近寄り難いイメージはあるよね。俺でさえそう思ってたくらいだから、他の男子なんかみんな畏れ多くて声をかけられなかったはずだよ」
「完璧すぎるってどういうこと?」
「えっ……」
 聡明な絵梨花なら聞き流すはずがないことに皐月は意識が向かなかった。絵梨花の気持ちを上げることばかり考えていて、表現の仕方を間違えた。上げるだけならマイナスイメージの言葉を避けなければならない。
「それはさ、あれだよ……。二橋さんって可愛いし、性格もいいし、頭もよくてピアノも弾けちゃうし……。スペック高すぎじゃん」
「ふふふ。藤城さんにそんな風に褒めてもらえて、嬉しい。ありがとう」
「いや、クラスの男子はみんなそう思ってるって」
「そうだったね」
 絵梨花にしては珍しく、舞い上がっているように見えた。クラスの男子が云々というのは、皐月が自分の気持ちを誤魔化すために言った言葉だ。だが一度目ですでに見透かされていたので、二度目はただの照れ隠しだ。
 絵梨花のことを好きな男子はたくさんいるのは本当だ。博紀がそうだし、花岡聡はなおかさとしだってそうだ。他の男子からもそういう話を聞いていた。そして皐月自身もそうだ。
「二橋さんってさ、俺みたいに軽々しく話しかけてくる奴なんて軽薄だと思わなかった?」
「思わないよ。思うわけないじゃない。藤城さんみたいな人って人見知りにとってはありがたい存在なんだから」
「そうなんだ。てっきり白い目で見られていたと思ってた。俺、実際男子の中では結構浮いているからな。女とばっか話してるって」
 皐月はクラスの男子から少し距離を置かれている。昔はその原因が自分でもよくわからなかったが、最近は少しわかってきた。それは皐月が女子とよく楽しそうに話しているからだ。
 博紀が自分に対して複雑な思いを抱いていると、弟の直紀から聞いて初めて知った。そのことを踏まえると、最近態度が急変した聡の心境も想像がつく。同級生の男子から嫉妬をされている、というのが皐月の自己分析だ。自分の好きな女子が他の男子と親しげに話しているところなんて誰だって見たくない。
 でもこう考えると敗北感に打ちひしがれる。なぜなら博紀にはファンクラブまであり、女子の好意を一身に集めているからだ。それなのに博紀は男子からも人気があるし、クラスの男子は博紀には嫉妬していない。この彼我の差のせいで、皐月は博紀に対してずっと劣等感を持ち続けている。
「そうなの? 全然浮いてるようには見えないけど。私は藤城さんがクラスの中心人物だと思ってた」
「えっ? 中心人物は博紀だろ?」
「月花さんよりも藤城さんの方がいろんな人と交流があるでしょ。藤城さんって月花さんがあまり話さない人ともよくお話しているし、女の子みんなと仲良くお話しているよね。月花さんは付き合う人が限定されているから、人気者とは思うけど、中心人物だとは思わなかったな」
 皐月は絵梨花の評価が嬉しかった。絵梨花は博紀のファンクラブに入っていないだけあって、クラスの女子より視座が高い。ファンクラブの女子は博紀と比較しながら男子を見ている。
 博紀は寄って来る女子に対して適当にあしらうような態度を取っている。それがわざとなのか、意図しているものかはわからないが、結果的に男子からの嫉妬を受けずに済んでいる。皐月はそんな博紀の振舞いを学ばなければならないと思うようになった。

 絵梨花がバイオリンのレッスンがあると言うので、歩道橋上の立ち話を切り上げることにした。絵梨花は塾がない日でも忙しそうだ。
 歩道橋を下りて姫街道沿いを歩いていると、あっという間に踏切の手前まで来てしまった。皐月はもう絵梨花と別れなければならない。絵梨花は踏切を渡って、坂を少し下ったところに家があるらしい。もっと話をしていたい、と皐月は寂しさを感じていた。
 踏切の手前に姫街道と交差する細い道がある。皐月はこの道を左に行かなければならない。信号のないこの交差点を横断するのは少し危ない。安全を考えるなら、一つ手前の信号を渡って、姫街道の向こうへ行っておかなければならなかった。皐月がそれをしなかったのは、ほんの70mでも絵梨花と一緒にいたかったからだ。
 踏切警報機が鳴り始めた。遮断器が下りるのをぼ~っと眺めていると、さっき歩道橋の上で目が合ったタクシーの運転手、永井のことを思い出した。
 列車進行方向指示器が右方向、豊橋・国府こう方向を指している。名鉄豊川線の車両が来るのか、JR飯田線の車両が来るのかはわからない。さすがに時刻表は頭に入っていない。
「ちょっとこっちに来て」
 皐月は絵梨花の手を引いて、皐月が帰る逆方向の脇道に入った。ここだと鉄道の死角になる。今から来る列車に真理が乗っているかもしれないと思うと、絵梨花と一緒にいるところを真理に見せたくなかった。
 踏切を列車が通過した。駅を出たばかりの列車はまだスピードに乗っていなかったけれど、踏切警報機の音にジョイント音が加わってかなりうるさい。会話のできる状況ではなくなっていた。皐月は列車が通り過ぎるまでの間、ただじっと待っていた。
「どうしたの、急に」
 絵梨花の言葉に応えて思わず見つめると、彼女は頬を赤らめていた。
「なんでもない」
 皐月と絵梨花はまだ手をつないだままだった。皐月は無意識に絵梨花の手を取っていたが、学校帰りの高学年の小学生の男女が手を繋いでいるのは尋常ではない。いつしか皐月は女子に触れることに慣れ過ぎていた。
 皐月が絵梨花を見つめていたのはほんの刹那のことだったが、嫌がっていないことがわかって安心した。少しはにかみながら、皐月は自分から手を離した。
「俺、帰り道むこうだから一緒に帰れるのはここまでだな……」
「うん」
「二橋さんと学校の外で話をするのって初めてだね。楽しかった。またこうして話せたらいいな」
「いつでも話せるよ」
「そう?」
「うん」
 絵梨花がランドセルを下ろしてスマホを取りだしたので、皐月も絵梨花に倣った。絵梨花が自分から連絡先の交換をしようと言ってきた。絵梨花も皐月もアプリの使い方に慣れていなかったので、二人は取次筋斗しどろもどろになりながら連作先を交換した。
「勉強とかの気晴らしでもいいから、気が向いたらメッセージ送ってよ」
「真理ちゃんもそんな風に藤城さんにメッセージ送ってくるの?」
「あいつは幼馴染だからな。遠慮がないんだ。まあ、あいつはたまにしか送ってこないけどね。二橋さんも遠慮しなくていいよ」
「ありがとう」
「オンラインじゃなくて、またこうして会ってお喋りしたいな」
「うん」
「じゃあ俺、帰るね。バイバイ」
「うん。また明日」
 絵梨花に見送られながら、皐月は慎重に姫街道を横切った。絵梨花に手を振った後、きびすを返して家に向かって歩き出した。後ろを振り返ることはしなかった。今は背中に視線を感じながら歩きたかった。


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