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光と闇が作り出す優しい幻想(皐月物語 115)

 ショッピングを終えた明日美あすみ藤城皐月ふじしろさつきはメンズファッションショップ『コンパル』を出た。豊橋の夜は迫っていた。まちなか広場の並木はすでにライトアップされていた。今はまだ夕明かりの中にあるが、夜のとばりが下りてしまえば、樹々は光で美しく照らされる。
「ねえ、皐月ってカレー好き?」
「うん、好きだよ。大好き。給食で一番好きな献立」
「今晩は一緒にカレー屋さんに行ってもらいたいんだけど、いいかな?」
「いいよ。CoCo壱番屋ここいち?」
「ううん。インド料理の店」
 皐月はまだ本格的なインド料理を食べたことがなかった。インドのカレーが日本のカレーと違うということは映像で知っていた。作ってみたいと思ったことがあったけれど、自炊するにはハードルが高かったので、いつかお店で食べてみたいと思っていた。
「私、外食ってほとんどしないんだ」
「本当? じゃあ、普段の食事は自分で作っているの?」
「滅多に作らないかな……。何か買って来て食べたり、レトルトで済ませたりすることが多いよ」
「あ~、なんかそんな感じ。明日美の部屋って生活感がないから、自炊しているように見えないんだよね」
「片付けをちゃんとしているだけよ」
 皐月は自分の家の台所が片付いている方だと思っていた。及川頼子おいかわよりこが住み込むようになり、家の中が整理整頓されるようになったからだ。だが、明日美の家のキッチンはレベルが違う。全ての物が完全に収納されていて、外に物が一つも出ていない。
 明日美と皐月はライトアップされた並木道を抜け、豊橋まちちか駐車場から emCAMPUSエムキャンパス EAST の建物の中に入った。1階のフードコートには寄らずに、そのまま地下にある豊橋まちちか駐車場へ下りていった。事前精算機で支払いを済ませて明日美の車の方を見ると、周りには一台も車が止まっていなかった。
 改めてレジェンド・クーペを見るとデザインが美しい。大きな車体なのに2ドアというのも贅沢な感じがしていい。車の後方から近づいたので、リアからのスタイルをよく見ることができた。この車は豊満な女性を思わせる色気がある。
 明日美と皐月は車に乗り込んだ。明日美のスマホでナビをするので、明日美にインド料理店を検索してもらった。
「皐月、どの店がいいと思う?」
 スマホを持って明日美が身を寄せてきた。皐月がスマホを覗きこむと、自然と顔を寄せ合うことになった。大人の女の匂いがした。皐月は女性の香りに弱いので、理性のたがが緩んでしまい、明日美の頬にキスをした。
「あっ……やったね」
「へへっ。だってしたかったんだもん」
「今はダメ。我慢して」
「じゃあ後で。ええっと……インド料理か」
 拒否する意思を見せられると、これ以上強引なことはしたくはないので、皐月は話を元に戻した。
「スーパーの『フィール』でね、時々インドカレーのお弁当を売りに来る『スヴァーハー』っていう店があるの。そのお店のレストランが豊川とよかわにあるから、そこに行ってみたいな」
「なんだ……行きたい店、決まってんじゃん。それならスマホで探さなくても良かったのに」
「一緒にスマホを見ているから、こういうことができるんでしょ?」
 そう言いながら、今度は明日美からキスのお返しをされた。
「さっき俺に我慢しろって言ったじゃん」
「皐月に先にキスされちゃったからね。ちょっと意地悪を言ってみたくなったの」
 明日美が眼鏡を外した。地下駐車場の車内は顔の辺りが少し暗くなるが、かえって明日美の美しさが増しているように見えた。大人の色気にひるみそうになるが、皐月から顔を寄せた。三度目のキスは唇が重なった。

 外に出るともう日が沈んでいた。駅前大通りにはたくさんの光の帯が流れていた。明日美の運転するレジェンド・クーペもその流れる光の一つとなった。
「音楽はどうする? 皐月の好きなアイドルでも聴く?」
「いい。今は音楽なんていらない」
「そう?」
「うん。夜景が珍しいから、非日常を味わいたい」
 皐月には不思議な感覚だった。夜の街を車で走る……これが大人の恋愛なのかと思うと、自分がもう子供ではないような気がしてきた。
「非日常か……。皐月って大人でもあまり使わない言葉を知ってるのね」
「こう見えても勉強はできる方だからね」
 夜のドライブは皐月にはほとんど経験がなかった。数回程度、母の小百合さゆりと一緒にタクシーに乗ったことがあるだけだ。車の助手席は電車の車窓と違って、明るく賑やかだ。
 車の車窓は鉄道の車窓のような寂しさはない。だが、前後左右に他の車があり、信号で止まったり、加減速が頻繁にあったりして落ち着かない。右隣を見ると、明日美は往路よりも神経を研ぎ澄まして運転しているように見えた。皐月は明日美に窓の外を眺めていたいと伝えた。運転の邪魔になりたくなかった。明日美には運転に集中してもらいたい。

 国道1号線から国道151号線を経て、『スヴァーハー』へ着いた。駐車場に車を止めると、明日美がかなり疲れていることがわかった。皐月は明日美の左腕にそっと手をかけた。
「運転、ありがとう。夜の街を車で走ってもらって、すごく楽しかった」
「そう言ってもらえると、私も嬉しいな」
 車から降りると明日美が少しふらついたので、皐月はすぐに明日美に駆け寄った。
「慣れない道は疲れるね。私、それほど運転うまくないから」
「俺が乗っていたから、丁寧に運転してくれたんだね。ずっと快適だったよ。車酔いなんてしなかった」
 店の照明の光に浮かぶ明日美は夢幻ゆめまぼろしのように見えた。心細くなった皐月は肩に手を置くと、明日美はそこに確かにいた。てのひらに体温を感じ、吐息の甘い匂いもした。皐月はホッとすると、急にお腹が空いてきた。
「俺、インド料理の店に来るの初めてだよ。楽しみだな」
「私も……」
 明日美が先に立って店に入ろうとしたので、皐月は遅れないようについて行った。前を歩く明日美を見ていると、自分の感じた不安が気にし過ぎだったのかと滑稽に思えてきた。

 店に入ると、皐月が想像していたよりも店内は整然としていた。インド料理のレストランということで、皐月はカオスなバザールのような雰囲気を期待していたが、ここは日本だ。だが、店内には哀愁を帯びた民族音楽が流れていて、エキゾチックなムードはある。皐月の気分は盛り上がってきた。
「いらっしゃいませ」
 若い女性の店員から丁寧な接遇を受け、ブースのような席に案内された。パーソナルスペースを保つためか、外から顔を見られないように隠せるエスニック柄のカフェカーテンがあった。壁には曼荼羅を思わせる円形パターンのパネルが掛けられていた。
「面白いね、ここ。なんて表現したらいいのかわからないけど、日本じゃないみたい」
「何、それ? でも、非日常だよね」
 明日美がさっき言った言葉を返してきた。皐月はこういう会話が大好きだ。明日美は楽しそうに笑っているのに、光の加減なのか、いつもと違う髪型とメイクだからなのか、車の中で見た時よりも妖しく美しい。皐月にとってはこの店にいることよりも、ここに至るまでの体験や、目の前に明日美がいることが非日常だと思った。
「何を食べようかな……カレーのいい匂いがするから、お腹が空いちゃった」
 明日美でもお腹が空くのかと、皐月には不思議に思えた。明日美には食事を摂らないでも生きていけるような非現実的なイメージがあった。それは皐月が明日美に憧れていた期間が長かったからで、こうして現実に明日美と付き合うようになってからもその心象がまだ拭い切れていない。
 明日美がメニューを手に取った。ディナーメニューのページを開いていたので、皐月もそこから選ぼうと思った。
「いつもスーパーで買っているカレーとは違うものを食べてみたいな……」
 明日美はレディースセットを選んだ。定番のカレーメニューから1種類選べるところが気に入ったようだ。このセットにはスープ・サラダバイキングとドリンクバーの他に、生春巻きが付いていて、ナンを選べる。
「カレーはブロンマサラにするね。ナンは普通のでいいかな……」
 ブロンマサラはコクのあるエビカレーだ。皐月もエビを食べたくなってきたが、家ではチキンのカレーが好きだ。
「皐月は何にする?」
 単品を組み合わせた方が面白そうだが、今日は御馳走になるので高額になるようなことはできない。皐月は無難にセットメニューにしようと思った。
「エビマヨセットにしようかな。これならカレーとエビの両方を食べられる」
 エビマヨセットはエビマヨとカレーのセットだ。その他にスープ・サラダバイキングとドリンクバー、タンドリーチキンが2本付いていて、ナンを選べる。
「カレーはバターチキンにしようかな。俺、バターもチキンも好きだから」
「バターチキンカレーはインド料理の定番だから、美味しいと思うよ」
「ナンはどうしよう……本当はご飯が食べたいんだけど、せっかくインド料理店に来たんだから、やっぱりバターナンにする」
 注文が決まったので店員にオーダーして、明日美と皐月はドリンクバーへ行った。明日美がマンゴージュースとラッシーを混ぜて、マンゴーラッシーを作っていたので、皐月も明日美の真似をした。スープバイキングでは皐月はコーンスープを選び、明日美はえびスープを選んだ。サラダバイキングでは明日美は量を控えめに、皐月は好きなポテトとコーンを多めに盛り、インドかベトナムの漬物のようなものを少しだけ載せた。

 皐月は明日美の食生活が気になっていた。明日美はどんな食べ物が好きで、普段は何を食べているのか。皐月はそんなことすら知らなかった。そもそも明日美が何かを食べているところをほとんど見たことがない。こうして一緒に食事をするのも初めてだ。
「明日美って普段は何を食べているの?」
「何それ? 変な聞き方をするのね……。心配しなくてもちゃんとした食事をしているよ。ご飯を炊いて、お味噌汁を作って、おかずも食べて。普通でしょ?」
「でも、あまり自炊しないんだよね?」
「お味噌汁は多めに作って、2~3日は同じのを飲んじゃうかな。だからあまり料理はしない方かも。おかずはスーパーで買っちゃってるけどね」
「味噌汁を自分で作るだけでも偉いじゃん」
「疲れているときは味噌汁もインスタントにしちゃってるんだどね。へへ」
 自分で作らない割には、思ったよりもきちんと食事を摂っているようなので、皐月は安心した。家のキッチンを見て、明日美は料理なんかしないのかと思っていたが、そうでもなさそうだ。
「皐月は頼子さんが家に来るまでは食事、どうしていたの?」
「俺はね、自炊することもあったけど、外食が多かったかな」
「一人で外食するの?」
「うん」
 明日美がかなり驚いている。皐月にはどうして明日美がそんなに驚くのかわからなかった。
「小学生なのに一人で外食?」
「そうだよ。家の近くにお店がたくさんあるからね。たまに自転車で遠出して、全国チェーンの店に行くこともあるよ」
「へ~、すごいのね。私は一人で外食ができないから、尊敬しちゃうな」
「一人で外食できないって、明日美、大人じゃん」
「人前に出るのが好きじゃないの」
芸妓げいこなのに?」
「芸妓の時は衣装や化粧で武装しているから平気なの」
 明日美は人の目を気にしているのかな、と思った。こういうのは自意識過剰と片付けられてしまいがちだが、皐月はそうは思わなかった。明日美くらい美しいと、どうしても周りの人は目で追ってしまう。それに、機会があれば話しかけてみたいと思う人もいるだろう。小学5年生の入屋千智いりやちさとでさえ外に出るときは目立たないようにしているから、皐月には明日美の心情がわからないでもなかった。
「こうしてね、皐月が一緒に食事をしてくれると助かるよ。行きたくても行けなかったお店で外食ができるから」
「そういうことなら、いつだって俺がお供するよ。俺も明日美と食事ができると嬉しいからさ。時々明日美と食事に行きたいって、ママに言ってみるよ」
「ありがとう。でも、百合姐さんに変な風に思われないかな……」
「しょっちゅうじゃなければ大丈夫だと思うよ。俺は毎日でも一緒にご飯を食べたいけどね」
「じゃあ私からも百合姐さんにお願いしてみる」
 皐月と明日美がスープを飲んでサラダを食べていると、カレーとナンがやってきた。明日美の生春巻きと皐月のエビマヨとタンドリーチキンもきた。
「これは……すごいボリュームだな。ナン、でかっ!」
「皐月、全部食べられそう?」
「俺は余裕だけど、明日美は?」
「たぶん大丈夫だと思うけど……」
「多かったら俺が食べてあげるよ」
 皐月と明日美はお互いに食べ物をシェアをして食べることにした。そうすればより多くの品を食べられる。
 カレーは皐月の想像していたのと違い、マイルドな味付けだった。インド料理ということで、もっと辛く、癖の強い味なのかと思ったが、日本人向けにアレンジされているようだ。生春巻きはソースがベトナム風の味付けで、辛かったり甘酸っぱかったりして、皐月の知らない不思議な味だった。

みちるちゃんと服を買いに行くっていう話もあったと思うけど、どうなってるの?」
 食事が進み、残りが少なくなると二人の会話が増えてきた。明日美から満も皐月と買い物に行きたいという話を振られ、皐月はビクッとした。満の話は明日美も知っていることだ。
「今週の日曜日にどうかって、ママから言われたんだけど……行かない方がいいかな?」
「えっ! どうして? 行けばいいじゃない」
「だって……明日美、嫉妬とかするでしょ?」
 おどおどする必要はないとわかっていたが、皐月は明日美以外の女性と会うことが気まずかった。
「嫉妬なんてしないよ。満ちゃんなら大丈夫」
「満姉ちゃんなら大丈夫って、どういうこと?」
「あの子はね……私よりも男の人が嫌いなの」
「そうなの?」
 芸妓は男嫌いばかりなのか、と皐月は不思議に思った。考えてみれば母の小百合もそんな感じがするし、母の師匠の和泉いずみ検番けんばん京子きょうこなんて男性に対して辛辣な言葉しか聞いたことがない。幼馴染の栗林真理くりばやしまりの母の凛子りんこのように恋人のいる芸妓の方が珍しいのかもしれない。
「それに男の人よりも女の人の方が好きなんだって」
「ホント? それって、もしかしてレズってこと?」
「はっきりそういう話をしたことはないけれど、どうなんだろうね」
「明日美はそういうの、満姉ちゃんから感じたことある?」
「う~ん、満ちゃんには懐かれているけど、そういう雰囲気は感じたことないな……」
 皐月には満が普通の女性にしか見えなかった。満がレズビアンなら衝撃的な話だが、そうではなさそうで安心した。だが、明日美よりも男嫌いだということが気になる。皐月は自分が男だということに不安を覚えた。
「満ちゃんは私よりもずっとしっかりしているから、安心して皐月のことを任せられるわ。恐らく百合姐さんも同じことを感じているんじゃないかな」
「そうなのかな……。俺だって男だよ? だったら満姉ちゃん、俺のこと嫌いなんじゃないのかな?」
「満ちゃんには皐月のことがまだ男の子にしか見えていないと思うよ。皐月のことを男として見ている私がおかしいんだよ」
 明日美に男として見てもらえるのは嬉しいが、それがおかしいと改めて言われると、皐月は複雑な気持ちになった。

 食事を終えた皐月と明日美はスヴァーハーを出た。母に着せられた長袖のシャツのお陰で夜の冷たい風に身体が冷えずに済んだ。
「帰ろうか」
「俺……9時までに帰ればいいんだけど」
 門限まではまだ1時間半は残っている。皐月はいつまでも明日美と一緒にいたいと思っているのに、こんな日まで門限を設定した母のことを恨めしく思った。
「じゃあ、家に寄っていく?」
「いいの?」
「うん。本当はドライブに連れて行ってあげたいんだけど、ちょっと疲れちゃって……。ごめんね」
「そんなのいいけどさ……。疲れてるなら、俺、帰った方がいいのかな?」
「帰らなくてもいいよ」
「そう? ……わかった。じゃあ家で一緒に休もう」
「ありがとう」
 明日美に「家に寄っていく?」と言われた時、皐月は気持ちが通じたことが嬉しかった。夜のドライブも楽しそうだが、皐月は明日美と家で二人になりたかった。だが、明日美が本当に疲れて家に帰りたいのなら、明日美の言葉を手放しでは喜べない。車の運転で負担をかけたことを思うと心苦しい。

 スヴァーハーからの帰り道、明日美は人気ひとけのない道を選んで車を走らせた。店のない、家の明かりと街燈だけの夜道に、皐月は寂しさではなく、人の温もりのようなものを感じていた。少し前まではあの明かりのもとに自分は独りでいた……皐月はそんなことを思い出し、感傷的になった。
 皐月は自分のまわりに寂しい人が多いことに気が付いた。芸妓げいこの子という境遇のためなのか、皐月の周囲には独身やシングルマザーが多い。
 皐月の家は母子家庭だ。小百合寮に住み込みに来ている頼子もシンママになった。真理の家もそうだし、検番の京子もそうだ。明日美は独身で、一人暮らしをしている。母の小百合の師匠の和泉もそうだ。京子の娘の玲子れいこもそうだ。皐月が深く関わっている人たちは訳ありの人が多い。
 闇にともる家の明かりからはそれぞれの家の事情はわからない。皐月にはどの家も等しく幸せそうに見える。
 それは人も同じだな、と皐月は考えた。人の持つ背景なんて、自分から知ろうとさえしなければ何も分かりはしない。その人の闇に首を突っ込まなければ、その人の知られたくない過去のことなんて知らずにすむ。人なんて、ただその人の放つ淡い光オーラを見ていればいいのかもしれない。
 夜景に寂しさを感じないのは、光と闇が作り出す優しい幻想なんだろう。皐月は窓の外を見ながらそんなことを思っていた。
「静かになっちゃったね。皐月って、よく物想いに耽るよね」
「あっ……ごめん」
「いいよ、何も話さなくても。皐月が隣にいてくれるだけで私は安心なんだから。それより私の方が皐月の邪魔をしちゃったみたい」
 自分も明日美が隣にいるだけで心が安らいでいる。それは明日美が年上だから甘えているからだと思う。だが、自分の何が明日美を安心させているのか、皐月には全くわからなかった。


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