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ゆっくり待っていられない事情(皐月物語 116)

 インド料理のディナーを堪能した明日美あすみ藤城皐月ふじしろさつきは夜の街を少しドライブした後、明日美の家に帰って来た。マンションの前の道は豊川稲荷の樹々に音を吸収されているかのように静かだった。
 明日美は駐車場に車を入れるのに苦労していた。明日美は自分の車室の両隣に住人の車が止まっていることを気にしているようだ。レジェンド・クーペにはバックモニターがない。スムーズに車室の真ん中に入れるのは難しいのか、何度もやり直していた。車を駐車し終わると、明日美は少しぐったりとしていた。
「私、車庫入れって苦手なのよね……。こんなに苦労するのなら、新車の軽にしておけばよかった」
「でもさ、車庫入れってなんか面白そうじゃん。一発で決まったら、気持ち良さそう」
「失敗できないっていうのはプレッシャーなのよ。隣の車にぶつけると迷惑かけちゃうでしょ? 車が自動で車庫入れしてくれるとありがたいんだけど……」
 実際に車を運転することと、ゲームで車を操ることは全く別物だということを皐月はこの時初めて実感した。まだ社会経験の浅い皐月はバーチャルとリアルの違いを過小評価しているものが多い。
 車を下りた皐月はこの後の出来事に期待が高まっていた。これから誰にも見られないところで明日美と二人きりになれる……もう子供ではない皐月は忍び逢いの歓びを知ることとなった。夜は話し声が響きそうなので、駐車場から部屋に着くまでは無言でいようと思った。
 エレベーターを降り、明日美の部屋の前まで来た。ドアの鍵を開けている明日美を見て、皐月は緊張が高まった。前にこの部屋に来たときは一人だった。女の住む部屋に二人で入るこの状況は大人のロマンスのようだ。
 部屋に入ると、明日美は一人で先に奥へ行ってしまった。取り残された皐月が遅れてリビングへ行くと、明日美は衣裳部屋で上着を脱いでいた。
「ねえ、部屋着に着替えてもいい?」
「うん」
「ありがとう。恥ずかしいから、ここ閉めるね」
 明日美は開け放されていた戸を閉めた。皐月は荷物を床に置き、ラグマットの上に座って明日美の着替え終わるのを待つことにした。
 皐月が明日美の部屋に来るのはこれで二度目だ。今はもう、最初にこの部屋に入った時のような驚きはない。皐月はすでにこの何もない部屋にもう馴染んでいた。
 無機質に見えるリビングも、良く見ると生活の痕跡がたくさんある。いつも座っている場所は端っこよりも少しだけマットがくたびれていたり、テーブルの向きが部屋の壁と少しだけ平行がずれている。気が付くことが多くなるほど、明日美が確かにここで生活をしているということを実感できる。
 引き戸が静かに開き、部屋着に着替えた明日美が衣裳部屋から出てきた。
「待たせちゃって、ごめんね」
「えっ!」
 明日美のラフな格好に皐月は思わず声を出してしまった。薄いピンクの無地の長袖Tシャツにグレーの綿のパンツ、足は素足だ。皐月には明日美が急に子供っぽくなったように見えた。それでもメイクは外出した時のままだったので、そのアンバランスさが妙になまめかしい。皐月はドキドキしてきた。
「私ね……家ではいつもこんな感じなの」
 前に明日美と家で会った時は稽古着だった。あの時はまだ外を歩けるコーデだったが、今の姿ではコンビニに行くのも恥ずかしいくらいのセットアップだ。
「寛いだ格好してても、明日美って世界で一番可愛いよね」
 本当は可愛いではなく、色っぽいと言いたかった。だが皐月は恥ずかしくて性を連想させることを言えなかった。
「あれ? 皐月の世界で一番って、久しぶりに聞いたな……。最近は世界で一番綺麗って言ってくれなくなったよね」
「それはさ……明日美が綺麗過ぎて言葉を失ってたんだよ。しょうがないじゃん」
 皐月の言葉は半ば本心で、半ば嘘だった。今は以前のように明日美を綺麗だと憧れる関係ではない。美しい明日美と恋愛関係になったので、言葉よりも先に身体に触れることができる。だが、このことを正直に話すと性衝動リビドー見透かされそうなので、適当なことを言って誤魔化すしかない。
「しょうがないのか……。何も言ってもらえないのはちょっと寂しいけど、しょうがないんだね」
 明日美が皐月のすぐ隣に座ってきた。
「でもさ……明日美だって俺が『世界で一番可愛い』って言ったのに、昔のようにムギュってして、チュッってしてくれないじゃん」
 皐月はわざと拗ねた顔をして見せた。
「……だって、皐月って大きくなっちゃったでしょ? 子供の頃のように可愛がることなんてできないよ」
「できるよっ!」
 皐月は明日美に背中からぶつかるように体を預けた。倒れない程度に体重をかけると、明日美は皐月を抱いて受け止めた。
「俺、大きくなったって言っても、実際は数センチしか背が伸びていないよ。それに、子供の頃のようなことができないんだったら、大人がすることをしてくれればいい」
「大人がすることって言われても……」
 明日美の言葉が止まった。続く言葉を待っていても、明日美は何も言おうとしなかった。明日美は皐月から体を離して、向き直った。
「ごめんね。……どうしたらいいのか、わからない」
 明日美は弱弱しく愛想笑いをした。
「また意地悪を言う……」
「そんなことないよ。本当にわからなくて……んんっ」
 皐月は明日美の口をふさぐようにキスをした。
「大人ってこういうことをするんだろ?」
 皐月はもう一度、いつも真理にするようなキスをした。祐希にした最後のキスのように舌を入れてみた。
「っ……ちょっと……」
 皐月は明日美に押しのけられた。祐希ですら一瞬でも応えてくれたのに、明日美には反射的に拒絶された。皐月は激しく動揺した。血の気が引く思いで明日美を見ると、辛そうな顔をしていた。
「ごめんね。皐月の思いに応えてあげられなくて……」
 どうして、と聞きたいところを皐月はぐっと我慢をした。もうこれ以上、明日美から子供扱いをされたくはない。
「俺の方こそ、ごめん」
 明日美にこんな官能的なキスをするのは初めてだった。皐月と真理は何度もこういうキスをしてきたので、大人の明日美なら受け入れてくれるのかと思っていた。皐月は明日美のことを恋人だと思うのはまだ早いのかと思い、悲しくなった。
 二人の間に気まずい沈黙が流れた。明日美がどことなく怯えているように見えた。皐月は自分の行為が乱暴に過ぎたことを思い、取り返しがつかないことをしたんじゃないかと怖くなってきた。
「俺……帰った方がいいのかな?」
 皐月は自分が姿を消すことしか明日美を安心させるすべを思いつかなかった。
「まだ帰らなくてもいいじゃない。9時まで1時間以上あるでしょ?」
 何の装飾もない白い壁でも時計だけは掛けられていた。
「……ここにいてもいいの?」
「いてよ」
「……うん」
 明日美の意外な言葉に皐月は戸惑った。強い拒否反応にこの恋は終わったかもしれないと思っていた。命拾いをしたような展開に胸をなでおろしたが、ショックが消えたわけではない。
「お願いがあるんだけど……」
「何?」
「私ね、皐月に見守られながら眠ってみたい」
「えっ? ……いいけど。明日美、眠いの?」
「まだ眠くない。ちょっと疲れただけ」
「俺と出かけたことで疲れちゃったんだ……」
 車の中やレストランで感じた明日美の疲れは皐月の思い過ごしではなかった。慣れない運転による心労だけでないのかもしれない。
「病気をしてからはできるだけ休むようにしているの。家にいるときはゴロゴロしていることが多いよ」
「そういえば、そんなこと言ってたね」
 検番けんばんに住む、明日美の師匠の京子きょうこは明日美の過労を心配していて、皐月は明日美の身体を気にかけるようにと頼まれていた。皐月はこの日、明日美が自分と会う前に稽古に根を詰めていた可能性を考慮していなかった。迂闊うかつだった。
「だから、ちょっと横になりたいなって思って……。そうしたら寝ちゃうかもしれないでしょ? その時、皐月がそばにいてくれると嬉しいなって……」
 人はいくつになっても寂しいのかもしれない。一人で過ごすことが多かった皐月にはその気持ちがよくわかる。
「俺、明日美が眠るまで見ててあげるよ。でも条件がある」
「条件?」
「うん。条件は二つ。まず歯磨きをすること。それとメイク落としもね。このまま寝ちゃダメでしょ?」
 明日美が目を丸くしていた。このまま寝てしまうのなら、本当はシャワーも浴びてもらいたいと思った。だが、そんなことを言うと明日美と一緒にいられる時間が削られると思い、皐月は条件を二つに絞った。
「皐月はしっかりしているのね」
「そんなの、当たり前じゃん」
 明日美は皐月の肩に手をついて立ち上がり、洗面所へ行った。一人残された皐月は門限の時間の10分前に合わせてスマホのタイマーをセットした。明日美を待っている間にメッセージをチェックすると、いくつかの着信があった。とりあえず既読にしておいて、返信は家に帰ってからすることにした。その後は明日美が戻ってくるまでインスタで鉄道写真を見て、時間を潰すことにした。

 明日美が洗面所から戻って来た。メイクを落とした明日美には意外にも幼く、少女の面影がまだ残っていた。
「すっぴん見られるのって恥ずかしいな……」
「そう? 小学校じゃ女子は全員すっぴんだよ。それに明日美はメイクなんかしなくても世界で一番綺麗だよ」
「ありがと~。皐月、お前は本当に可愛いなぁ。チューしてやるよ」
 明日美は昔のような台詞をいいながら、後ろから抱き締めてきて何度も頬にキスをしてきた。でもテンションは以前よりも高くなかったので、無理してはしゃいでいるんだなと思った。皐月は明日美に合わせて子供のままでいようと思った。抱きしめられた感触がいつもよりも柔らかかった。
「これから寝るんだろ? ベッドで横になりなよ。俺、見ててやるからさ」
「ここで寝ちゃおっかな。テレビで動画を見ながらダラダラして過ごすのが好きだから、フカフカのマットにしたの」
「へ~、そうなんだ。でもさ、こんなところで寝ちゃうと風邪引いちゃうから、布団に入らなきゃダメだよ」
「ふ~ん。皐月はちゃんとしてるんだね」
「当たり前じゃん」
 皐月は明日美を連れて寝室に入った。部屋の明かりはつけず、ベッドの照明をつけた。布団に入る明日美を見て、皐月はベッドサイドにしゃがみこんだ。
「見ててあげるから、寝ちゃってもいいよ。帰る時って玄関の鍵、どうしよう? あれって勝手に鍵がかかるやつ?」
「オートロックだから、ドアを閉めれば自動的に施錠されるよ。それよりもさ……こうして最初に話すことが帰る時の話ってどうなの?」
「あぁ……そうだね。ごめん」
「帰る話なんかされると寂しくなるじゃない。……あ~あ、帰らないでほしいな……。泊ってってくれるといいんだけど」
 明日美が真理と同じことを言うことが面白い。真理の家だと母の凛子りんこが帰ってきてしまうが、明日美の家には明日美しかいない。ここに泊っても誰からも責められることはない。だが、家に帰らなければ母の小百合さゆりに怒られるだろうし、それだけではすまないかもしれない。皐月は自分が親の庇護下にある小学生だということが悲しくなってきた。
「ねえ、一人暮らしって寂しい?」
「んん……最初は全然寂しくなかった。解放感があって楽しかったよ。でも病気をしてからかな……一人が寂しいって思うようになったのは。寝る前に、このまま目が覚めないかもしれないって考えると、怖くなっちゃってね。それからかな、心細くなったのは。一人で死ぬのはやっぱり寂しいよ」
「明日美ってそんなこと思ってたんだ……」
「うん。私の病気って突然死することもあるからね。いつ死ぬかわからないっていうのは、いつも意識している」
 自分が死ぬかもしれないという話をしているのに、明日美は穏やかな顔をしている。怖くなると言った同じ明日美とは思えない。
「でもね、こうして看取られるんだったら、死ぬのも悪くないなって思う」
「看取るとか、変なこと言うなよ……」
 皐月の目から涙が溢れてきた。震えそうな口元を抑え込むため、強く歯を食いしばり、てのひらの金星丘で頬を濡らした涙をぬぐった。
「皐月、さっきはごめんね」
「えっ? 何が?」
「せっかくキスしてくれたのに、私から拒んじゃって……」
「ああ……いいよ。俺、あの時はちょっと乱暴だった。いやらしいよね、あんなの」
「ううん、そうじゃない。私、ああいうのってしたことなかったから、びっくりしちゃって……」
「えっ! そうなの?」
「うん……。私、男の人とお付き合いなんてしたことないから……」
 皐月には明日美の言葉がにわかに信じられなかった。明日美は大人だし、芸妓だし、美しいうえに色っぽい。それなのに恋愛経験がないなんて有り得ない。これはきっと、客に言う嘘なのだろうと思った。
「じゃあ、俺が最初の恋人なんだね」
「うん」
 皐月は明日美の嘘に付き合って、騙されてみようと思った。明日美の言葉は本当かもしれないし、嘘かもしれない。皐月は嘘でもいいと思った。皐月にとって大切なのは、今の明日美だからだ。

 ベッドサイドに座っていた皐月は明日美の枕元にもたれかかり、自分で腕枕をして、顔の向きと目線を横になっている明日美に合わせた。
「俺と出かける前って稽古してたの?」
「少し」
「勉強もしてた?」
「少しだけね」
「頑張り過ぎちゃった?」
 明日美の人差し指が鼻に触れ、皐月はブタ鼻にされた。
「皐月、心配し過ぎ。大丈夫だよ。無理なんてしてないから」
 皐月も仕返しで、明日美をブタ鼻にした。
「明日美はブタ鼻でも世界一可愛いね」
「可愛いわけないでしょっ!」
 明日美が皐月の鼻をつまんだ。皐月もお返しをしようとすると、明日美が抵抗した。笑いながらはしゃいでいると、こういうのがいちゃいちゃすることなのかなと思った。ベッドサイドに座っていると、明日美が遠く感じる。
「ねえ、皐月も布団の中に入って来てよ」
 明日美の笑顔が少し強張っていた。皐月は思いが通じたことに驚いた。
「うん……」
 皐月がベッドに上がると、明日美が掛け布団をかけた。シングルベッドなので、体を寄せ合わないと落ちそうになる。二人で枕を半分こにした。
「こんなに早く、こういう日が来るとは思わなかったな……」
 明日美は穏やかに微笑んでいた。
「皐月が大きくなって、大人になってからなら、こういう関係になってもいいかなって思ってた。でも、いつ死ぬかわからなくなって、今日にでも死んじゃうかもしれないって思ったら、ゆっくり待っていられなくなっちゃった」
 皐月は明日美の言葉をただ聞いていることしかできなかった。
「小学生の皐月とこんなことしちゃって、いやらしい女だって思うよね?」
「そんなこと思わないよ。俺だっていやらしいし」
「そうだね。あんなキスをするくらいだもんね」
 明日美に笑われると、皐月は急に恥ずかしくなった。
「ねえ……さっきみたいなキス、してもいいよ」
「……」
「でも、あまりドキドキすると心臓が止まっちゃうかもしれないから、気を付けてね」
 明日美は怖いことを言う。何に気を付ければいいのか、皐月にはまるでわからない。
「大丈夫かな……」
「私はそのまま死んじゃってもいいけど、皐月はそんなの嫌でしょ?」
 布団の中が体温で暖かくなってきた。瞬きを長めにして目を瞑ると、気持ちよくなって、目が開けられなくなる。深刻な話をしているのに、安らかな気持ちになってしまう。
「……そうか。俺、明日美を殺しちゃうかもしれないんだ」
 皐月はこれ以上明日美を求めてはいけないんじゃないかと思い始めた。こうして二人でくっついているだけでいいのかもしれない。
「でも、皐月が離れていっちゃうのは嫌……」
 皐月は明日美の頭に手を置き、軽く抱きしめた。この間に時間を稼ぎ、この先明日美とどうしたらいいのかを考えられるだけ考えた。頭に置いた手を背中へと這わせると、ブラジャーをしていないのに気が付いた。
「じゃあ、明日美が死なないようにしないとね」
 皐月は軽く明日美と唇を重ねた。この時の明日美の吐息は真理や祐希と似ていて、少女の匂いがした。あるいは真理や祐希が女の匂いだったのか。
「そんなに軽くしなくても大丈夫だよ」
 今度は明日美から唇を合わせ、舌を入れてきた。軽く吸って舌同士が触れ合うと、明日美がビクッとして顔を離した。
「あ~、こんなことしてると本当に死んじゃうかもね」
 さっきと違い、明日美は嬉しそうな顔をしていた。
「じゃあ、やめようか?」
「えっ! やめるの? 皐月、やめられるの?」
「無理」
 皐月はキスしたくなる気持ちを抑えるため、明日美を強く抱きしめた。
「これからは少しずつ、大丈夫なレベルを探りながらしようか」
 皐月はこの程度のことしか思いつかなかった。皐月には明日美と別れることは考えられなかった。かといって性欲を抑えることもできそうにない。みっともないことを言っているなと思った。
「こんなに幸せなら、私はこのまま死んでもいいな。でも、皐月が大変だよね。私の死体処理が」
「バカ……変なこと言うなよ」
「でも、皐月に抱かれて死ねるなら、これ以上の幸せはないかもしれない。……何言ってるんだろうね、私。小学生相手に」
「小学生って言うなよ。気にしてるんだから」
「皐月は私のこと、おばさんって言わないから好き」
 皐月の腕の中で明日美が泣いていた。もし明日美が本気でそう思っているのなら、自分が明日美を殺してあげなければならない……。こんな倒錯した思いが皐月の中に育ち始めた。


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