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修学旅行、清水の舞台から仁王門に戻るまで(皐月物語 133)

 清水の舞台で景色を眺めていた藤城皐月ふじしろさつき岩原比呂志いわはらひろしは続々とやって来る観光客に場所を譲ろうと思い、礼堂らいどうの廊下まで下がることにした。修学旅行生と外国人観光客が特に多く、賑やかさが増してきた。この古刹が静謐を取り戻すのは日が落ちた後になる。
 本堂外陣げじんには十一面千手観世音菩薩じゅういちめんせんじゅかんぜのんぼさつが祀られている。本尊に手を合わせに行った二橋絵梨花にはしえりか吉口千由紀よしぐちちゆきが皐月たちのもとへ戻って来た。
「ごめんね。待たせちゃって」
「長かったね。どうだった?」
お前立ちおまえだちだけど、思っていたよりも良かった。仏像はやっぱり博物館で見るよりもお寺で見たいよね」
「二橋さんって本当に仏像が好きなんだね」
「写真や映像で見るのと、目の前で実物を見るのとでは全然違うからね」
「わかる。アイドルだって、動画で見るよりも直接見た方が尊いもん」
 皐月の言葉に絵梨花と千由紀が苦笑した。
「私も仏像はお寺で見ないと意味がないなって思った。買ったり盗んだりして家で見てもあまり感動しないだろうな。仏像が生きる場所っていうのがあるんだと思う」
「そうか……生きる場所か。吉口さんも仏像好きなんだ」
「二橋さんほどじゃないけど、好きだよ。私は仏像よりも仏教の方に興味があるかな。欧州の小説がキリスト教の理解がないとわからないように、日本の古典も仏教の理解がわからないと思うから」
 皐月は千由紀の言葉に近所の古本屋、竹井書店の主人から言われた言葉を思い出した。店主の竹井女史は「西洋の作家の小説や絵画・音楽って聖書を知らなければ何もわからない」と言っていた。
「だから仏像の前にいると、ここに清少納言や紫式部が参拝に来ていたんだなって感慨深かった」
 こういうお寺の楽しみ方もあるのかと思い、皐月は感心した。それは絵梨花も同じだったようで、千由紀に目を見張っていた。きっと千由紀は熱心に仏像を見ていた絵梨花の隣で冷めた顔をしていたのだろう。
「『枕草子』や『源氏物語』に清水寺が出てくるの?」
「うん。『源氏物語』は小説だけど、『枕草子』には『さわがしきもの』っていうお話に書かれてるよ」
「ここって平安時代も騒がしかったんだね」
 少し遅れて栗林真理くりばやしまり神谷秀真かみやしゅうまが戻って来た。
秀真ほつま、どうだった?」
「うん……まあ、良かったかな」
「なんだ、歯切れが悪い言い方だな」
「歴史的な価値っていう意味では良かったけど、僕は偶像崇拝ってあまり好きじゃないんだ……」
 皐月は今までの秀真との会話の中で仏教の話題がほとんどなかったことに気付いた。修学旅行でも神社に行くことには熱心だった秀真だが、寺院に行くことにはそれほど関心を示していなかった。それが偶像崇拝に対する嫌悪だと、今ここで初めて知った。
「でもさ、神谷君。ここで本気で仏像を崇拝している人なんていると思う? 私にはそんな人、全然いないように思えたけどな。絵梨花ちゃんだって仏像のことを好きだけど、崇拝しているってわけじゃないでしょ?」
 真理の配慮に欠ける言葉に皐月は冷や冷やした。
「そうだね。私は美術品として好きかな。仏教的な背景も仏像の美しさに彩りを与えていると思う。私が仏像に興味を持ち始めたのは受験勉強がきっかけだから、仏教のことはまだ何も知らないよ」
 清水寺の宗派は北法相宗きたほっそうしゅうという、学校では教わらない宗派だ。元は奈良時代の南都六宗の一つだった法相宗で、現在の形骸化した葬式仏教とは違い、唯識について思索して、その真理を求める宗派だ。現に清水寺では葬儀や法事を執り行わない。
 皐月は今のところ、唯識のことを「目に映る世界は全て自分が作り出した幻」だと理解している。皐月は修学旅行の事前学習がきっかけで、唯識について興味を持ち始めた。
 皐月はここで秀真や真理、絵梨花たちの会話に加わることができなかった。皐月の理解では仏教というものが漠然とし過ぎていて、まだ何も言えなかった。ここで唯識の話を持ち出しても修学旅行の妨げになる。

 清水寺で友達と仏教の話をすることがこんなに楽しいとは思ってもみなかった。だが、スケジュールの遅れが気になって仕方がない。
「そろそろ先に進もうよ。遅れを取り戻さなきゃ」
「待ってよ! 私、まだここで写真撮ってない」
 遅れてきた真理と秀真は清水の舞台で写真を撮っていなかった。
「じゃあ、みんなで揃って写真を撮ろうぜ。俺がまた誰かに頼んでみるから」
 秀真が持っていたスマホを借り、舞台にいる人の中から写真を撮ってくれそうな人を探していると、西廊下から稲荷小学校の児童たちがやって来た。その中に水野真帆みずのまほを見つけた。6年2組の班だ。
「水野さ~ん!」
 皐月の声に気が付いた真帆は軽く手を上げて応えた。皐月は真帆の所まで駆け寄った。
「水野さん、遅かったじゃん」
「すぐにバスに乗れなかったのと、清水坂で寄り道してたら遅くなった。委員長たちってバス停にいなかったよね?」
「ああ、俺たちは鉄道と歩きで来た。スムーズに来られたよ。で、頼みがあるんだけどさ。俺たちの班の写真、撮ってもらえないかな? 水野さんの班の写真も撮ってあげるから」
「いいよ」
 真帆を清水の舞台まで連れて来て、欄干の前に並ぶ皐月たちの班の写真を撮ってもらった。
「ありがとう。助かった。水野さん、マカロンキャスケット買ったんだね。やっぱりすごく似合ってる。可愛いよ」
「……ありがとう」
「眼鏡、変えたんだね」
「うん。外出用の眼鏡を買った」
「いいね。そんなに可愛くなったら、水野さんのファンが増えちゃいそうだね」
「そんな人、いるわけないでしょ」
「いるよ。少なくともここに一人いるから」
 照れた真帆は頬を少し赤くしていた。一緒に委員会の仕事をしている時は滅多に感情を表に出さないクールな真帆だが、時々見せる表情が可愛い。
「二人の写真、撮ろうぜ」
 皐月は真帆の隣に素早く移動して、自撮りした。真帆に体を寄せたのはこれが初めてだった。真帆の香りは皐月の知っている誰とも違っていた。清水の舞台で皐月は初めて真帆を異性としての魅力を感じた。
 真理の目を気にした皐月はすぐに真帆から身体を離した。真帆たちの班を真理たちのいた場所に呼び、清水の舞台にいることがよくわかるような集合写真を撮ってあげた。真帆の班に皐月と親しい子がいなかったので、あまり盛り上がらなかった。
「俺たち、ちょっと遅れ気味だから先に行くね。じゃあ、また」
 皐月が真帆と別れると、真理たち五人はすでに姿を消していた。皐月は慌ててみんなを追いかけた。

 本殿を出ると納経所のうきょうしょがあり、そこを左に進むと地主じしゅ神社がある。だが地主神社は社殿修復工事のため、閉門していた。秀真と比呂志が閉じられた地主神社を見ながら立ちすくんでいた。
「残念だな、秀真。ここに行きたかったんだよな」
「まあね。でも、しゃーない。また来るよ」
 地主神社の創建は神代かみよ、つまり日本の建国以前だという。主祭神は大国主命おおくにぬしのみことという国津神くにつかみの主宰神だ。
「ここは大国主命が祀られているけど、こういう古くからある山のほこらは大抵、その山の神を祀っているんだ」
 地主神社は清水寺よりも創建が古く、清水寺本堂の真後ろにあって一段高いところにある。これは地主神社が清水寺を従えている配置で、清水寺よりも地主神社の方が位が高いということだ。
「秀真、縁結びはよかったのか?」
「僕はそういうのに興味ない」
「岩原氏は?」
「僕もいいかな……。藤城氏は?」
「俺もいいや」
皐月こーげつはいつも女子と仲良くしてるから、必要ないよな~」
 秀真は軽く言ったつもりのようだが、皐月は秀真の言葉に微かなとげを感じていた。

 女子たちは皐月と秀真が地主神社の前で話している間にどこかに消えていた。よく目を凝らして探してみると、納経所の先にある釈迦堂しゃかどう阿弥陀堂あみだどうの奥にいた。そこには百体地蔵堂ひゃくたいじぞうどうがある。
 百体地蔵堂は子供を亡くした親たちが、我が子に似た地蔵を探しに来るところだという。皐月は事前学習で清水寺の境内案内を読んでいたので由緒ゆいしょを知っていた。だが、女子たちはこのことを知っているのだろうか? 百体地蔵堂は小学生女子には全く縁のないところだ。
 皐月たちも百体地蔵堂へ行き、女子と合流した。
「どうしてお地蔵さんなんて見てるの?」
「お地蔵様の赤い前掛けが目についたから来ちゃった。可愛いじゃない」
 どうやら百体地蔵堂に来たがっていたのは真理で、絵梨花と千由紀は付き合っていたようだ。
「栗林さんはお地蔵さんが何なのか知ってる?」
「え~っ、そんなの知らないよ……」
「お地蔵さんは村の守り神みたいなものなんじゃないの?」
 秀真の質問に真理の代わって千由紀が答えた。皐月も地蔵について深く考えたことがなかったから、千由紀と似たような印象を持っていた。
「お地蔵さんは日本の昔話でよく出てくるよな。笠地蔵なら知ってるだろ?」
 皐月がここで笠地蔵の話でもしようかと思っていたら、秀真が解説を始めた。
「でも地蔵ってやっぱり仏教だから、発祥はインドなんだよね」
 みんな一斉に秀真の方を見た。皐月はあまりにも日本的な地蔵にインドがまるで結びつかなかった。地蔵は日本土着の神様だと思っていた。
「地蔵は地蔵菩薩というほとけで、釈迦が入滅してから弥勒菩薩みろくぼさつ が出現するまでの仏のいない世界で人々を救済する役割を担っているんだ」
「お地蔵様は仏様ってこと?」
 真理の質問に秀真が張り切っているように見えた。
「仏っていうのは仏陀ブッダ(Buddha)というサンスクリット語の音訳で、『目覚めた人』っていう意味の、ただの普通名詞なんだ。だから、仏陀は特定の誰かを表しているわけじゃないんだよね。目覚めた人はみんな仏陀。栗林さんが目覚めたら、栗林さんも仏陀」
「へ~。仏って人なんだ。お釈迦様のことかと思った」
「そう。で、地蔵菩薩の菩薩は『悟りを求める人』っていう意味。悟りを目指して修行している人のことを菩薩って言うんだ」
「菩薩も人なんだね。じゃあ地蔵はどういう意味?」
「『命を育む大地』かな。地蔵菩薩は『民衆に寄り添うことを釈迦から委ねられた者』っていう風に、奈良時代の仏教では解釈されていたみたい」
秀真ほつま、すげーな! よく覚えてきたな」
 皐月は秀真の博識に感嘆した。皐月だけでなく他の四人もみんな感心していた。秀真は気を良くして、嬉しそうな顔をしていた。こんなことなら自分も暗記を頑張ってくれば良かったと思ったが、皐月は色恋で忙しくてそれどころではなかった。
「ごめん、喋り過ぎた。先を急ごう」
 秀真はみんなからの尊敬を集めていたのに先を急いだ。調子に乗ると喋り過ぎる自分の性格が嫌われることを知っているので、ここは自重した。

 時間がないので秀真の提案で皐月たちは釈迦堂、阿弥陀堂をじっくりと見学せずに通り過ぎ、奥の院へ急いだ。
 釈迦堂は本尊として釈迦三尊しゃかさんぞんが祀られていて、阿弥陀堂は阿弥陀如来あみだにょらいが、奥の院には千手観音菩薩せんじゅかんのんぼさつが祀られている。この三つのお堂は急峻な崖に建ち、奥の院は本堂と同じ懸造かけづくりの構造になっている。
 奥の院の舞台から見る景色は本堂からの眺望よりも素晴らしいものだった。美しい本堂と三重塔が見られるのだから当然のことだが、京都の町も、その先の山々もよく見えた。秋が深まれば手前の紅葉が見事なものになるだろう。
「みんなで写真を撮ろう。俺がまた誰かに撮ってもらえるよう、交渉してくるよ」
 皐月はまた若い二人組の女性に声を掛けて撮影の依頼をした。彼女たちは快く引き受けてくれて、何枚か写真を撮ってくれた。今度は仁王門の前の時のようなハプニングは起きなかった。
「あんた、また女の人に頼んだね。いやらしい」
 真理の機嫌が少し悪くなった。
「女の人の方が写真を撮り慣れているから、上手く撮ってくれるじゃん。それにしても、ここは景色が良過ぎるな。個別の写真も撮ろうぜ」
 皐月たちは一人ずつ写真を撮り、男子と女子で固まった写真も撮った。皐月は女子の三人とそれぞれツーショットを撮りたいと思っていたが、真理の機嫌が悪いので、さすがにそんなことは言えなかった。
「この奥の院の真下に音羽おとわの滝があるんだよね。ここで行叡ぎょうえい賢心けんしんが出会い、奥の院のあったところに行叡の住んでいた家があったっていうことなんだけど、みんなはどう思う?」
 皐月は五人に清水寺の由緒について聞いてみた。皐月は学校の事前学習で出した結論の音羽山おとわやまの音羽の滝が本命で、本当の奥の院はここではなく、成り立ちの伝承が同じ音羽山の法嚴寺ほうごんじだと思っている。
「音羽の滝しだいかな……。行叡と賢心が出会った頃、音羽の滝の水量が豊かだったら、ここが二人の出会った場所なのかもしれない」
 絵梨花は音羽の滝が鍵だと思っているようだ。行叡が滝行をできたかどうかを根拠にしたいのだろう。現在の清水寺の音羽の滝では水量が乏しくて滝行ができそうにない。
「僕はここじゃなくて、音羽山にある法嚴寺の方が本当の奥の院だと思う。清水寺は音羽山清水寺おんわさんきよみずでらって言うんでしょ? 音羽山おんわさん音羽山おとわやまだから、その方が地理的にしっくりくる。音羽山って滝がいっぱいあるから、行叡が滝行するなら音羽山の方が自然だと思う」
 比呂志は地理を根拠に判断している。鉄道オタクの比呂志は地理が得意だ。
「僕は法嚴寺の縁起の内容から、やっぱり法嚴寺の方が奥の院の本命のような気がする。賢心の記録は清水寺よりも法嚴寺の方が細かいし、法嚴寺の公式サイトには由緒の出典が載っている」
 秀真は文献に重きを置いているが、文献を信用はしていない。寺社の由緒に怪しいものが多過ぎるからだ。皐月は秀真の考え方に影響を受けていて、大昔の神話や歴史を考えると嫌になることがある。
「私は今みんながここを奥の院だと思っているんなら、それでいいと思う。多数決と言ったら言葉が悪いけど、こうして大勢の人がここに来て喜んでいるんだから、ここでいいんじゃない」
 今が良ければそれでいいといった考え方だ。皐月は真理らしい現実的な選択だと思った。
「起源どうこうっていう話は当事者の問題だから、どっちでもいい。だって私には関係ないから」
 千由紀は冷めた考え方をする。皐月は千由紀のこういう物の見方を結構気に入っている。
「でも、ここに来る前に清水寺の由緒をいろいろ考察したのは楽しかった。こういう謎解きの旅行っていいね」
 皐月はいい感じにまとめてくれた千由紀に感謝した。清水寺の由緒を調べようと言い出したのは皐月だ。余計なことは考えないで、ただ観光地を楽しむという修学旅行もあったはずだ。修学旅行前の楽しい時間を事前学習に巻き込んだことに責任を感じていた。
「清水寺か……いつかまた、みんなと来たいな」
 皐月がつぶやくと、五人全員が軽く頷いた。このメンバーで再びここに来ることは現実的には難しいと思うが、この余韻に浸っていたかった。
「じゃあ今から回復運転ね。遅れを取り戻さなきゃいけないから急ごう。ゆっくりしていたら僕が決めたスケジュールが狂っちゃう」
「しょーがねーなー。せっかく岩原氏が時刻表を調べて考えてくれたんだから、遅れるわけにはいかないよな。行くか!」

 奥の院を出た皐月たち六人は右手の谷の景色を眺めながら遊歩道を歩いた。奥の院の舞台から見る景色が移り行くことに、皐月は清水寺との別れが近付きつつあることをった。
 清水山の自然の中を歩いていると、山肌に生えている羊歯しだや笹などの草木の匂いが気持ちが良い。今まで街中や寺の境内を歩いていたことを忘れてしまいそうになる。
「なあ、秀真ほつま。まだ話し足りなかったんじゃない?」
「そういう皐月こーげつこそ。言い残したことは何だった?」
「俺は法相宗ほっそうしゅうのことかな。唯識の話とかしてみたかった。唯識論とシミュレーション仮説を絡めた話なんか面白くない? で、秀真は?」
「僕は神仏の話。本地垂迹ほんちすいじゃくとか神仏習合に興味があるから、清水寺に祀られている仏像を神道の神と絡めて話してみたかった。でも、自分自身まだよくわかっていないところがあるから、上手く話せなかったかもしれない。ところでさ、地蔵菩薩は閻魔大王えんまだいおうのことだって知ってた?」
「マジ? そんなの知らない。岩原氏は知ってた?」
「そんなの知るわけないよ。優しそうなお地蔵さんと怖い閻魔大王なんて全然結びつかない」
「そういうトリビア的な話もしてみたかったなって……おっと、下り坂だ。これは右折だね」
 遊歩道をぐるりと巡ると、三叉路に出た。ここを右に曲がるのが順路だ。左に曲がって坂を上って行くと子安塔こやすのとうへ至る。美しい檜皮葺ひわだぶきの三重塔があるが、安産のご利益のあるところなので小学生には用がない。皐月たちは子安塔へは行かずに右へ進んだ。
 二手に分かれる道があった。小高い方の道に入り、樹々の間を歩いていると、左手に仁清にんせい記念碑があった。仁清とは野々村仁清という江戸時代前期の陶工のことで、京焼の大成者だ。仁清記念碑は仁清を顕彰する石碑で、ここを抜けると元の道に戻る。
 右手に御手洗いがある。寄りたい子がいなかったので、そのまま通り過ぎた。滝の家という茶店の店舗とテラス席の間を通り抜けると音羽の滝がある。

 皐月たちが音羽の滝に着くと、そこには御利益ごりやくを求める長い行列ができていた。
「これが滝?」
 音羽の滝を見た真理の第一声だった。水の流れの細さに、真理だけでなく皐月たちもみんな拍子抜けをしていた。
「三本の滝を一つにまとめたら、滝行できるかな……」
 絵梨花は行叡がここで滝行をしていたと信じたいのかもしれない。川の滝と比べると地下水の滝は水量が少ない。
「ここだと修行するっていうよりも、みそぎをするって感じかな」
 秀真はこの音羽の滝での行叡の滝行に懐疑的だ。
「私、ちょっと列に並んでもいい? 学業成就の御利益があるんでしょ? 絵梨花ちゃんもいっしょに学業のお願いしよ?」
「そうだね。受験生だし、やれることはやっておこうか」
 真理と絵梨花が順番待ちの行列に並んだ。音羽の滝の三本のかけいにはそれぞれ意味があり、正面から見て右から延命長寿、恋愛成就、学業成就の御利益があると言われている。
 滝の水を柄杓ひしゃくで受け止め、水を一口飲んで願を掛ける。三本全ての滝で願を掛けることはできず、一つだけを選ばなければならない。自分の叶えたい願いをよく考えるいい機会だと思えば、これもまた楽しい。
「吉口さんは並ばないの?」
「私はいい。藤城さんは?」
「俺もいいかな。特に叶えたい願いなんてないし……。前島先生は音羽の滝をずいぶん推しいてたけど、どうしてだろう?」
「さあ……学業成就の願掛けでもして来いって言いたかったのかもね」
 いつの間にか秀真と比呂志も行列に並んでいた。
「岩原君は何の願掛けをするの?」
「僕は延命長寿。これって要は健康のことでしょ? せっかくここに来たんだからお願いしておこうかなって思って。神谷君は?」
「僕は恋愛成就。地主神社で願掛けできなかったからね」
「なんだ! やっぱり縁結びしたかったんだ! さっきは全然興味がないようなことを言ってたくせに」
「僕は皐月こーげつみたいにモテないからね。ちょっと格好つけたかっただけだよ」
 皐月と千由紀は音羽の滝を見ながら四人が帰ってくるのを待っていた。柄杓で水を受け取るところの写真を撮ってやろうと思っていたが、まだしばらく時間がかかりそうだ。
「吉口さん。二人の写真、撮ろうか」
「えっ?」
「いいじゃん。撮ろうぜ」
 水野真帆と写真を撮った本堂の舞台の上の時のように、素早く千由紀の隣へ行き、シャッターを切った。千由紀も真帆のように帽子をかぶって眼鏡をかけているので、デジャヴを感じて妙な気分になった。
「確かに藤城君には恋愛成就は必要ないかもね」
「そう?」
 千由紀は返事をしなかった。皐月からスマホを奪い、絵梨花や真理の写真を撮りやすいところに逃げて行った。
 皐月は一人になり、音羽の滝でみんなのことを何となく眺めていた。しばらくすると、見ているようで何も見ず、思索の沼に沈んでいった。皐月は清水寺の経堂きょうどうに集結し、仏教の研鑽を積んでいた学究の徒に思いを馳せていた。
 唯識を研究していた僧たちは何の成果を残したのだろうか。現在、清水寺は繁栄しているが、それは唯識の研究のためではなく、金と力の賜物だ。
 釈迦の教えは弟子たちに正確には伝わっていないはずだ。仏典が作られたのは釈迦の死後数百年が過ぎてからだし、日本に伝わった仏典は漢訳を経て和訳をした。
 そもそも釈迦は悟りを言語化することができたのだろうか、という根本的な疑問がある。感得したことを言語化する時点で内容の大半は欠落してしまうだろう、と皐月は思っている。
 悟りを正確に表現する言葉はない。あれば最初から仏典を研究する必要はないだろう。釈迦が自身の個人的な体験を弟子たち伝達するには、比喩をもってするしかなかったはずだ。仏陀にならんと修行する者や、唯識を究めんとする者たちは仏典を拠り所にするしかなかった。
「皐月?」「藤城さん?」「藤城君?」
「えっ? あっ、あれ? みんなもう終わったの?」
「もう終わったよ。大丈夫?」
「ああ……大丈夫に決まってるじゃん。何言ってんの? 吉口さん」
「一人にされて寂しかったの?」
 絵梨花がからかうように言った。
「そうだね……ちょっと寂しかったかな」
 皐月は絵梨花に心の底を見透かされたのかと思った。もしそうなら、絵梨花のことを好きにならずにはいられない。皐月は確かに寂しかった。それは一人にされた寂しではなく、もっと根源的な寂しさだった。
「もうすぐ神谷君と岩原君が終わるから、みんなで迎えに行こう」
 千由紀の言葉に従って、みんなで音羽の滝の出口の階段の下で待った。全員揃ったので、本堂の舞台を下から見上げながら先へ進んだ。
「皐月、また考え事をしていたの?」
 真理に軽く小言を言われた。さっきの音羽の滝での皐月の態度に呆れていたようだ。
「ああ。まあ、そんなとこ」
「何を考えていたの?」
「仏教が伝来して1500年にもなろうとするのに、このザマかよって思ってた」
「何、それ?」
「誰も仏陀にはなれなかったし、これからも誰かが仏陀になることはないだろうなって。仮に誰かが仏陀になれたとしても、その体験はその人止まりだろうなって考えてた」
「別に仏陀になんてならなくたっていいじゃん。皐月は仏陀になりたいの?」
「いや、別に……」
「それなら、そんなこと考えなくたっていいでしょ?」
「まあそうだけどさ……趣味みたいなものだから、いいだろ」
「変な趣味」
 皐月は真理に手を取られたが、修学旅行だということを思い出したのか、真理はすぐに手を離した。真理の手の温もりで皐月は現実世界に引き戻された。

 清水の舞台の束柱つかはしらを支える土台は斜面を石垣の階段状に整えられている。平らな所にはかえでが植えられていて、紅葉の季節には舞台が燃え上がるように美しい。
 楓の隙間から舞台を見上げるとけやきの太い柱とはりが格子状に組まれている。それは美しくもあり壮観でもある。懸造かけづくりといわれるこの構造は恐ろしく頑丈で、いくら舞台の上に参詣者が多く集まっても崩れ落ちたことがない。ぐらついたこともないらしい。皐月は舞台から見る景色よりも、舞台を下から仰ぎ見る方が好きになった。
「どうせ清水寺に来るなら、紅葉の季節に来たいな」
「すごい人だろ? 僕は嫌だな」
 いくら広い清水寺でも、秀真の言う通り、参詣者が多過ぎて落ち着いては見られないだろう。
「早朝なら人もいないでしょ? 近くに泊らなきゃいけないけど」
「人がいたっていいじゃないか。美しい紅葉が見られるなら。鉄道写真だっていい場所には人がいっぱいいるよ」
 千由紀の言うように、早朝なら人は少ないだろう。比呂志の言うように、美しいものを見るためには混雑を受け入れるしかない。紅葉の季節に清水寺の近くで宿泊するのは予約のみならず、金銭的にも困難だろう。
「ライトアップされる夜もいいよね」
「あんなのオレンジの光を当てれば何だって紅葉っぽくなるから、ずるい」
「なんでも美しければいいでしょ? 自然の姿に拘りたいなら仕方がないけど」
 絵梨花の言うように夜の紅葉もよさそうだ。皐月も千由紀の言うようにライトで色を付けられた紅葉を素直に受け入れられないだろう。だが、真理の言うように美しければなんでもいいという気持ちもわかる。色はともかく、形は自然の姿そのものだ。
 いい班だな、と思った。皐月はこんな奴らと一緒にいて、どうして音羽の滝で寂しいと感じたのか不思議だった。

 楓にふわっと包まれた石畳を歩き、舌切茶屋、忠僕茶屋を超えると、最初に来た所まで戻った。これで修学旅行の清水寺は終わりだ。班長の千由紀が先生に報告するため、スマホのアプリから清水寺の参拝終了のデータを送信した。
「じゃあ、次に行こう。遅れは全然取り戻せていないけど、楽しかったからいいか」
 ここに着いた時はまるで余裕のなかった千由紀だが、今は朗らかに笑っている。みんなも千由紀に釣られて笑っているが、皐月はどこかで遅れを取り戻さなければならないと焦り始めていた。


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