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まだ恋愛感情ではないはずだ (皐月物語 17)

 真理まりの部屋に入ると机や床の上に夏休みの宿題をやり散らかした跡があった。見た感じ、どうもやり終わった宿題を床の上にほっぽらかしているらしい。
 読書感想文の原稿用紙もあった。皐月は真理が国語の勉強で塾の課題図書をたくさん読んでいるのを知っていたので、感想文まで手伝わなくてもいいと思っていた。だが原稿用紙に書かれた筆跡をちらっと見ると、自分が書いてやればよかったと思った。ずいぶん慌てて書いたようだ。感想文の中身を読んでみたい衝動に駆られたが、真理に部屋の物を勝手に触ったら殺すと言われたので、手をつけるわけにはいかない。
 昼寝をするためにこの部屋に来たので、皐月はとにかく真理のベッドに潜り込んだ。布団に入ったはいいが、さっきまでは眠かったのに、今はすっかり目が冴えて眠れない。
 それもこれも枕や掛け布団の残り香のせいだ。真理の匂いで真理を抱き寄せたときのことを思い出してしまう。それだけではない。女の子特有の匂いで狐塚で千智ちさとと手を繋いだことまで思い出してしまった。
 明日美あすみの放つ大人の香りとは違うが、真理と千智の香りは少し似たところがある。これは皐月の明日美に対する恋心と、真理や千智に対する好意の違いのようにも思えた。
 枕元に本があった。『100%ガールズ 1st season』という吉野万理子よしのまりこの小説で、それは真理の読書感想文に選んだものだった。感想文は読めないが、本を読むくらいだったら怒られないだろうと思い、皐月は暇つぶしにこの本を読み始めた。
 この本は自分のことを「オレ」と言う、同性にモテるイケメン女子の話だ。男子にスカート姿を見られたくないという理由で、主人公の子は遠くの女子校に通うという。
 読み進めていくと女子校の様子がリアルに描かれていて、それは皐月の全く知らない世界だった。真理はこんな学校生活に憧れていたのか……そう思うと真理が中学受験をすること、そして自分にも受験を勧めてくる理由がわかってきた。地元の稲荷中では考えられない世界が私立の中学にはありそうだ。
 本を読んでいるうちに熱中してきて、妙な感情の高ぶりが鎮まってきた。すると今度は急に眠気が襲ってきて、まどろむ間もなく眠りに落ちてしまった。

 真理はリビングで黙々と自由研究を書き写している。勢いに任せて書き飛ばしているせいか、手に力が入り過ぎ、時々書く手を止めて掌をぷらぷらさせている。頑張った甲斐があり、まだ日が高いうちに真理は残りの宿題を全て終わらせることができた。
 一息入れようと思い、キッチンで珈琲を淹れた。真理の珈琲の友はいつも凛子りんこが焼いたパンケーキだ。凛子は余らせた果物の在庫処分でよくパンケーキを作る。真理は凛子がお客さんからもらってくる上質なお土産よりも、母の作るお菓子ばかり食べている。
 真理は YouTube でボカロ曲の歌ってみた動画を見ながら休憩した後、自分の部屋に戻って久しぶりに受験勉強を再開した。皐月を起こさないようにカーテンを閉め、机に備え付けてあるライトで手元を照らした。

 メッセージの着信音で皐月は目を覚ました。スマホを見ると千智からだった。
 真理の部屋の中はすっかり暗くなっていた。背後が明るかったので寝返りを打つと真理がデスクで勉強をしていた。
「もう宿題終わったの?」
 真理は手を止めて、ゲーミングチェアを回して振り返った。
「よく寝てたね。宿題はみんな終わったよ。ありがとう」
「やれやれだね」
「お陰で楽させてもらえたよ。正直助かった」
 真理の声は柔らかかった。デスクライトに背後から照らされ、昨夜の小百合さゆり寮の玄関先で見た真理のように可愛く見えた。
「もう受験勉強してるの? 今日は休んじゃえばいいのに」
「さっきちょっと休んだよ。それより返信しなくていいの?」
「あ……そうだね。しなくちゃね」
 真理は机に向きなおして勉強の続きを始めた。もう少し何か話してもいいのにと思いながら、皐月も寝返って真理に背を向け、メッセージを読んでチャットに返信した。

「藤城先輩、元気? 夏休み終わっちゃうね。学校やだな~」
「そう? 俺、学校楽しみだよ。久しぶりに友だちと会えるし、千智にだって会えるかもしれないじゃん」
「先輩と同じクラスだったらいいのにな」
「学校で見かけたら手を振るよ」
「本当? じゃあ私も手を振る」
「夏休みの宿題終わった? 俺、さっきやっと終わったよ」
「遅くない? 私は7月中に終わらせたよ」
「夏休み前に終わらせたつもりだったけど、一つ忘れてたのがあったのに気がついた」
「気がついて良かったね。先輩、夏休み前に宿題終わらせちゃおうとしてたんだ。何の宿題を忘れてたの?」
「ポスター。絵の具の白が切れてて、後で買ってから描こうと思ってた忘れた(笑)」
 皐月は嘘をつくしかなかった。ポスターを描いたのは本当だが、それが真理のためだとは書けなかった。
「ところで祐希ゆうきさんって今家にいるの?」
「なんか友だちと会うとか言って遊びに行っちゃった」
「そうなんだ~。帰ってきたらよろしく伝えといてほしいな」
「昨日みたいに自分でメッセージ送ればいいじゃん」
「祐希さん年上だし、仲良くなれたけどまだ遠慮しちゃって」
「そっか……。いいよ、祐希に伝えておくね。でも遠慮しなくてもいいと思うよ。千智と友だちになれたこと喜んでいたから」
「そんな風に言ってもらえて嬉しい。あとで祐希さんにメッセージ送ってみる」
「うん。祐希も喜ぶと思うよ」
「今日はありがとう。ちょっと学校行くの楽しみになった。じゃあ、また明日」
「学校で会えるといいな。バイバイ」

 皐月はタッチタイプは得意だがフリック入力はまだ苦手なので思ったよりも時間がかかってしまった。チャットが終わり、仰向けになって天井の橙色に光る常夜灯を見上げた。真理の勉強机の明かりもあり、カーテンを通して部屋に入る外の光もある。この部屋は昨日の狐塚と同じくらいの暗さだ。
 千智からのメッセージを見た時はときめいたが、すぐそばに真理がいることに気付いた瞬間、後ろめたさを感じてしまった。本当は千智の声が聞きたかったのでチャットから通話に切り替えかったが、真理の布団の中にいたのでできない。真理に千智との会話を聞かれたくなかったし、聞かせたくもない。
 昨日から始まった慣れない感情のせいで妙に落ち着かない。真理、千智、祐希……彼女たちへの思いはまだ恋愛感情ではないはずだと思っている。
 皐月には恋愛の経験がまだないので恋愛感情そのものがよくわかっていないが、芸妓げいこの明日美といる時のような幸せをこの三人にはまだ感じていない。ただ明日美に対する気持ちが恋愛なのかというと、これもまた違うような気がする。

 ベッドに寝転がっていても落ち着かないので起き上がると、真理が勉強の手を止めた。
「さっきのメッセージ、千智ちゃん?」
「そうだけど……よく名前覚えてたね」
美耶みやちゃんとチャットするのは嫌がるのに、千智ちゃんとはチャットするんだ」
「筒井はやり始めるとキリがないんだよ。それにあいつ、未読だったり既読スルーすると怒るし」
「可愛いじゃない。私、美耶ちゃん好きよ」
「ウザいだけじゃん。それより知ってた? 筒井って真理のことライバル視してるみたいだぜ。恋のライバル」
「知ってる。直接言われたことあるもん。バカだよね~、あの子。私と皐月なんてただの幼馴染なのにね~。恋のライバルのわけないじゃんね」
「あ、そ」
「でもこれからは千智ちゃんが美耶ちゃんの恋のライバルになっちゃうか。千智ちゃんは強敵だよね~、可愛いから。私、美耶ちゃんの応援しよっと」
「お前まで俺と筒井をくっつけようとするのかよ。真理だけはそういうこと言わない奴だと思ってたのに」
 昨日の夜に真理に対して芽生えた恋心のようなものを否定された気がして、さすがに少しイライラしてきたのでそっぽを向いた。
「だって美耶ちゃん、いい子じゃん。ウチのクラスの子だったら誰だって応援したくなるよ。でも皐月には美耶ちゃんは勿体ないかな……」
「あ~はいはい、俺に筒井は勿体ないわ」
「皐月には可愛くない私でちょうどいいんだよ」
 驚いて思わず真理の方を見ると試すような顔つきで笑っている。小さかった頃の無邪気な真理でも、受験勉強に打ち込んでいるちょっとクールな真理でもない、皐月のまだ知らない真理がそこにいた。
「真理みたいな可愛い子は俺には勿体ないよ。俺には明日美がちょうどいい」
「明日美姐さんって芸妓じゃん。しかもババアじゃん! 子どものあんたに釣り合うわけないでしょ。バカなの?」
「そんな怒るなよ、冗談なのに。それにババアはないよ……明日美まだ25だし、若いじゃん」
「あんたの冗談はいつもつまんないのよ!」
「でもさ、真理みたいな可愛い子ってのは冗談で言ったわけじゃねえよ」
「もういいよ、そんな見え透いた嘘言わなくたって」
 玄関の呼び鈴が鳴った。鰻の出前だった。もう6時半になろうとしているのでちょうどお腹が空いている。真理のやつ、ハラが減ったから怒りっぽいのかな、と思いながら真理を追って皐月はリビングに移動した。


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