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修学旅行、ねねの道から円山公園、八坂神社まで(皐月物語 135)

 高台寺こうだいじ公園にいた藤城皐月ふじしろさつき吉口千由紀よしぐちちゆきは桜の樹の下からねねの道を見下ろしていた。皐月が祇園に行くのをやめにしたいと言った時から、ずっと二人の無言が続いていた。
 御手洗いを済ませた栗林真理くりばやしまり二橋絵梨花にはしえりか岩原比呂志いわはらひろしが皐月たちのもとに集まって来た。風景写真を撮っていた神谷秀真かみやしゅうまもやって来た。全員集まったところで、千由紀からみんなに話があると言った。
「藤城君に祇園ぎおんに行くのをやめようって言われたんだけど、どうする?」
 一瞬、場が凍りついた。
「皐月、どういうこと?」
 遠く祇園の方角を見ていた皐月の肩に真理が手をかけ、みんなの方へ顔を向けさせた。
「どうって、行く気が失せただけだけど……」
 千由紀なら何も言わなくても意図をわかってくれるが、他のメンバーにそこまで求めるわけにはいかない。皐月は気持ちの整理をした。
「藤城氏は遅延を気にしているんじゃないの? 大丈夫だよ。まだ回復運転で何とかなるレベルだから」
 時刻表を読むのが好きな比呂志は効率的に行動したり、優先順位を考えたりするような時間管理能力に長けている。比呂志がまだ何とかなると言うのなら何とかなるので、皐月の懸念していることが一つ消えた。
「確かに遅れは気になるけど、そういうわけじゃないんだよな……。なんて言うかな……。さっき歩いた二寧坂とか一念坂って、ちょっと場違いな感じがしなかった? 俺はそう感じた。……それで、祇園は子供が行く場所じゃないなって思った。祇園は花街だよ? 不健全じゃん。修学旅行前は俺の考えが足りなくて、祇園に行きたいって言っちゃったけど、間違いだって今頃になって気が付いた」
 皐月の言葉に真理たち5人は黙った。祇園は皐月が自分から行きたいと言った唯一の場所だ。祇園に行くのをやめると、皐月の楽しみにしている訪問先がなくなってしまう。
「皐月がそう思ったなら、祇園はやめよう。私は祇園って、あまり気が進まなかったんだよね。だって、舞妓とか芸妓げいこって私の親と同じ職業だからね。祇園には観光気分で行く気にはならないな……」
 結局のところ、皐月は真理の考えを後追いしただけだった。自分が真理よりも精神年齢が低いことを思い知り、情けなくなった。こうして心情を告白していることも恥ずかしかった。
「祇園に行くのをやめるって言うけどさ、八坂神社もやめるの?」
 八坂神社は神社好きの秀真が訪問を熱望していた所だ。
「もちろん八坂神社には行くよ。俺も八坂神社に行くのを楽しみにしてるから。悪いな、秀真ほつま。心配かけちゃって」
「ああ、よかった。でも、僕って行きたいところって多過ぎだよね。なんか悪いな……」
 訪問先の神社は全て秀真の希望だ。皐月を除く他のメンバーは伏見稲荷大社以外の神社をよく知らなかった。
「神谷さんは行きたがっていた神社を我慢して、みんなも楽しめる神社を提案してくれたでしょ。だから神谷さんは全然悪くないし、むしろ感謝しているくらいだから」
 絵梨花は秀真が行きたがっていた木嶋坐天照御魂神社このしまにますあまてるみたまを諦めたことを覚えていた。真理は秀真の提案にマニアック過ぎると文句を言い、秀真の情熱を否定した。
「じゃあ、祇園は行かないってことで決定するからね。遅くなっちゃうから、先に進もう」
 班長の千由紀に促され、皐月たち5人は階段を下りて高台寺公園を後にした。

 ねねの道は桜や紅葉など、四季折々に美しい姿を見せてくれる。だが、季節外れに訪れた皐月たちは古都の風情を満喫することはできなかった。それでも御影石を敷き詰めた石畳の道は美しく、京都らしい風情を感じさせた。沿道の塀は鳥の子色で、塀には犬矢来いぬやらいも見られた。圓徳院えんとくいんの白壁も美しかった。
「私ね、できれば高台寺も圓徳院も拝観したかったの」
 ねねの道を歩きながら絵梨花がつぶやいた。不満を漏らしている感じではなく、どこか夢を見ているような顔をしていた。
「二橋さん、さっきも東福寺に寄ってみたいって言ってたよね?」
 千由紀は絵梨花が京阪の清水五条駅を出て、五条通を歩いている時に秀真と話していたことを覚えていた。皐月もこのことを覚えていて、絵梨花も秀真のように行きたいところを我慢しているんだな、と思っていた。
「東福寺もそうだけど、高台寺も圓徳院も庭園を見たかったの。でも私ってお庭を見ていると時間が経つのを忘れちゃう悪い癖があってね、家族旅行では親からよく、先を急ごうって急かされてたな。だから、私の旅行スタイルは修学旅行には向いていないみたい。いつか枯山水の前でぼ~っとしてみたい」
 皐月には絵梨花の言う、家族に急かされるという経験がない。だが、この慌ただしい修学旅行を少し経験しただけで、こういう旅は特殊だということはわかる。
 ねねの道を歩いていると、右手に台所坂と言われる高台寺へ至る坂がある。楓や椿の通り抜けのようなこの緩やかな石段が、皐月にはとても女性的に見えた。向かいの圓徳院から高台寺へと、ねねが往き来した台所坂。ここは憂いを帯びた年配の女性が良く似合う。皐月は台所坂の先の臺所門だいどころもんを見ながら、いつの日か自分が高台寺に訪れているところを想像してみた。すると、なぜか自分の隣には大人になった二橋絵梨花がいた。
 ねねの道は台所坂の坂口を超えると道幅が狭くなり、より風情が増す。月真院げっしんいんと圓徳院の塀の間を抜けると、突き当たりに大雲院だいうんいんがある。ここの祇園閣はちょっとしたランドマークだ。
 祇園閣は銅閣寺と呼ばれる望楼だ。堂塔のようでありながら、屋根は方形ほうぎょうではなく切妻で、瓦葺ではなく銅板葺。何より異形なのが屋根から突き出た巨大なほこだ。これは祇園祭の山鉾をモチーフにしているらしい。秀真が大き過ぎる尖塔を見て、タルタリア帝国のフリーエネルギーの供給塔みたいだと喜んでいた。
「神谷君、タルタリア帝国って何? 私、聞いたことがないんだけど」
「ああ……。これは歴史から消されたって言われている国のことなんだけど、ちょっとオカルトチックだから、忘れていいよ。ごめん。僕、変なこと言っちゃった」
「何、それ。余計に気になるじゃない」
 秀真は真理の態度にうろたえていた。秀真はオカルト話で暴走すると女子に嫌われることを知っている。皐月は秀真の代わりに真理の相手を引き受けることにした。
「ユーラシア大陸に広大な領土を持っていたタルタリア帝国は1816年、ヨーロッパの支配者層による核攻撃で滅亡したんだってさ。現代文明を凌駕する科学技術を持っていて、電気を無料で無尽蔵に使えたって言われている。真理はそんな話、信じられる?」
「江戸時代に核戦争だよね……皐月はそんな荒唐無稽な話を信じているの?」
「さすがに信じられない。でも、興味はある。だって面白いじゃん」
「ふ~ん」
 祇園閣の変奇な姿を見て興奮した秀真の気持ちが皐月にはよくわかる。真理は子供のころから皐月の相手をしてきたので、他の同級生の女子に比べてオカルトには免疫があるが、秀真はそのことを知らない。皐月が真理と秀真の間に入って取り成そうとすると、真理は意を酌んでオカルト話を適当に流してくれた。

 ねねの道の突き当たりを右に曲がり、大雲院に沿って左に曲がると東大谷参道と交わる。この石畳の美しい参道は大谷祖廟おおたにそびょうへと続いている。大谷祖廟は清水寺へ行く時に通りかかった大谷本廟おおたにほんびょうと同じく墓所なので、門信徒ではない皐月たちにとって縁のない所だ。さらに進んで円山まるやま公園に入った。
「二橋さん。円山公園の日本庭園ってどう? 国指定文化財ってなってるけど、興味ある?」
 スマホで円山公園を検索していた秀真が絵梨花に立ち寄ってはどうかと提案した。
「修学旅行だからやめておこうかな。先を急がなきゃいけないし、私が見たい庭は枯山水だから」
 東山を借景とした円山公園の日本庭園は広々としていて、地元の人なら毎日の散歩コースにしたくなる所だ。秋が深まればきっと紅葉で美しくなるだろう。スケジュール次第ではここで弁当を食べてもいいと、比呂志と皐月は旅行のスケジュールを組む時に考えていた。
 皐月たちはひょうたん池を過ぎたところを左に曲がり、祇園枝垂桜の前で立ち止まった。桜の季節ではないので、枝垂桜のまわりには誰もいなかった。
「桜が咲いている時に見てみたいね」
「でも桜の季節は人が多過ぎて、あまり風情がないかも」
「円山公園はこの枝垂桜だけじゃなく、他にも染井吉野や山桜が何百本も咲いてるんだって」
 女子3人は緑の葉で枝垂れた桜を前にして春の桜の話をしていた。皐月は枝垂桜の今の姿を見て、その力強さに胸が熱くなっていただけに、彼女たちの言葉が残念だった。
 祇園枝垂桜に限らず、花の咲く頃にしか関心を示されない桜の木のことを思うと、皐月はたまらなく寂しくなった。それだけではない。皐月は桜を愛する人たちのルッキズムが怖くなった。
 祇園枝垂桜から離れて先に進むと八坂神社の丹塗りの鳥居が見えた。本来なら正門の南楼門から入りたいところだったが、裏手にある東北門から入るのは順路の関係でしかたのないことだった。

 皐月たちは東北門から八坂神社に入った。この門には手水舎ちょうずやがない。本来なら手水舎のある正門の南楼門か、四条通の突き当たりにある西楼門から入るのがいいのだろう。皐月と秀真は不敬かなと思いつつ、順路の都合で東北門から入ることに決めていた。
 八坂神社には本殿をぐるりと回るように摂社末社が並んでいて、本殿を含めて境内には18のやしろがある。これら全ての社に参拝するわけにはいかない。参拝時間の短縮を考えて、本殿以外は女子のための美御前社うつくしごぜんしゃと、秀真のための疫神社えきじんじゃに絞って参拝することにした。
 東北門を入り、真っ直ぐに進まずすぐに左に曲がると社が並んでいる。一番手前にあるのが美御前社だ。
 美御前社は小ぢんまりとしているが美しい社だ。石造りの鳥居に金縁に青の扁額が掛けられていて、銅板で葺かれた一間社流造いっけんしゃながれづくりの社殿は白壁に丹塗柱が雅やかだ。鳥居の右隣りには美容水と呼ばれる湧水がある。
「うちの班の女性陣には必要ないのかもしれないけれど、この美御前社は美容の神様が祀られているから、ぜひ参詣してもらいたい。みんな、もっと美しくなるよ」
 こういう軽薄な台詞は皐月の十八番おはこだ。絵梨花は嬉しそうな顔をしていたが、千由紀は少し戸惑っていて、真理は無反応だった。
「祇園の舞妓さんや芸妓さんもよくここにお参りに来るんだよ。この美容水を顔につけると美人になるんだって」
「じゃあ秀真ほつま、男の俺がつけたら美容水をイケメンになれるかな?」
皐月こーげつは男だから意味ないよ。だってここの祭神は宗像三女神むなかたさんじょしんだから、女子限定だ」
 美御前社の祭神は福岡県宗像市にある宗像大社に祀られている多岐理毘売命たぎりびめのみこと多岐津比売命たぎつひめのみこと市杵島比売命いちきしまひめのみことの三柱の女神だ。
「あのさ……。ちょっと僕、社務所でお守りを買って来てもいいかな? 女子がここで参拝している間に用を済ませてくるから」
「僕も神谷君について行こうかな。さすがに僕には美御前社は関係ないから。神社のグッズも気になるし」
 秀真が女子たちの写真を撮ると、皐月にスマホを渡して社務所へ行ってしまった。本殿の前で待ち合わせようということになった。
 秀真たちがいなくなると、真理が鳥居の横の美容水に興味を示した。
「私、美容水つけてみよっ! これで綺麗になれるかな?」
「今よりもっと綺麗になるぞ」
 真理は竹から流れ出る細い水を手に掬うと、濡れた手で顔を濡らした。
「どう? 綺麗になった?」
「うん。見違えるほど美しくなった」
 さっきは美御前社の話に無反応だったくせに、今度は無邪気に喜んでいた。皐月はお世辞を言うつもりだったが、美容水をつけた真理が本当に綺麗になったように見えた。
「私もやってみようかな」
 今度は絵梨花が美容水を顔につけた。絵梨花も真理のように楽しそうにはしゃいでいた。
「私はどう?」
「二橋さんも綺麗になったよ。美しさに磨きがかかった」
「ホント?」
「うん。目のやり場に困るくらいいい女になった」
 絵梨花がご機嫌になっている横で、真理が苦笑しながら皐月たちを見ていた。次は千由紀だと思っていたら、千由紀は一人で鳥居をくぐって賽銭の用意をしていた。真理と絵梨花が慌てて千由紀の後を追った。
 三人の女子が参拝を終え、鳥居から出てきた。千由紀は絵梨花と真理の後ろを歩いていた。
「吉口さんは美容水をつけてみないの?」
「私はつけても仕方がないから……」
 絵梨花の問いかけに千由紀はか細い声で答えた。
「そんなことないよ。確かに千由紀ちゃんは羨ましいくらい肌が綺麗だけど、美容水を塗ったらプラスアルファの御利益があるかもしれないよ?」
 真理が千由紀を後押しして石盥せきかんの前まで連れてきた。千由紀がなかなか水を掬おうとしなかったので、真理と絵梨花が美容水で手を濡らし、両側から二人で千由紀の頬を濡らした。千由紀は目を瞑って、二人の蛮行に耐えていた。
「吉口さん、ごめんなさい。そんなに嫌だった?」
「……」
「千由紀ちゃん、ごめんね。ちょっとふざけ過ぎちゃったかな?」
 千由紀は眼鏡をはずして、水に濡れたところを拭いた。眼鏡を取った千由紀を見て皐月はハッとした。
「吉口さんの眼鏡を外した顔って可愛い! それに、めっちゃ綺麗になった」
「いいよ、お世辞なんか言わなくても」
 皐月の言葉は本心だった。これでも気持ちを抑えて言ったつもりだ。あまり好意を表に出すと、真理に怒られるかもしれないと思ったからだ。
「お世辞じゃないよ、千由紀ちゃん。皐月は女を褒めることに関してはガチだから。だからチャラいとか言われて、嫌われちゃうんだけどね」
「なんだよ。俺って嫌われてるのか?」
「チャラいって悪口でしょ? じゃあ嫌われてんじゃん」
「ガーン! 俺、嫌われてたのか……」
「私は嫌ってないよ」
 皐月がショックに打ちひしがれていると、千由紀に慰められた。
「私は藤城さんのこと、好きだよ」
 絵梨花に突然「好き」と言われ、皐月だけでなく真理や千由紀も固まった。だが言った本人は告白をしたような感じではなく、穏やかに微笑んでいた。
 皐月はすぐに絵梨花の言った「好き」という意味がわかったような気がした。それは自分が女子によく言う「好き」と同じカジュアルな感覚だ。
「本殿に行こうか」
 皐月は妙な空気のせいで落ち着かなくなり、みんなを本殿まで連れてこの場を離れた。

 八坂神社の本殿の右側は透塀すいべいで囲われている。この素木造りしらきづくりの透塀は木の地肌が時を経て極焦茶ごくこげちゃになっている。檜皮葺ひわだぶきの屋根は苔生こけむしていて、軒先には黒い燈籠が吊るされている。内法長押うちのりなげしの上には唐草模様の彫刻があしらわれていて、腰長押こしなげしとの間には青緑色の連子れんじが施されている。彫刻と連子は丹塗りの枠に収められていて、その配色が雅な趣を出している。
 皐月たちは絵巻物に描かれそうな美しい透塀に沿って進み、広い境内に出た。そこからは国宝の本殿と、華やかな舞殿ぶでんが一望できる。この美しい本殿と舞殿を前にして、絵梨花と千由紀と真理が感動で一度に華やいだのを皐月は肌で感じた。

 皐月たちはまず本殿での参拝を済ませることにした。皐月が本殿に向かって歩くと真理が皐月の横に来て、その後を絵梨花と千由紀がついて来た。
「八坂神社の本殿って、なんだかお寺のお堂みたいだね」
 絵梨花の観察眼は的確で、ここが仏教色の濃い神社だというのを見抜いていた。本社本殿には仏堂のように礼堂らいどう外陣げじん)があり、その奥に内陣ないじん、内々陣とあるところが、神社としては珍しい。
 本殿は檜皮葺ひわだぶきの大屋根の入母屋造いりもやづくりで、両側面と背面にひさしをつけた独特の外観をしている。別々の建物だった本殿と拝殿を一つの大きな屋根で覆ったこの本殿の構造を祇園造ぎおんづくりという。八坂神社本殿は国宝に指定されている。
 八坂神社は明治以前は祇園社、祇園感神院、祇園天神堂などと呼ばれる神仏習合の神社だった。明治元年(1868年)の神仏分離令により八坂神社と改名された。
「本殿の主祭神は素戔嗚尊すさのをのみことだけど、明治以前は牛頭天王ごずてんのうという神だったんだ。牛頭天王は祇園精舎ぎおんしょうじゃっていう、古代インドにあった仏教の寺の守護神なんだって」
 皐月はこの場にいない秀真の代わりに八坂神社の祭神について話さなければならなくなった。付け焼刃の知識なので、うまく伝わるか自信が持てない。皐月自身、よく分かっていないことだらけだ。
「祇園精舎の守護神ってだけで、なんか変だよね。さっき清水寺で神谷君が仏は目覚めた人、菩薩は悟りを求める人って言ってた。そういう人たちが王様や護衛の人に守られるならわかるけど、守護神に守られるっておかしくない? やっぱり神は人だよ」
 千由紀は修学旅行前日の事前学習で「神はたぶん人のことだろうね」と言っていた。千由紀の指摘を聞いていると、皐月もだんだん神は人のような気がしてきた。
「明治以前は本地垂迹ほんじすいじゃくっていう神仏習合の思想があって、神道の神々は仏が化身として日本の地に現れた権現ごんげんであるって信じられていたんだ。だから八坂神社の主祭神の素盞鳴命は牛頭天王であり、薬師如来でもあるんだって」
 本地垂迹の話は豊川稲荷で同じクラスの筒井美耶つついみやに教えてもらった考え方だ。勉強を済ませているので、知識が口からスラスラと出てくる。
「じゃあ、素盞鳴命が祇園精舎の守護神だったってこと?」
「さすがに違うだろ」
「だったら本地垂迹なんて嘘じゃん」
「だから神仏習合の思想なんだって。言ってみればオカルトだ」
「なんだ、オカルトか」
 皐月には真理のツッコミが気持ち良かった。心の中でモヤモヤしていたものが晴れたような感じがした。
「薬師如来が素盞鳴命と同じなんて知らなかった」
「だから二橋さん、それオカルトだから」
「でも、どんな由来であれ薬師如来や素盞鳴命、牛頭天王が今日まで信仰されてきたっていう歴史はある。そういう信仰心を嘘やオカルトで片付けたくないな……」
 確かに絵梨花の言う通りだと思った。信仰は厳粛なものだ。皐月は神様事かみさまごとを追求していると、こういう信仰の問題に突き当たるから嫌なのだ。
「藤城君、如来の意味って知ってる?」
「ごめん。わかんない。ちょっとスマホで調べてみる」
 千由紀に聞かれたことをウィキペディアで調べてみると、如来は修行完成者、悟りを開き、真理に達した者を意味すると書いてある。
「やっぱり如来も人間なんだ」
 千由紀は満足そうな顔をしていたが、絵梨花は不満げな顔をしていた。
「日本の仏教の仏様は神様のような存在として信仰されてきたって、私は思っている。さっき藤城さんが教えてくれた神仏習合の考え方で、神も仏もごっちゃになっちゃったってことなんだね」
 不承不承に考えを纏めようとしている絵梨花を見かねて、真理が自分の考えを話し始めた。
「でもさ……、八坂神社に来ている人や清水寺に来ていた人を見ても、神様や仏様を意識して参拝する人ってあまりいないような気がするんだよね。なんていうかな……みんな漠然としたものに手を合わせているって感じ?」
 真理は清水寺にいた時から参詣者の思いに違和感を抱いていたようだ。真理は初詣以外に神社仏閣に行くことがない。初詣は参詣者の思いが同じ方向を向いているので分かりやすいが、観光地では人の思いは様々だ。
「それは俺も感じた。あえて分析みたいなことをしてみると、清水寺で手を合わせている人は清水寺の地にいる神様を、八坂神社で手を合わせている人は八坂神社の地にいる神様に感謝しているような感覚かな。あるいは、どこの土地の神様とか関係なく、抽象化された超自然的な存在、言い換えれば大いなる存在を何となく思って、手を合わせているような……」
 信仰心の薄い皐月にはこの程度の考えしか浮かばなかった。オカルトが好きな皐月に信仰心がないわけではない。ただ、今の皐月は神様を特定して篤く信仰する気にはなれない。
 絵梨花から踏み込んだことを聞かれた。皐月は絵梨花のことを人の心にここまで立ち入ってくるような子だとは思っていなかった。
「じゃあ、藤城さんは何を思って神社やお寺に手を合わせているの?」
「俺は……ここにお参りさせてもらって、ありがとうっていう感じ。二橋さんは?」
「私は一応、どんな神様仏様が祀られているかは意識しているけど、やっぱりよくわからないで手を合わせている。自分のことは祈らないで、家族の健康を祈っているかな。真理ちゃんは?」
「うわ~っ、絵梨花ちゃんみたいに立派なこと言われたら、恥ずかしくて言いにくいな……。私は普通にお願い事をしてるよ。でも何の神様とかは意識していない。吉口さんは?」
「私も栗林さんと同じ。そもそも信仰心があまりないから、本気でお願い事をするわけじゃないんだけどね。気休めみたいな感じかもしれない」
 学校の教室で友達同士がこんな話をすることはまずない。修学旅行で京都にいるという特殊な状況が皐月たちを高揚させていた。
 皐月はみんなの神様への思いが聞けて興奮していた。女子たちも気持ちが昂っているように見えた。
「そろそろ本殿でお参りしようか。みんなのオリジナルなやり方で」
 気がつけば本殿の前には断続的に参拝客が手を合わせに来ていた。清水寺のように混み過ぎない環境が心地よかった。
 皐月は拝殿を前にして姿勢を正し、深く二度頭を下げた。手を合わせて胸の高さまで上げ、右手を少しずらして二度手を打った。パン、パンといい音が鳴った。今日はいい調子だと思った。
 もう一度手を合わせ直して、ここに来られたことを主祭神の素戔鳴尊を意識しつつも、祇園の地の神、その奥にあるこの世界を作った神に感謝した。最後に深くお辞儀をして、拝殿の前を離れた。

 秀真と比呂志が姿を見せないので、皐月たちは本殿の前で秀真と比呂志抜きの写真を撮ることにした。絵梨花から二人の写真を撮りたいと言われ、皐月は千由紀や真理ともそれぞれツーショットの写真を撮った。真理と二人の写真なら持っているが、絵梨花や千由紀とはまだ二人で写った写真を撮ったことがない。積極的な絵梨花、はにかむ千由紀に皐月はときめいてしまった。だが、真理の目があるのではしゃぐことはできなかった。
 華やかな舞殿の前でも写真を撮った。舞殿は八坂神社の景観を象徴する舞台で、祇園のお茶屋や置屋、料亭などの名が書かれた300はりを超える奉納提灯が軒下に吊り下げられている。夜になると提灯に明かりが灯り、祇園らしい情緒を醸し出す。
「うちの置屋が提灯を奉納したら『百合』って書いた提灯になるんだな。なんか変な感じ」
「私のお母さんが奉納したら『凛』の一文字だよ。もっと変」
「『りん子』ならカッコイイじゃん」
 芸妓を親に持つ皐月と真理は舞殿の奉納提灯を見上げながら、今が修学旅行だということを忘れて、幼馴染に戻っていた。
「皐月。祇園に行きたくないって言うの、遅いよ」
「そうだよな……ちょっと鈍かったかも。やっぱ男と女は感じ方が違うんだな」
「私だって祇園の花街を見てみたいって気持ちはあるよ。でも、ちょっと辛いかな」
「うん。親の仕事が恥ずかしいわけじゃないけど、花柳界にはあまり近づきたくない」
 皐月たちが本殿や舞殿のまわりで思い思いのことをしていると、秀真と比呂志がさっき参拝した美御前社の隣にある、悪王子社でお参りをしていた。班長の千由紀が怒った。
「神谷君、岩原君、遅い!」
「ごめん。ちょっと疫神社えきじんじゃにお参りしていたら、他の神社も一通り見てみたくなっちゃって……」
「全部見て来たの?」
「いや、まだ命婦稲荷社みょうぶいなりしゃ玉光稲荷社たまみついなりしゃは見ていない。でも他は全部見た。でも見てまわっただけで、全部に手を合わせてきたわけじゃないよ。これでも急いでまわってきたんだから」
「もう……」
「この埋め合わせは必ずするから、ごめんね。最後に命婦稲荷社と玉光稲荷社に行ってきてもいい?」
「いいけど、私たち先に出口まで行っているからね。本殿にもお参りして来てね」
「ありがとう。遅れないようにするから」

 秀真と比呂志が命婦稲荷社に行くのを見届けて、皐月たちは西楼門に向かって舞殿を離れた。南楼門をちらっと見て、神札・お守り授与所にも寄らないで通り過ぎると、大国主おおくにぬし社で女の人たちが楽しそうにしているのが見えた。
「あの人たち、何やってるんだろう?」
 近づいてみると、大国主社が縁結びの御利益があることがわかった。本来は制札せいさつが掛けられている所に、縁結びの縄のオブジェと小さな兎の焼き物が置かれていた。その横に大国主命と因幡の白兎の可愛い石像があり、女の人たちが嬉しそうに写真を撮っていた。敷地内にはハート絵馬がたくさん掛けられていて、そこには恋愛成就を願う純粋な想いで溢れていた。
「縁結びだって。栗林さん、どうする?」
「私はいい。吉口さんは?」
「私もいい。二橋さんは?」
「どうしよっかな~。願掛けしちゃおっかな~」
「えっ?」
 真理が絵梨花の反応に驚いていた。絵梨花は楽しそうな顔をしているが、真理の顔は強張っていた。それを見た千由紀は皐月に話題を振った。
「藤城君は縁結び、どうする?」
 皐月は千由紀に清水寺の音羽の滝で「藤城君には恋愛成就は必要ないかもね」と言われていた。それなのに縁結びをどうするか聞いてきたので、皐月は少しイラッとした。
「俺は興味ない。先に行って、他の神社にお参りしているね。その先に御手洗いがあるから、寄りたかったら寄ってきて。じゃあ、西楼門で待ち合わせってことで」
 皐月は女子3人を残して大国主社を離れ、疫神社へ向かった。皐月のいない大国主社では絵梨花の意味深な発言に真理が神経質になっていた。
「絵梨花ちゃん、縁結びしたい相手っているの?」
 絵梨花は少し沈黙を挟んで真理の質問に答えた。
「私はこの班のみんなとずっと縁が切れないで続いたらいいなって思ってる。だから縁結びの願掛けをしようかなって思ったの。でも、ここで願掛けしている人たちって、みんな恋愛のことだよね? 絵馬もハートの形をしていて可愛いし。だから、そういう縁結びとは違うのかなって考えたら、願掛けしようかどうか迷っちゃって。大国主って一体どういう神様なんだろうね?」
「大国主はモテモテの神様だよ。奥さんがたくさんいたって神話に書かれている。だから縁結びの神様として人気があるんだって」
「へぇ~。そういう理由なら男女の縁結びだね。吉口さんってよくそんな話、知ってるね」
「一応、日本神話は読んだことがあるから」
 真理は縁結びの神様のことより、絵梨花が皐月のことを好きだと言ったことを気にしていた。だから絵梨花が皐月との縁結びを目論んでいるのかと思った。
 絵梨花の話を聞く、そうではないと納得できる。だが、それでもまだ不安が消えない。真理は絵梨花に皐月を取られるんじゃないか、と心配するようになってしまった。
「願掛けなんかしなくたって、私は絵梨花と縁を切るつもりはないよ」
 真理は皐月も絵梨花も失いたくないと思っている。絵梨花が皐月のことを好きになるのも仕方がないと思っている。
「私も二橋さんや栗林さんとは縁を切りたくない」
 千由紀も真理と絵梨花と同様に、この縁を大切にしたいと思っているようだ。だが、絵梨花も千由紀も決して皐月のことを口にしなかった。

 秀真が疫神社で参拝を済ませた話を聞いた時、皐月は裏切られた思いになっていた。神社では秀真と一緒に行動したいと思っていたからだ。秀真が比呂志と二人で神社を見てまわったことが皐月には寂しかった。
 疫神社は小さな摂社で、本殿は一間社流造。本殿は本社本殿に倣って庇や棚をつけている。主祭神は蘇民将来命そみんしょうらいのみことで、疫病除けの神威があるとされている。だが蘇民将来は神ではなく人で、人物神だ。
 蘇民将来の説話は日本各地に伝わっている。その話は武塔神むとうのかみが旅をしていて、宿に困っていたところから始まる。武塔神は牛頭天王や素戔鳴尊と同一神とされている。
 武塔神はまず巨旦将来こたんしょうらいという裕福な者の家に宿を求めた。だが、巨旦は拒否。代わりに巨旦の弟の蘇民将来に宿を求めると、貧しいながらも蘇民は武塔神に宿を提供した。
 後に再びこの地を訪れた武塔神はかつての恩返しとして蘇民の娘に茅の輪を渡した。その茅の輪を付けていれば疫病を避けることができるものだった。その後、武塔神は蘇民の娘を除いて皆殺しにした。この武塔神の無慈悲な行いが疫病を象徴しているとされている。
 この説話から「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は疫病を免れるという信仰が広まった。
 秀真はこの疫神社の護符を買うためにみんなから離れて授与所に行っていた。その護符は木を八角に削って作られた八角木守で、各面に「蘇民将来之子孫也」と一文字ずつ書かれているものだ。お金が残っていれば、皐月もこの護符を欲しいと思っていた。

 皐月は疫神社での参拝を終えた後、西楼門の木陰になっている円柱の所でみんなを待つことにした。待っている間、祇園の神のことを考えていた。
 祇園祭は869年に各地で疫病が流行した際に、亡くなった死者による祟りを防ぐため、鎮魂の儀礼を行ったことが起源とされている。平安時代末期には、疫神えやみのかみを鎮めて退散させるため、花笠や山車だしを出して市中を練り歩くという、夜須礼やすらいの祭になった。
 蘇民将来の説話によると、牛頭天王(素戔鳴尊)は疫病を流行らせる行疫神ぎょうえきじんで、蘇民将来は災厄避けの神とされている。八坂神社にはこの両方の神が祀られている。
 祇園信仰とは行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとすることなので、八坂神社(祇園社)は牛頭天王を鎮めるための神社ということになる。御丁寧に蘇民将来という保険まで用意して。
(なんだかな……)
 皐月は八坂神社のやり方に承服しかねていた。武塔神が牛頭天王だか素戔鳴尊だか知らないけれど、疫病で皆殺しにするような神を祀るということは暴虐に屈することではないか。
 気になることはまだある。武塔神は本当に素戔鳴尊なのか。これは武塔神が自分のことを「吾は速須佐雄はやすさのおの神なり」と名乗ったことから同一神とされているが、こんな言葉を真に受けてもいいのだろうか。
 皐月は神話や説話、古代史の創作臭が気に入らない。特に習合に関しては適当過ぎて嫌になる。それならそんな世界に首を突っ込まなければいいのだが、それでも惹きつけられるものがあるから厄介だ。
 清水寺も八坂神社も古代ではいろいろあったようだが、現在はこうして発展していて、多くの観光客に愛されている。「だったらいいじゃん」という真理の考え方や、「当事者じゃないから関係ない」という千由紀の考え方に落ち着くのがいいのかな、と皐月は考えてみた。
「皐月?」
「おわっ!」
 急に目の前に真理が現れた。他の4人も揃っていた。
「また考え事してたの?」
「うん」
「次に行くよ。本当に祇園の花街かがいは見なくてもいいんだね?」
「今はいい。大人になって、気が変わったらまた来るよ」
 皐月が笑うと、真理が微笑みを返した。6人揃ったところで、みんなで西楼門から出て、八坂神社を後にした。


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