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修学旅行、八坂神社を出て鴨川デルタでお弁当(皐月物語 136)

 八坂神社の参拝を終えた藤城皐月ふじしろさつきたち6人は西楼門をくぐって境外に出た。久しぶりに見る街の景色だった。班長の吉口千由紀よしぐちちゆきがスマホの修学旅行専用アプリで担任の前島先生へ八坂神社の参拝終了の報告をした時は、予定の時刻より40分も過ぎていた。
 千由紀が報告をしている間、皐月たちは楼門の階段の最上段から四条通を見下ろしていた。祇園商店街のアーケードは和風建築を思わせる意匠で、長い年月を経て緑青ろくしょうを吹いた銅板葺どうばんぶきの屋根が連なっているように見えた。釣燈籠の照明が京都らしい風情で、夜に歩いてみたいと思わせる魅力的な町筋だ。
 西楼門の石段を下りると、二橋絵梨花にはしえりかが率先して左側の横断歩道の方へ向かった。左のゼブラゾーンは今いる所から近く、幅も広くて渡りやすい。だが、祇園商店街の左側の歩道は花見小路はなみこうじへ行くとおりなので、祇園四条駅へ向かうなら右側の歩道を歩いた方がいい。皐月は花街に近づきたくなかった。
「あっちの信号を渡った方が良くない?」
 信号待ちの時、皐月は絵梨花に軽く提案してみた。
「ちょっとだけでいいから、花見小路を見たいな」
「もしかして二橋さん、花見小路を歩くの楽しみにしてた?」
「うん。華やかな世界に憧れていて、一目でいいから見てみたいの」
「そうか。俺なんか闇ばかり気になっちゃって……」
 皐月は絵梨花から目を逸らし、横断歩道の先にあるツルハドラッグに目を留めた。チェーン店のドラッグストアなのに、色使いを抑えた焦茶を基調とした和風のファサードだ。千本格子や「鶴羽薬師堂」と書かれた暖簾のれんが京都らしく目を引かれる。
「あっ……ごめんね。藤城さん、祇園のこと嫌だったんだよね?」
「いいよ。もともと俺が行きたいって言ってた所だし」
 信号が青に変わった。移動スケジュールの作成を担当した岩原比呂志いわはらひろしの先導で、班員6人が縦一列になって歩いた。四条通の歩道は狭いので、横に広がって歩くわけにはいかない。人通りが多いので、二列に並ぶのも気が引ける。皐月は列の最後尾についた。
 アーケードを少し歩くと祇園のバス停がある。比呂志が電照式の停留所標識を気にして立ち止まると、後に続く5人も立ち止まった。停留所にはバスを待つ人が大勢いた。
「岩原君、どうしたの?」
 比呂志のすぐ後ろを歩いていた神谷秀真かみやしゅうまが声を掛けた。
「バスって本数が多いんだなって思って。行き先も多岐にわたっている。これからはバス旅にも関心を持とうかな」
「他の人の迷惑になるから、先に進むよ」
 秀真のすぐ後ろを歩いていた栗林真理くりばやしまりが比呂志と秀真を急かしたので、再び歩き始めた。皐月は左手に見える漢検漢字博物館・図書館が気になっていた。
「藤城さんは漢検2級を持っていたんだよね?」
 教室で隣の席に座っている二橋絵梨花にはしえりかに話題を振られた。
「ははは……。まあ、一応」
「ここ、寄ってみたかった?」
「そうだね。寄れば面白いんだろうね。でもせっかく京都に来たんだから、優先度は低いかも。どうせなら神社仏閣を見てまわりたい」
「京都のこと、好きになった?」
「どうかな……。人の多い所は苦手だな。でも行きたい所はたくさんある。一度は京都に住んでみたいかな」
 アーケードを抜け、由緒のあるお茶屋「一力亭いちりきてい」の赤い塀の前に出た。ここは大石内蔵助が毎晩のように豪遊していたというお茶屋だ。
「この角を曲がると花見小路なんだね」
 花見小路の入口の両側には「祇園町南側 花見小路」と彫られた道標石どうひょうせきが建てられている。
「そうだね。豊川の圓福荘えんぷくそうとは格が違う」
「圓福荘?」
「ああ。圓福荘はかつて豊川にあった遊郭のことだよ」
 皐月たちは四条通の向こう側に渡るため、「農園」というレトロな喫茶店の前で信号待ちをしていた。
「友達の家が昔、妓楼ぎろうをやっていたんだ。外壁がここみたいに赤くてさ。で、中に入っても壁が赤いんだ。友達んは普通に暮らしているんだけど、家の作りに独特の雰囲気があってね。部屋の中に太鼓橋とかあったし、俺んの置屋とは全然違う」
「家の中に橋!」
「うん。子供の頃はよく橋で遊んだよ。もう家を建て替えちゃったけど」
 信号が青になり、横断歩道を渡ると、目の前には香煎こうせんや調味料を売る「原了郭はらりょうかく」という店に突き当たった。皐月たちは左へ進み、祇園四条駅へ向かった。
 一本目の角を右に曲がると「切り通し」という路地に入る。この通りは雑然とした飲み屋街だが、奥に進むと紅殻格子べんがらごうし犬矢来いぬやらいを備えた京町屋が並ぶ路地へ続く。石畳が敷かれた道はさらに幅が細くなり、そこを抜けると白川を渡す巽橋たつみばしに出る。ここも祇園で人気の観光スポットで、昔ながらの風情をたたえている。
「この角を入って行くと、白川筋に行けるんだよね」
「絵梨花、今日はここ通らないよ」
「は~い」
 絵梨花の昂る気持ちを中学受験仲間の栗林真理くりばやしまりがうまくいなしてくれた。花見小路に行くのをやめると決めた以上、白川筋に行くわけにはいかない。
「吉口さん、石塀小路いしべこうじよりこっちの道の方がキツいよね?」
「うん……。藤城君、わかってたんだ」
「まあね。俺だけじゃないよ。真理もわかってる」
 千由紀は親の仕事がスナックをしていることが原因で、5年生の時に同級生とトラブルを起こしたことがある。稲荷小学校では有名な話で、同学年の児童は全員、ある程度のことを知っている。
「そうか……。二人ともお母さんが芸妓げいこさんだもんね。私は家がスナックだから、飲み屋街には行きたくないの。だから、栗林さんが二橋さんの気持ちを逸らしてくれて助かった」
「親の仕事が頭ん中にちらつくような場所なんて、行きたくないよな」
 皐月は今まで、千由紀の口から家がスナックだと言うことを聞いたことがなかった。その話は5年生の時に、半年間も席が隣同士だった、野上実果子のがみみかこから聞いただけで、その時聞いた話が皐月の知っている全てだった。実果子は千由紀と仲が良く、千由紀をからかう女子たちと喧嘩をしたことがある。そのことがきっかけで、実果子はいまだに同級生から疎まれている。
「もしかして吉口さんって、祇園の街並み、見たかった?」
「そうだね……。関心ないって言えば、嘘になる」
「そりゃそうだよね。普通の人には祇園って魅力的な観光地だよね」
 文学少女の千由紀にしてみれば、芸者は少し前の日本文学によく出てくるので、祇園に興味がないわけがない。千由紀が読んでいた川端康成の『雪国』にも芸者が出てくる。
「藤城君の家って置屋おきやなんだよね? やっぱり和風の家なの?」
「一応、旅館だった建物だから和風建築だよ。でも赤い壁じゃないし、紅殻格子もない。外から見た雰囲気はまあまあかな」
「へぇ~。いいな……」
「別に何もよくないよ。古くてボロいだけだし。でも、興味があるなら一度家に来てみる? 昭和の雰囲気くらいなら味わえると思うから」
「いいの? お邪魔しても?」
「もちろん。でも、過剰に期待しないでね。今はただの民家だから。運が悪ければおばさんの芸妓に会えるかも」
 祇園商店街はごちゃごちゃしてるが、チェーン店がほとんどなく、地元の個人商店ばかりなのがいい。若者や外国人が和服を着て歩く姿が見られるのも楽しい。古い建物が多く、路地に入ると観光地と違って電線が頭上に張り巡らされている。雑然としてはいるが、いかにも都会の繁華街といった感じで、味わい深い。
「和服を着ている観光客はいるけど、舞妓さんっていないんだね」
「そんなのいるわけないでしょ。この時間なら、まだ寝てるんじゃない? 芸舞妓は夜職なんだから」
 普通は秀真のように芸舞妓が見たいんだろうな、と皐月は思った。花見小路に行けば舞妓のコスプレをした観光客がいるのかもしれない。秀真ならそれで満足するだろう。皐月は自分の予定変更でみんなを失望させたことを悔やんだ。

 とんがり屋根が特徴的な、小さな駅舎の祇園四条駅に着いた。手前にある宝くじ売り場の方が派手で目立っている。地下に降りるエレベーターの前で比呂志が時刻表をチェックすると、12時1分の出町柳行特急に間に合うことがわかった。10分くらいはスケジュールの遅延を回復できたようだ。
「藤城氏、8000系に乗れるぞ」
「マジ?」
「マジマジ! やったっ!」
 京阪8000系は無料で乗れる特急とは思えないほど内装が豪華だ。皐月と比呂志は先頭車両の最前列から全面展望を楽しむか、あるいはダブルデッカーの2階席から高い視線で車窓を楽しむかの二択で迷ったが、地下区間しか走らないことに気付き断念。適当に乗ることにした。
 比呂志は祇園四条駅の7番出入口のエレベーターには乗らず、階段を使って下り始めた。コンコースに出ると、左手にスターバックスがあり、右へ進むとすぐに改札口がある。地上の駅舎は小さかったが、地下に広がる空間はなかなか広かった。
 右手にある商業施設ゾーンは壁面が木目調になっていて、柱は八坂神社の透塀すいべいを思わせるような焦茶色、外国人を意識した京都らしい落ち着いた色調だ。コンコースの壁面や柱にはデジタルサイネージや旅客案内ディスプレイが設置されていて、明るく華やかだ。
 比呂志を先頭に、6人は中国語の構内アナウンスを聞きながら改札を抜けた。皐月がふと振り返ると、間口はそれほど広くないのに南改札口にはたくさんの自動改札機が並んでいるのが見えた。その奥には商業施設があり、都会らしい活気のある駅だと思った。
 少し進んでエスカレーターで下に降り、先頭車両が停まる所で電車を待った。比呂志は秀真からスマホを借り、8000系が入線するところを撮影しようと慌ててスタンバイした。すると、間もなく出町柳行き特急が1番線にやって来た。
 8000系の前面には特急を示す鳩のマークが掲げられていた。この鳩は石清水八幡宮の神使である鳩にあやかったものらしい。
 この車両は上部をエレガント・レッド、下部をエレガント・イエローとし、赤色と黄色の間にエレガント・ゴールド帯を配している。京阪は公式で色の名にいちいちエレガントという修飾語を付けている。十二単や紅葉、祝祭、金蒔絵などを連想させるこの配色は、8000系をエレガント・サルーンと呼ぶにふさわしいデザインになっていた。
 車両に入ると、内装も豪華だった。車内は中吊り広告がなく、いかにも特急といった風格があった。
「これって特急料金を払わなくてもいいの?」
「大丈夫だよ。関西の私鉄は豪気だから、これくらいは当たり前なんだ」
 真理の懸念はもっともで、皐月も本当にこの車両に無料で乗れるのかと心配になったくらいだ。比呂志がまるで自分のことのように誇らしげなのが面白い。
 座席モケットは墨色を基調にした京阪特急伝統の赤と黄色を織り込んだもので、金蒔絵風に仕上がっている。ヘッドカバーは赤で統一され、吊革まで深紅色をしていて、紅葉を連想させる。床材は石畳調で、まるでお寺の参道のようだ。
「ちょうど席が空いたから、ロングシートに座ろうよ。それにしてもこのシート、やけに豪華だね」
 絵梨花は塾に通う時に乗っている名鉄の車両と比較し、感嘆していた。
「8000系はね、日本一豪華なロングシートを目指したんだって。8000系は京阪の顔だから、サービスの質やグレードを落としたくなかったらしいよ」
 絵梨花たちはシートに座ると、その弾力性と触り心地に喜んだ。背もたれが頭部を包み込むように支えるハイバックで、背もたれはクロスシートと同等以上の高さを確保されていた。1区画ごとにヘッドレストが設けられていて、通勤型車両のロングシートとはまるで別物だ。
「こりゃいいや」
 皐月はクロスシートに座ろうと思っていたが、真理たちの正面のロングシートが開いていたので、向き合うように正面に座った。皐月が座ると、比呂志と秀真も隣に座った。男子3人と女子3人が向かい合うかたちになった。
「こうして向かい合うと、なんか変だな」
「変だと思う皐月のアタマが変なんだよ」
「そうか? だって学校の教室でこんな風に座ることってないじゃん。給食の時は向かい合って座るけど、男女が市松模様になっちゃうじゃん」
「藤城君はそこに違和感を感じるんだ」
 真理と違って、千由紀は繊細なところがある。皐月は真理のがさつなところは一緒にいて気楽で心地よいと思うが、千由紀の自分の細かい感覚に気付いてくれるところが刺激的だと思った。
 比呂志がスマホで女子3人が並んで座っている写真を撮ると、千由紀にスマホを渡して男子の写真を撮ってもらった。その後、比呂志はもう一度スマホを借りて、車内の撮影を始めた。
「岩原氏、嬉しそうだな。俺もちょっと興奮しているけど、岩原氏の鉄道愛には敵わない」
皐月こーげつって鉄道もオカルトも好きだけど、のめり込むタイプじゃないよね」
秀真ほつまと岩原氏が凄過ぎるんだよ。俺なんかまだ入門レベルだから温かい目で見ててくれよ」
 皐月は秀真の指摘で年下の彼女の入屋千智いりやちさととの会話を思い出した。千智は集中力がなくて、何かに没頭するっていう経験があまりないと言っていた。それは皐月も同じだが、皐月はさらに興味が多方面に分散してしまう癖がある。好奇心が旺盛なのはいいが、力がつくまで経験を積み重ねられないところが短所だと自覚している。
「次に行く下鴨神社なんだけどさ、僕は一人で河合神社に行こうと思っているんだけど、皐月こーげつはどう思う?」
 秀真の提案に驚いた。河合神社は下鴨神社の摂社だ。祭神が玉依姫命たまよりひめのみことということで、玉依姫命が玉の様に美しいことから美麗の神として信仰されている。
「そうだな……。さっき八坂神社で美御前社うつくしごぜんしゃに参拝したから、女子は御利益がかぶっている河合神社に行かなくてもいいかもな。でも、秀真ほつまのお目当ては任部社とうべのやしろだろ? 俺も行きたいな」
 任部社は河合神社の境内にある小さな祠の末社で、祭神は八咫烏命やたがらすのみことという、神武じんむ天皇を大和の橿原かしはらまで案内した三本足の烏だ。
「やっぱ皐月こーげつも行きたいか……。皐月に女子の面倒を見てもらえたらって思ったんだけど……。僕が河合神社を見ている間に下鴨神社本社の方を案内してもらえると時間が短縮できるかなって」
 勝手なことを言う奴だな、と皐月は内心憤慨していた。誰のせいでスケジュールが遅れたのか、と。だが責任の一端は自分にもあることはわかっている。明日美あすみへのお土産を買っている間、みんなに待っていてもらった負い目がある。
秀真ほつまは下鴨神社の本殿は見なくてもいいのか?」
「もちろん参拝するよ。ただ、河合神社も下鴨神社もどっちも急ぎ足でまわらなきゃいけないけどね」
 この日の終わりの時間は決まっている。予定が後ずれすると、京都駅でお土産を買う時間がなくなってしまう。遅延の回復は至上命題だと思っている。
「じゃあ、いいよ。俺が女子を本殿に案内するわ。秀真は一人で河合神社に行って来いよ」
「ホント? 助かる~。ありがとう、皐月こーげつ!」
 下鴨神社には八坂神社以上に多くの摂末社がある。今度こそ全てをまわるのは不可能だろう。ましてや次に行く伏見稲荷大社ともなると、見られない箇所が多過ぎる。秀真は行きたいところを相当我慢しているはずだ。そう思うと皐月も少しは秀真の我慢を肩代わりしてやろうという気にもなる。
秀真ほつまさ、これが修学旅行だっていうことを忘れるなよ?」
「わかってるって」
 どうせ自分は秀真ほどオカルトに没頭できないさ、と皐月はやや自虐的になっていた。だが、神社の勉強をするだけならネットでかなりのことまでできる。百聞は一見に如かずだと思うけれど、今の自分は前提知識の準備が不足している。こんな状態で神社に行ったとしても、ただ見たという経験以上のものを得られることはないかもしれない。
 情熱が続くのなら、またいつか行けばいい。皐月がそのように考え方を改めると、少し心が軽くなったような気がした。

 皐月たちを乗せた京阪特急が出町柳駅に到着した。出町柳駅は島式ホーム1面2線の地下駅で、地元の豊橋駅やJR奈良線の京都駅のように頭端式ホームになっている。
 皐月が地下にある駅の終着駅で降りたのは初めてだった。線路の先がない地下空間は息苦しいのかと思っていたが、意外にも何ともなかった。明るくて空気が良く循環していれば、どんな闇でも平気でいられることがわかった。
 比呂志は駅に着くと、すぐ近くにある階段を上り始めた。皐月ら5人は訪問地の移動を比呂志に任せていたので、彼の後をついて行った。黄色の明かりに照らされた改札を抜けると、叡山電車の乗り場を目指して左へ進んだ。
 コンコースを道なりに歩いていると、祇園四条駅のような煌びやかなデジタルサイネージによる広告が目についた。出町柳駅は柱に埋め込まれたディスプレイではなく、円柱を覆うように制御盤が設置されていて、そこに電子看板を後付けして広告を表示していた。
 下りエスカレーターはなぜか平面に延長され、動く歩道になっていた。上りエスカレーターを乗り換える時、左手に葵祭の巡幸図の壁画を見ることができる。右に曲がってもう一度エスカレーターに乗ると地上に出た。世界遺産がある駅だけあって、地上まで重力に抗わずに行けるのは観光客に優しい設計だ。
 出口の左側には叡山電車の出町柳駅があった。飲料の自動販売機に並んで、えいでんグッズの自販機もあった。比呂志がいきなり走りだしたので、皐月も面白がってついて行った。
「ダメだ。ここには僕の欲しい物がない」
「岩原氏はどんな物が欲しかったの?」
「家族のお土産にできる物と、日常使いができる物。あとは自分の趣味を満足させられる物かな。どこかにグッズを売っている場所があるはずなんだけど……」
 比呂志が真剣な顔で駅の構内に目を走らせると、えいでんグッズのショーケースを発見した。グッズを買うには改札を通らなければならない。
「マンガとかアニメのコラボ商品が多いな。でも欲しい物も見つかった。ちょっと買ってくる」
 比呂志が入場券を買って改札の中に入って行った。比呂志の買い物が終わるまでに秀真と話していた河合神社のことを女子たちに言おうと思ったら、すでに秀真が千由紀と揉めていた。
「なんでそんなに単独行動したがるの?」
「マニアックな神社だから、みんなに付き合わせたくないって言ってるでしょ」
「そう思うなら、神谷君がみんなに付き合えばいいじゃない」
「でも、せっかく目の前に行きたい神社があるんだから、行かせてくれたっていいじゃん。京都なんかめったに来られないんだし」
「そりゃ、私だって神谷君の行きたいところに行かせてあげたいって思うよ。でも、八坂神社の時は夢中になって、時間のことなんか忘れてたでしょ? ああいうのは困るんだけど」
 どういう言い方をしたらこんなにこじれるのか、と皐月は秀真と千由紀のやり取りを見て不思議に思った。
「吉口さん、秀真ほつまはここまでの遅れを取り戻すために時間短縮しようと思って、自分だけ別行動を取るって言ってるんだ。俺たちにとっては悪い話じゃないと思うんだけど」
 皐月は二人がどういった経緯で揉めたのかわからないので、秀真の行動原理だけを先に伝えようと思った。
「秀真は国宝の下鴨神社の本殿を見る時間を削ってでも、周りの小さな神社を見てみたいんだ。普通の観光客は隅々まで全部見たいとは思わないよね。まずは世界遺産として有名なところを見たり、国宝を見たり、優先順位を考えるでしょ? でもマニアは短い時間でもいいから全部見たいんだよ」
 これで合ってるかな、と思いながら皐月は秀真の思いを代弁してみた。皐月も少しはマニアの気持ちがわかっているつもりでいたからだ。
「あれっ? 皐月こーげつ、全部見ていいの?」
「待ち合わせ時間を決めて、間に合えば別にいいんじゃない。それならどう? 吉口さん」
「神谷君が絶対に時間厳守してくれるなら、別にいいけど……」
「どう? 秀真」
「絶対に遅れないようにするよ。約束は守る」
 観光客や地元の人が行き交う中、出町柳駅の一角に一瞬の静寂が訪れた。
「まあ、いいんじゃない。千由紀ちゃん。神谷君も約束を守るって言ってるんだし」
「私もいいと思う。神谷さんが見たいところを見せてあげたい」
 真理と絵梨花は秀真の好きにさせたいと思っているようだ。
「私だって別に意地悪で言ってたわけじゃないよ。ただ、八坂神社の時みたいなのは嫌だなって思っただけで」
 この時、比呂志が買い物から戻って来た。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
「大丈夫。そんなに遅くないよ。岩原氏、全然迷いがなかったじゃん。もっとじっくりと見たかったんじゃない?」
「お土産は別にいいんだけど、叡山電車の出町柳駅はじっくり見たかったな。それ以上に電車に乗りたかった」
「また大人になったら一緒に叡山電車に乗りに来ようぜ」
「その時は僕も来たい。皐月こーげつと岩原君には御蔭みかげ神社に付き合ってもらうけど。あと、鞍馬寺とか貴船神社にも」
「僕も鞍馬寺と貴船神社には行ってみたい。叡山電鉄鞍馬線の終着駅だね」
「岩原氏。御蔭神社だって叡山電鉄本線の八瀬比叡山口やせひえいざんぐち駅だぞ」
「お~っ! そうなんだ。藤城氏はどっちも詳しいね!」
 こんな旅、鉄道とオカルトの好きな自分が一番得じゃん、と皐月は楽しくなってきた。
「で、みんなどうしたの? なんか雰囲気がおかしかったけど?」
秀真ほつまが下鴨神社の摂社や末社を見たいんだって。でも八坂神社の時みたいに遅れないでほしいって話をしてたんだ」
「だったら僕が神谷氏に付き合うよ。時間の管理は任せて。今度は少しでも遅延を回復できるように気を付けるから」
 比呂志も秀真のように八坂神社の遅れを気にしていたことがみんなに伝わった。比呂志が時間を守ると言えば大丈夫だろうと、みんなは旅行のスケジュールを組んだ比呂志のことを信頼していた。
「じゃあ、そういうことでいいよ。みんな揃ったから、もう行こう。次は鴨川デルタでお弁当だね」
 千由紀の先導で駅を出た。信号の繋がりも良く、柳通も川端通もスムーズに信号を渡ることができた。

 川端通の横断歩道を渡り、河合橋を渡らずに左に曲がると駐輪場がある。ここに歩道の切れ目があり、そこから土手へ下りる坂に入る。
 川沿いの空は広い。皐月たちは伸び伸びとした気持ちで緩やかな坂を下った。高野川のせせらぎと水面みなもを吹く風が心地よい。青い空の底に敷かれた賀茂大橋を見ていると別世界にいるような気分になる。桜の木の下を抜けると、鴨川の飛び石の前に出た。
「私、こんなに近くで橋を見たことってないかも」
 千由紀が目を潤ませていた。言われてみれば皐月たちが通っている稲荷小学校の校区には川らしい川がない。だから橋を見たければ、少し離れた佐奈川まで行かなければ見られないし、大きな橋を見たければ豊川とよがわか豊川放水路まで自転車で走らなければならない。
「ここが鴨川デルタか……。前島先生が大学生の時に来たことがあるって言ってたな。お寺よりも印象に残っていたって」
「その話、覚えてる。前島先生がやけに鴨川デルタを推してたから、僕は河合神社の時間を短くしてもいいって思ったんだ」
「でも、秀真ほつまは単独行動ができるから、両取りができて良かったじゃん」
 真理が亀の形をした石に乗り、長方形の石の上を渡り始めた。絵梨花が後に続いて、その後に秀真、比呂志、千由紀、皐月と続いた。横向きに並んだ長方形の石が途中で縦二列になり、そこで向こうから来る人とすれ違うことができる。
「藤城氏、この亀の石って列車交換れっしゃこうかんみたいだな」
「鴨川の飛び石は単線だからな」
「これだけ渡る人が多いんだから、複線にすればいいのに」
 比呂志の何でも鉄道に絡める会話が皐月には楽しかった。
「あの離れた所にある石って、何の形かな?」
 絵梨花が指差した石は小さな飛び石の先の下流に逸れた所にあった。
「盲腸線みたいだな」
「美濃赤坂!」
「東名古屋港!」
 皐月と比呂志が鉄道話で盛り上がっていると、千由紀が真面目に絵梨花の質問に答えた。
「あれは千鳥。小さな石の上を歩かないと行けないところにあるね」
「千鳥までの石が小さくて、行きにくいね。どういう意図で離れた所に置いたんだろう?」
「水遊びをしてもらいたいって考えて置かれたらしいよ。子供でも入れるくらい浅いからね、ここって」
 鴨川デルタの飛び石がある所は帯工おびこうといって、川底をコンクリートにすることで水の流れによる浸食を和らげ、河床を深く掘られないようにされている。飛び石は帯工のおまけみたいなものだ。
 皐月たち6人は全員、水に落ちずに高野川を渡り切った。今立っている場所は賀茂川と高野川の出合いで、二つの川が一つになって鴨川になる始まりの所だ。
「なあ、皐月こーげつ。ここってパワースポットじゃね?」
「やっぱ秀真ほつまもそう思った? なんか元気になるっていうか、力が漲るようなかんじがするよな」
「あんたたち、本当にそんなこと感じてるの?」
「なんだ、真理は感じないのか? お前って鈍いんだな」
「なによ、鈍いって。私だって普通に気持ちいいって思ってるんだから」
 真理が足下の石を拾って、川に向かって投げた。あまり上手くない投げ方で、女子丸出しだった。
「下手くそだな。俺が手本を見せてやるよ」
 皐月は一度石切りをやってみたいと思っていた。足下の平らな石を拾い、アンダースローで水面に平行になるように投げた。水面の近くで一度ホップしたが、重力に引かれて水面の上を跳ねるように飛んでいった。
「藤城さん、すごーい! かっこいい!」
「えへへっ。俺、こういうのは得意なんだよね」
 皐月は絵梨花に初めて格好いいと言われた。ガッツポーズをしたいところだが、真理の目があるので大人しくしていたほうがいい。それに、今日の絵梨花はちょっと変な感じがした。皐月には絵梨花がはしゃぎ過ぎているように見えた。

 どこでお弁当を食べようかという話になった。鴨川デルタでランチをすると決めた時に各自レジャーシートを持ってくることを決めていた。10月はまだ日差しが暑かったので、賀茂川側の斜面の木陰で食べることにした。
 皐月が草の上の場所を決めると、その左隣に真理が来た。皐月は頼子よりこが作った真理の弁当を持ってきたので、真理が隣に来てくれるのは都合が良かった。
 皐月がレジャーシートを敷いて草の上に座ると、秀真が皐月の横に来て、秀真の隣に比呂志が来た。真理の隣には絵梨花が来て、その隣に千由紀がいた。
「ほれ。真理の弁当」
「ありがとう。皐月、重かったでしょ?」
「大丈夫。俺たちが京都で食べ歩きすること考慮して、頼子さんが小さめの弁当にしてくれたんだ」
「確かに八ツ橋を食べたり、おにぎりを食べたりしたから、そこまでお腹が空いているわけじゃないんだよね」
 体感的には自分の分と真理の分を合わせても、一人分の弁当の重さしかない感じだった。
「俺はもう、食べ歩きをするお金なんて残っていないんだよな。この後、腹減ったらどうしよう……」
「いいよ。何か食べたくなったら、私が買ってあげる」
 弁当は食べ終わったら捨てられる容器に入れて来なければならなかった。皐月たちの弁当は紙でできた使い捨てのフードパックに入れられていた。使い勝手も容量も、普段使っている弁当箱となんら変わらないものだった。
「うわっ! マジかよ……」
 蓋を開けると、そこにはおにぎりが二つ入っていた。だが、おにぎりには男の子と女の子の顔が海苔で描かれていた。卵焼きはハートの形をしていて、愛妻弁当のような飾り付けだ。
「可愛いお弁当だね。これって、もしかして皐月と私?」
「知らん。何考えてんだよ、頼子さんは……」
 隣にいた絵梨花と秀真も覗き込んできた。それにつられて千由紀や比呂志まで二人の弁当を見に来た。
皐月こーげつ、写真撮ってやるよ」
「余計なことするな、バカ!」
「いいじゃない、写真くらい。せっかく神谷君が撮ってくれるって言ってんだから。二つ並べるから、撮って」
 真理が自分の弁当を皐月の弁当にくっつけたところで、秀真が写真を撮った。真理も少しはしゃぎ始めたようだ。
「このお弁当って、祐希さんが作ったの?」
 絵梨花は今朝、駅で話した及川祐希おいかわゆうきのことをすぐに思い出した。瞬時に連想がはたらくところに皐月は絵梨花の鋭さを感じた。
「違うよ。作ってくれたのは祐希さんのお母さん。私のお母さんが祐希さんのお母さんに頼んで作ってもらったの」
 すかさず真理が絵梨花に答えた。皐月は自分で説明するつもりでいたので、真理のこの反応に驚いた。
「親同士仲がいいんだね」
「私のお母さんは昨日の夜、お仕事だったから、朝は起きられないの」
 皐月は視界の端で千由紀がこそこそとコンビニで買ったサンドイッチを隠したところを見た。千由紀の母も自分や真理と同じ夜職だ。弁当を作る余裕がなかったのだろうと思うと、皐月は自分の恵まれた環境に感謝した。そして千由紀の心情を察し、辛くなってきた。
「人の弁当なんかどうだっていいじゃん。さっさと食おうぜ」
 皐月はみんなの見ている前でおにぎりに手を付けて、かぶりついた。皐月の顔をしたおにぎりの頭が荒く食い千切られた。
 みんながそれぞれ自分の弁当を食べ始めたので、皐月は真理の耳元で囁いた。
「お前、はしゃぎ過ぎ」
「えっ?」
「少しは空気読めよ」
 ちらっと千由紀に視線を走らせると、真理は皐月の意図に気が付いた。
「やっちゃったね……」
「まあ、しゃーない。これから気を付ければいい」
 千由紀は端っこで、寂しそうにサンドイッチを食べていた。千由紀にかける言葉が見つからなくて、皐月は泣きたくなった。
「岩原氏、さっき駅で何を買ってたの?」
 皐月は少しでも場を賑やかにしようと、比呂志に話題を振った。比呂志は自分の趣味の話になると饒舌になる。
「よくぞ聞いてくれました。まずは叡山電車のNゲージ、デナ21型だ。昭和の名車だよ」
 比呂志から受け取ったデナ21は見たこともない車両なのに、なぜか懐かしさをおぼえた。車両の上半分がブラウンベージュ、下半分が深緑で塗装されていて、この配色が美しい。1970年頃のトロリーホイール式のデナ21型を再現していた。
「いい品物が手に入りましたな」
「でしょ?」
 比呂志は他に家族向けに900系パッケージの「叡電さぶれ」と、新しい車両の「ひえい」電車型ペンケースを買い、他にも叡山電車ハンカチーフ「ひえい」と「ひえい」のピンバッジまで買った。
「岩原氏は『ひえい』推しなのか?」
「だってここにしかない車両じゃん。デザインも独特だし、乗ってみたかったな……」
 この様子だと、比呂志もお小遣いを使い果たしているのかもしれない。皐月は比呂志にも余分にお金を持ってくるように言っておいたが、派手な使い方を見て不安になった。
 弁当を食べ終えた皐月は、ナップサックの中から餡ドーナツを取り出した。これは豊川駅で修学旅行実行委員の江嶋華鈴えじまかりんから貰った物だ。華鈴から二つ餡ドーナツを貰い、一つを野上実果子のがみみかこにお裾分けをした。皐月と華鈴と実果子は小学5年生の後半の半年間、いつも席を並べていた間柄だ。
「皐月。それって朝、野上さんたちとイチャイチャしていた時のやつだよね」
「なんだ、そのイチャイチャって」
「別に……。あんたたち、仲いいなって思っただけ」
 華鈴も実果子も今頃は同じ餡ドーナツを食べているんだな、と思うと胸がキュンとなった。隣には深い関係になっている真理がいるのに、この気持ちの揺らぎが皐月を不安な気持ちにさせた。
「ん?」
 真理の右手が皐月の左手に触れていた。慌てて左右に視野を広げ、皐月は絵梨花や秀真に見られていないかを確かめた。どうやら大丈夫そうだ。
「どうした?」
 真理を見ると、どこか寂しそうな顔をしていた。
「修学旅行、楽しいね」
 真理の笑顔に差す陰が皐月には悲しげに見えた。
「そうだな」
「京都……また来たいね」
「うん」
 真理の陰になっているが、皐月は絵梨花の視線を感じていた。不自然にならないよう視線を賀茂川の水面に移し、口を開く時は一呼吸置くことにしようと気を引き締めた。
「吉口さん、疲れてない?」
 皐月は千由紀に声をかけた。食事の時に絵梨花と少し喋っていたようだが、位置の関係で、千由紀は他のメンバーとは何も話していなかった。
「大丈夫だけど」
「ここまでたくさん歩いたじゃん。そろそろ疲れが出る頃かなって。もし疲れている人がいたら、ここでもう少し休んだ方がいいかなって思ったんだけど、どうかな?」
「予定よりまだ30分以上遅れているから、そんな悠長なことは言ってられない。そろそろ下鴨神社に行こう」
 千由紀がランチの後片付けをし始めたので、他の5人も片付け始めた。鴨川デルタは気持ちの良いところだったので、皐月はいつまでもここにいたい気持ちになり、動きが緩慢になっていた。皐月の隣で真理はすでに片付けを終えていた。
「早く片付けなさいよ。皐月はいつも動きがトロい」
「うるせーよ、バカ」
 慌ててゴミとレジャーシートをナップサックに詰め込んで立ち上がった。斜面に座っていたことを忘れていて、下に転げ落ちそうになった。
「大丈夫?」
 真理に腕を掴まれていた。おかげで皐月は転ばなくてすんだ。千由紀と絵梨花は先に土手を上り始めた。
「行くよ」
「おう」
 皐月と真理は4人を追いかけるように、土手の草の上を上り始めた。これでいいのか、という小さな不安が皐月の心に広がり始めた。


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