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長続きしない感情 (皐月物語 52)

 栗林真理くりばやしまりの部屋を出た藤城皐月ふじしろさつきは、エレベーターの中の姿見鏡で自分の姿を見て絶望した。格好良くありたいと思った矢先にランドセルを背負った姿を見ると、ダサくて泣きたくなる。紫のインナーカラーに小学生ファッションは似合わない。一刻も早く背中にある鬱陶しいものから解放されたい。今すぐにでも学校の教室に逃げ込みたくなった。
 真理の住むマンションを出て豊川とよかわ駅の東西自由通路の階段を駆け上がった。飯田線を超える橋上の改札口まで来ると、西口から次々と通勤通学の人たちが来る。階段を下りる時に人とすれ違うのが恥ずかしいので、改札の正面にある狐の展示物でランドセルを目立たないように隠し、人の流れが途切れるのを待つことにした。
 朝から真理とキスをしていたからか、改札に向かう人を眺めているとつい女の人に目が行ってしまう。大人の女性だったら当然、体験をしているのだろう。いや、花岡聡はなおかさとしと一緒に見たアダルト動画のようなことだってしているはずだ。そんな妄想をしていると、皐月の身体が落ち着かなくなってきた。
「あれ? 何してるの?」
 皐月の家に住み込んでいる高校生の及川祐希おいかわゆうきがエスカレーターに乗ってやって来た。サラリーマンの男の背後にいたので、ギリギリまで祐希に気付かなかった。
「祐希のことを見送ろうと思って待ってたに決まってんじゃん」
「ありがとう。でも私がいつ来るかなんてわからなかったでしょ」
「だいたいこの時間かなって思って。それにこの電車が出たら祐希の見送りは諦めて、学校に行くつもりだったよ」
「皐月に待っててもらえたなんて嬉しいな。ランドセル姿、可愛いね。ちょっと写真撮らせてよ」
「ヤダよ! ダッセーじゃん」
美紅みくに送ってあげたら喜ぶと思ったんだけどな~」
「じゃあ祐希の制服姿も撮らせろよ。博紀ひろきの奴が喜ぶから画像送ってやるよ」
「え~、なんかヤダ……」
「早く学校へ行けよ。電車が来ちゃうぞ」
「はいはい。じゃあ行ってくるね」
 祐希が改札を抜け、階段を下りるまで皐月はずっと見送っていた。ホームへ下りる時、祐希が手を振ったので皐月も手を振り返した。列車の発車時刻になったので人の流れが途絶え、皐月は安心してランドセル姿で階段を下りることができた。

 6年4組の教室に入ると最初に松井晴香まついはるかたちのグループと会った。
「おはよう」
 皐月は久しぶりに自分から晴香に声をかけた。
「おはよう……」
 晴香は少しおどおどしている。
「毛先、巻いたんだね。今日のアレンジ、めっちゃ可愛いじゃん」
「ホント? ありがとう。こないだはゴメンね……」
「ん? なんかあったっけ?」
「藤城のことホストみたいだって……」
「ああ、そのことか……。今ではむしろ光栄だと思ってるよ。だって松井なりにおれのことをカッコイイって言ってくれたんだよね。あの時は気付くのが遅かった。俺、バカだ……」
「……よかった、怒ってなくて」
 勝ち気な晴香のホッとした顔は教室内ではほとんど見る機会がない。こういう顔をした晴香もなかなか魅力的だな、と皐月は思った。きっと月花博紀げっかひろきは晴香のこの表情をよく見ているのだろう。博紀と話している晴香はいつも緊張している。たまにこんな顔を見せられたら博紀だって晴香のことをいいなって思うに違いない。
 ランドセルを棚に入れると聡が話しかけてきた。
「先生、松井と話してたね。どうした?」
「ああ。あいつのヘアアレンジが可愛かったから声をかけずにいられなかったんだ」
「松井と仲直りしたんだ」
「仲直りも何も、もともと大して怒っていなかったけどな。それに俺って怒りの感情が長続きしないタチだから」
「さすが先生。女に優しい」
「なんで女に限定するんだよ。俺は誰に対してもあまねく優しいつもりなんだけどな」
 花岡聡は皐月のことを先生と呼ぶが、本当は聡の方が女性のことを教えてくれる皐月の先生だ。だが聡が教えてくれることは全て知識で、いまだ体験談を聞かされたことがない。少しだけ早く青い体験を済ませた皐月の目には聡が幼く見えるようになっていた。だが皐月は聡の先生になろうとは思わなかった。
 自分の席に戻ると真理はいつも通り集中して勉強をしていた。二橋絵梨花にはしえりかも勉強をしているが、真理ほどの集中力ではなさそうだ。吉口千由紀よしぐちちゆきはいつもと変わらず本を読んでいる。神谷秀真かみやしゅうま岩原比呂志いわはらひろしはまだ席にいない。
「おはよう」
 3人の邪魔にならないように小声で挨拶をすると、絵梨花が勉強の手を止めて丁寧に挨拶を返してくれた。千由紀も本から目を離して応えてくれたが、真理は振り向きもせず、背中越しに生返事をしただけだった。皐月はさっきまでさんざん大人の挨拶を交わしていたので、真理の態度は気にならなかった。だが、傍から見れば真理は相当感じが悪かっただろう。絵梨花や千由紀に嫌われやしないかと真理のことを心配していると「できた!」と言って振り返った。
「おはよう」
 学校ではあまり見せない人なつっこい笑顔だった。
「栗林さん、嬉しそう。どんな問題を解いていたの?」
「算数の計算問題なんだけどね、答案が汚い数字になっちゃって……。これは間違ってるなと思ってもう一度慎重に解いたんだけど、やっぱり同じ数字になったの。もういいやって思って解答を見たら合ってた」
「それってどこの中学の問題だった?」
「えっと……あっ、桜蔭おういんだ」
「あぁ~」
「出題校のとこ、ちゃんと見ておけばよかった」
「ここは解かなくてもいいよね。私は難関校の問題なんて全然手を付けないよ」
 真理と絵梨花が受験談義に花を咲かせている。特に絵梨花が早口でペラペラとよく喋り、皐月はこんなに饒舌な彼女を見るのは初めてだった。
 いつも白のブラウスにスカートという出で立ちで小学校に来る絵梨花は、この小学校ではある意味とても浮いた存在だ。色素薄い系女子の絵梨花は肌が透けるような白い。ベージュの髪、エイリングレーの瞳というビジュアルは日本人離れをしている。そのうえ優等生なので男子から見るとちょっと近づきがたい雰囲気があり、女子からもあまり親しく話しかけられていない。
「その問題、ちょっと見せて」
 なかなか口を挟む隙がなかったので、皐月は半ば強引に話に割り込んで真理から問題集を借りた。その計算式は分数や少数の入り混じった長いもので、小数は簡単に分数に変換できそうになく、分数も分母がキモい帯分数だ。
「面白そうじゃん。俺にも解かせてよ」
「いいよ。制限時間は2分ね」
「見直し入れて2分30秒だよ、藤城さん」
「マジか! 無理ゲーじゃね?」
「早い子なら1分以内で解いちゃうかも」
「よしっ、やってやろうじゃん」
 真理や絵梨花は皐月を挑発しているわけではないだろう。おそらくこの時間設定が受験生の標準的なものに違いない。式を見た瞬間、絶対に無理だと思った皐月は己の学力のなさが悔しかった。
 皐月が計算をしていると、秀真と比呂志が席に戻って来た。彼らに挨拶をされても皐月は真理と同じような気のない返事しかできなかった。皐月と真理の違うところは、真理はこの計算問題を解けたけれど、皐月はまるで歯が立たなかったことだった。


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