女の子を初めて家に誘った (皐月物語 25)
藤城皐月が家に帰ると母の小百合と住み込みの及川頼子が居間で笑っていた。音楽も映像も流さず、ただおしゃべりをしながら過ごしていたようだ。
「今日のお昼、素麺ね」
「え~っ、また素麺かよ~。最近、蕎麦と素麺ばっかりじゃん」
今までは皐月と小百合の二人暮らしだったので、戴き物の乾麺がなかなか減らなかった。特に素麺をたくさん貰っていたので、昼食では蕎麦よりも素麺の割合が多くなりがちだった。皐月はもう素麺に飽き飽きしていた。
「今日はちょっとアレンジした素麺にするから楽しみにしててね、皐月ちゃん」
これからはあまり凝った料理を作らない小百合と違い、賄いをしてくれる頼子がいる。
「アレンジってどんな?」
「お肉と野菜でボリュームたっぷりにしようかなって思ってるの。皐月ちゃん、野菜の好き嫌いってある?」
「大蒜と生の玉葱が嫌い。特に生の玉葱は食べたら吐いちゃうかも……。苦手な野菜は他にもいろいろあるけれど、食べようと思えば食べられるから、大蒜と生の玉葱以外だったら何でも出していいよ」
本当はまだ嫌いな野菜がたくさんある。葱、茗荷、セロリなどの香りの強い野菜が苦手だ。
「皐月、あんたそんなこと言って大丈夫なの?」
「いい機会だから苦手な野菜でも食べられるようにしたいって思ってるんだ。だからママ、頼子さんにおれの苦手な野菜のこと教えないでよ」
「はいはい、わかりました。そういうことで頼子、食材は何でも遠慮なく使って好きなように料理してくれていいからね。なんなら大蒜も生玉葱もこっそり入れちゃっていいから」
「いや、それはやめて! ……でも、食べられた方がいいのは確かだし、どうしよう……」
「皐月ちゃん、偉いね~。大人の階段上ろうとしているのかな」
「色気づいているだけよ」
頼子と一緒にいると、小百合も学校の女子とあまり変わらないなと思った。皐月は教室で女子の集団を避けるように、二階の自分の部屋へ上がって行った。
皐月の部屋の窓と廊下側の窓が開け放たれていた。皐月と祐希の部屋を仕切っている襖も開いていたので、風がよく通っている。暑いことは暑いが、今日はそれほど蒸し暑さを感じない。昼食ができるまではエアコンを付けずに暑さを少し我慢することにした。
皐月はランドセルからスマホ取り出し、入屋千智にメッセージを送った。千智から返信が来るまでは、栗林真理から借りている『特進クラスの算数』をパラパラ眺めて時間を潰すことにした。
中学受験をする真理や二橋絵梨花はこの参考書の問題のどのレベルまで解けるのだろう……いくらあの二人でもこの参考書の問題を全部解けるわけじゃないと思ってはみても、今日の算数の小テストでの二人の様子を見ていると自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしてくる。
ベッドの上でメランコリックになっていると千智からの返信が来た。
「ただいま~。先輩から『おかえり~』って来ててビックリしちゃった」
「今日、最後に会えたね。黒のワンピース、かっこよかったよ」
「ありがとう。かっこつけて黒ずくめにしちゃったけど、暑かった~」
「そっか、暑かったか。さっきのスタイルの千智に会いたいなって思ったけど、ダメかな?」
「ダメじゃないよ。全然」
学校では女子とよく話す皐月だが、プライベートで女の子を誘うのは幼馴染の真理以外では初めてだった。このチャットで千智を誘うつもりはなかったが、話の流れでいけそうな感じがした。「会いたい」とさらっと書いてみたのが良かったのかもしれない。最初から誘うつもりでメッセージを送ろうと思ったら、躊躇していつまでも送れなかっただろう。
「通話に切り替えたいけど、いい?」
「いいよ」
一旦チャットを終了し、通話に切り替えた。約束を取り付けた後だから気持ちにも余裕がある。
「もしもし? 聞こえる?」
「聞こえま~す」
「よかった。ちゃんと使えてる」
「初めて先輩と電話で話すね」
「なんか照れるね。……それはそうとさっきの話だけど、暑いから会うのは涼しいところがいいかなって思ってさ。涼しいとこってどっかいいとこあったっけ?」
無計画な行動のせいで、先のことを何も考えていなかった。
「藤城先輩っていつもどこで遊んでいるの?」
「エアコンが効いているところだったら自分ん家か友だちん家かな。一人だったら検番か喫茶店に行ったりもするけど」
「ケンバンって何?」
「芸妓組合の事務所っていうか稽古場っていうか、そんな所。ちょうど学校の帰り道にあるし、検番にはママとお母さんがいるから自分の家みたいにお茶飲みに立ち寄ったりしてる」
「ママとお母さん?」
「ああ、ママが自分のお母さんで、お母さんはママの仕事の元締めの超ベテランの芸妓さんのこと」
「ああ、そういえば前に教えてもらったね」
祐希と千智と初めて会った日に、皐月が自分の母のことをママと呼んでバカにされた時のことだ。あの時はうまく切り抜けたが、皐月にはトラウマ級の出来事だった。今でも思い出すと「あ゛~っ!」と叫びたくなる。
「私、本物の芸妓さんって見たことない。その検番って普通の人じゃ入れないところだよね」
「まあ職場だからね。でも俺みたいな芸妓の子どもは小さい頃から京子さんに面倒見てもらってきたから、検番は第二の家って感じなんだ。同じクラスに俺と一緒に検番で預かってもらってた幼馴染もいるよ。千智さえよかったら、芸妓さんを見に検番に行ってみる?」
「え~っ、さすがにそれはちょっと気が引けるかな……。綺麗な芸妓さんは見てみたいけど、子供の行く所ではないような気がする」
「別に綺麗な人なんてあまりいないけどな……まだ化粧もしてないし着物も着てないし」
皐月の脳裏に明日美がよぎった。明日美に千智を見せびらかしたいような、千智に明日美を見せびらかしたいような浮ついた気持ちになる。そして、二人の反応を見てみたい。
「それよりも先輩の家に行ってみたいな。祐希さんの家でもあるし」
「じゃあ、とりあえず家に来てもらおうかな。後のことは家で考えよっか」
「うん」
「祐希はまだ学校から帰っていないと思うけど、家にはおれのママと祐希のお母さんがいるよ。大丈夫?」
「別に大丈夫だけど、どうして?」
「いや……人の親って緊張するかなって」
「私なら藤城先輩に恥をかかせないよう振舞えると思うよ。検番の芸妓さんに会うのはちょっと怖いけど」
「うちのママも祐希のお母さんも一応芸妓なんだけど」
「あっ……」
千智の反応にウケて皐月が笑うと、皐月以上に千智が大笑いした。
「皐月~、ご飯できたよ~」
母の小百合の声が階下から聞こえてきた。千智とはまだ話の途中だ。
「あと3分待って」
「だめ。あと1分」
アメリカ映画にそんな言い回しがあったかな、と思い出しながら通話に戻った。
「お昼御飯ができたんだって。じゃあ駅で待ち合わせようか。名鉄の豊川稲荷駅ならわかる?」
「うん」
「じゃあ駅の前で待ってるよ。時間は1時半でいいかな?」
「1時30分ね、わかった」
「それじゃあ、また後で」
電話を切って階段を下り居間に入ったら二人はもう素麺を食べ始めていた。
「遅いよ! もう2分たった。麺が伸びちゃうよ」
「別にちょっとくらい遅れたっていいじゃん。それにママたち、もう食べてるし」
「せっかく頼子が作ってくれた素麺が美味しくなくなっちゃうじゃない」
「まあまあ小百合、そんなに神経質にならなくてもいいのよ。皐月ちゃんだって都合ってものがあったんだろうし」
「どうせ電車の動画でも見てたんでしょ」
「違うよ。友だちと電話してたからすぐに切れなかっただけじゃん」
少しイラっとした皐月だが、目の前の素麺を見てすぐに気持ちが切り替わった。
「何、この素麺。超うまそー」
いつもの素麺と違ってつけ汁で食べるのではなくぶっかけ素麺だった。麺の上には豚のバラ肉と大根おろしが盛られていて、さらに貝割れ大根や紫蘇、分葱が薬味として散らされている。麺つゆには胡麻油が合わせられていて香ばしい香りが食欲をそそる。
「いっただきま~す!」
生の玉葱が食べられない皐月には火の通っていない分葱も苦手な野菜だったが、この料理では余裕で食べられた。大根おろしのさっぱり感と豚バラと胡麻油のこってり感が絶妙で、箸が止まらない。
「そんなに美味しそうに食べてもらえると嬉しいわ。ところで友だちってスマホの写真の女の子?」
「えっ、そうなの?」
ぎょっとして皐月の麺を食べる箸が止まった。小百合も驚いていた。皐月は食べていたものを慌てて飲み込んだ。
「そうだけど……頼子さん、よくわかったね。エスパーみたいで怖っ!」
「嬉しそうな顔してたからね、皐月ちゃん」
「頼子、よくわかったわね。私なんて全然気付かなかった」
「年頃の娘と暮らしているとね、気取るのが上手になるのよ。超能力じゃないから安心してね、皐月ちゃん」
今まで気付かなかったが、頼子と比べると母の小百合は相当鈍いんじゃないかと思い始めた。小百合が敏感なのは嗅覚だけだ。
「それでさ、今日その千智って子をうちに呼ぼうと思うんだけど、いい?」
「もちろんいいに決まってるわよ。ちゃんと私たちに紹介してくれるんでしょうね、その千智ちゃんって子」
小百合があまりにも嬉しそうな顔をしているので皐月の警戒レベルが跳ね上がった。
「ちゃんと紹介するからさ、あんまし大げさなことはやめてくれよ」
「あんたが家にガールフレンド連れてくるなんて初めてじゃない? これを喜ばずにいられますかって~の」
「今までだって真理がしょっちゅう来てたじゃん」
「真理ちゃんは兄弟姉妹みたいなものでしょ。何言ってんの、あんたは」
皐月は真理のことを女の子として意識し始めたのに、小百合にとっては真理は自分の子どものように思っているらしい。
「小百合、私あとでケーキ買ってこようか?」
「4つ買って来てもらおうかしら。私たちの分も含めて」
「だからそういうのやめてくれって言ってんじゃん!」
手にしていた箸を箸置きに置いて皐月が怒った。
「皐月ちゃんたち二人にさせてあげなさいよ。小百合、はしゃぎ過ぎよ」
「私たちは別室で食べるのよ。ケーキ買ってこようとか、実は頼子の方が舞い上がってるんじゃないの?」
「てへっ、バレた?」
「もう、喋ってばかりいないで素麺食べろよ。伸びちゃうよ」
皐月の一声で三人は食べることに戻ったが、すぐに小百合が話し始める。
「ところでうちのどこで会うつもりなの? あなたの部屋じゃ狭すぎるでしょ」
友だちを家に呼ぶ時、いつも祐希の部屋だったところで遊んでいた。住み込みの人が誰もいなかった頃は部屋が余っていたので、贅沢に一部屋を遊び部屋として使っていた。
「この部屋でいいよ。ケーキ食べたらすぐに出かけるから」
「あら皐月ちゃん、ケーキ食べる気満々だったのね。よかったわ」
「あんたもそんな、逃げるようなことしなくたっていいのに」
「だって遊ぶとこなくなったじゃん」
「そんなこと言うんじゃありません!」
いつもよりも強く母に叱られ、皐月は自分の失言に気がついた。なんてことを言ってしまったんだ……。
「ごめんね、皐月ちゃん。私たちがこの家に来ちゃったせいで」
「そんなつもりで言ったんじゃないんだけど……」
本気で申し訳なさそうな顔をしている頼子を見て、皐月の顔から血の気が引いてきた。
「この部屋で遊ぶか、よその家で遊べばいいでしょ。これまではたまたまお弟子さんがいなくて部屋が空いていただけなんだから。あんたがそんな風に考えるんだったら最初からあんたに部屋なんか与えなければ良かったわ」
「まあまあ、小百合もそんな言い方しちゃだめよ。狭い部屋に押し込められた皐月ちゃんが一番辛いんだから」
「ごめんなさい。俺、自分のことしか考えてなかった。頼子さんや祐希のことまで気が回らなかった」
小百合から頼子に視線を移した瞬間、涙があふれ出した。母に叱られたことのショック、頼子たちの境遇に思いが至らなかったことへの迂闊さ、頼子の優しさに触れたことへの安心感、そして自分の不幸にあらためて気付いた惨めさ……。
「皐月ちゃん、泣かなくてもいいのよ。私、ここに来て幸せなんだから。皐月ちゃんもいい子で良かった。皐月ちゃんと会うまでは上手くやっていけるか自信がなかったの」
「私の子だからいい子に決まってるわ」
声を出さないよう我慢をしていたが嗚咽が漏れてしまった。
「ケーキ食べた後出かけるんだったらパピヨンに連れて行ってあげなさいよ。コーヒーチケット使ってもいいし、何頼んでもツケておいてくれればいいから」
「……うん、わかった」
泣いてしまったことが恥ずかしくなり、皐月は残った素麺を食べ終え、逃げるように二階の自分の部屋に上がって行った。
「じゃあ私はケーキを買ってくるね。適当に選んでくるけどいい?」
「そうね、頼子に任せるわ。子どもたちには好きなものを選ばせましょう。私は片付けしてるわ」
「今日もお座敷があるんでしょ。家のことは私がやるよ」
「ありがとう。でもね、なんだか私がお迎えする準備をしたいの。息子のガールフレンドが家に来るだなんて人生初でわくわくしちゃって。祐希ちゃんは家に彼氏を呼んだりしないの?」
「人を呼べるような家じゃなかったし、それにあの子、影でこそこそしてるから。皐月ちゃんみたいな健全な年頃でそういうイベントに立ち会いたかったな」
「そっか……女の子の親って大変なのね。祐希ちゃんかわいいから心配事も多いんだろうね」
「あの子が東京に行きたがるのも絶対に彼氏の影響よ。嫌だわ、そんな男を追っかけて行くみたいなのって」
「私も頼子も男で失敗してるからね」
「祐希は私の子だから余計に心配なのよ。同じ失敗するんじゃないかって」
「そう言われると私も心配になってきた。皐月も別れた夫みたいにならないかって。今のところ違うタイプに育っていると思うけど、遺伝子の半分はあいつから引き継いでいるわけだし……」
「皐月ちゃん、いい子じゃない。あんなことで泣いちゃうなんてかわいいわ。胸がキュンってしちゃった」
「頼子のフォローがあったからよ。私と皐月の二人だったら親子喧嘩になってたわ」
二人で食べ終えた食器を片付け、台所へ運んだ。旅館だった建物なので、普通の家よりも台所が広い。小百合はこの広い厨房を持て余していたが、頼子と二人でこの部屋にいると妙に落ち着く。シンクが二つあるので、二人で手分けをして食器を洗い始めた。
「こういう時、二人だといいね。一人で考えてたら頭がおかしくなっちゃいそうになることがいろいろあるわ。祐希には心配ばかりさせられてたの。まあそれは今でも続いているんだけど」
小百合は頼子の事情をあまり深くまで聞いていない。自分の過去も頼子には詳しく話していない。一緒に暮らしていくうちに、自然に話せるようになった時に話せばいいと小百合は思っている。
「まあバツイチ同士、助け合っていきましょう。あっ、傷を舐め合ってか」
「小百合のネガティブなところって全然変わってないね。悪い意味で安心するわ」
「何よそれ、いい意味で安心じゃないの?」
小百合が手についた水を爪で弾いて頼子の顔にかけると、頼子も報復してきた。水かけの応酬が始まって二人で大笑いをしていると、皐月が階段を下りてきた。
「何やってんの、二人で。俺もう出かけるから」
「早いわね。そうならそうって教えてよ。これから部屋の片づけするんだから」
「いいよ、のんびりしていて。駅まで歩いて行ってくるし、しばらくその辺をぶらぶら歩いてから戻ってくるから」
「それでも早々のんびりとはしてられないわ。じゃあ帰るちょっと前にメッセージ送ってちょうだいね」
「うん、わかった。それでさ、俺、新しい服が欲しいな。今日着て行くいい服がなくてさ。千智のファッションってかっこいいんだよね。なんか俺じゃ釣り合わないっていうか……」
「じゃあイオンかどこかで買う?」
「たぶん売ってないんじゃないかな、そういうところじゃ。ネット通販で買ってもいい?」
「いいけど、買う時一度見せなさいよ」
「うん、わかった。じゃあ行ってくるね」
「いってらっしゃい」
皐月は今朝学校に着ていったシンプルだが意味不明なデザインの白Tシャツと、小学生らしい短めのダークグリーンの短パンの組み合わせで家を出て行った。
「さすがに私でもわかるわ。皐月、嬉しそう」
「でしょ。私も急いでケーキ買ってくるね。片付けはよろしくね、小百合」
「うん。いってらっしゃい」
小百合は皐月に続いて頼子も見送った。昼食の臭いは残っていないと思うが、一応換気をして冷房を強めにして皐月たちを迎えようと思った。今日の稽古は検番ではせずに、家で軽く済ませることにした。
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。