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称賛されし者の実相 (皐月物語 23)

 前島先生は席替えを無事終わらせた学級委員の月花博紀げっかひろき二橋絵梨花にはしえりかに労いの言葉をかけた。二人を席に着かせ、茶封筒から紙の束を取り出した。
「算数の小テストをします」
 前島先生は無駄なことをほとんど言わない。クラスのみんなも慣れたもので、文句を言う児童は誰もいない。6年のはじめの頃はテストと言うと不満を言う児童もいたが、授業のはじめに毎日テストをしているうちに嫌がる子はいなくなった。むしろ今ではみんな楽しみにしている。
 その秘密はテストの問題にある。全12問の120点満点。小1小2レベルを各1問、小3から小6レベルを各2問で100点。ここまでは普通のテストだが、残りの2問は中学受験レベルのチャレンジ問題が出される。算数が苦手な子でも0点はないし、算数が好きな子は100点以上を狙える。先生は100点を取れれば十分だと言う。
 藤城皐月ふじしろさつきはいつも100点以上を狙っている。だが、このテストは制限時間が5分しかない。勉強の得意な皐月でも時間切れになってしまうことが多く、なかなか100点を超えられない。時間をかければ解ける問題がほとんどなので悔しさも一入だ。
 クラスでは栗林真理くりばやしまりと二橋絵梨花だけがこの小テストでいつも120点を取っている。120点を取った生徒は先生がみんなの前で讃えるので、クラスの誰もが知ることとなる。皐月は110点までは取れることもあるが、120点に届いたことがない。いつかみんなの前で称賛される快感を味わってみたいと思っている。
(真理と二橋さんに囲まれちゃった……ヤバいな、この席)
 皐月はいつもよりも緊張しながらテストに向かった。1学期の時の席では100点を取れば隣の席の筒井美耶つついみやが尊敬の眼差しで皐月を見てくれた。その頃は120点が取れなくても十分気分が良かった。しかし今度の隣の席は絵梨花で前の席は真理だ。120点に囲まれて100点じゃ恥ずかしい。120点を取って二人と対等でいたい。
「では始めてください」
 クラスの全員が一斉に問題に取り掛かった。タイムアタック的要素があるためか、みんな真剣だ。最初の方の問題は低学年の復習なので解くスピードが速く、手の動きや鉛筆の音に迫力がある。授業参観でこの光景を見た父兄からは評判が良いらしい。
 問題の中にドーナツの面積を求める問題があった。円の面積の差を求めるだけことだが、分配法則を使って計算時間を短縮したい。3.14の計算は前島先生の方針で一覧表を教室に貼り出してあるので小数の掛け算しなくても済む。中学に入ると円周率はπを使うので小学校で面倒な小数の計算をするのは無意味だと先生は言う。真理なんか主な3.14の計算を暗記しているので一覧表を見て解くよりも速い。
 皐月は100点までの問題は瞬殺で終わらせた。いよいよここからが面白いところだ。今度こそ120点を取ってやるぞと意気込んで問題を見た。一つは一見面倒な小数の計算問題で、これは小数を分数に変換して計算したらすぐにできた。最後の1問はこんな問題だった。

「ある整数で145を割ると余りは5で、380を割ると余りは2となった。このような整数を全て求めよ」

 残り時間が1分を切っている。パーフェクトは目の前だが、かえってそのことが焦りを生む。
(え~っと、145と380を同じ数で割るってことか。どっちも余りが出るってことは両方から余りを引いた数なら同じ数で割り切れるってことだな。つまり……)
 少し時間がかかったが、皐月は方針が見えた。
(わかった。公約数だ。145-5=140、380-2=378。だから140と378の公約数を求めればいいんだ。最大公約数は……(計算中)……14だ!)
「はい、時間です」
 皐月は先生の言葉と同時に慌ててテスト用紙に14と書いた。
「採点します。隣の席の人と答案を交換してください」
 皐月は交換された絵梨花の答案用紙を見て愕然とした。最後の問題の回答欄に14と7が書かれていた。
(やっちまった……14の約数の7って、余りの5と2よりも大きいじゃん)
 前島先生が答えを読み上げ、生徒たちはマル付けを終えた。採点された答案用紙を元に戻すと、先生は問1から問10までを手短に解説した。問11と12は解説をせず、各自の Chromebook に解説文が送信され、意欲的な生徒はそれを見て勉強するという仕組みになっている。
 答案用紙は回収され、スキャナーにかけられ、再び生徒に戻される。この時、120点を取った生徒が讃えられる。今回も120点は絵梨花と真理の二人だった。皐月は110点だった。小テストを返されたところで授業の終わりを告げるチャイムがなった。席替えで授業の時間の大半がつぶれていた。

「あ~っ、小テストダメだった……。二橋さん、すごいね。120点」
 放課になった途端、皐月は早速絵梨花に話しかけた。
「ありがとう。藤城さんもあとちょっとだったね。公約数の問題、ほとんど正解だったよ」
「絵梨花ちゃんダメだよ、皐月のこと甘やかしちゃ。こういうところで合否を分けるんだから」
 皐月は真理と絵梨花の仲が良かったことを知らなかった。中学受験をする者同士でシンパシーを感じたのか、いつの間にか仲良くなっていた。真理はともかく、絵梨花は穏やかそうなので、話すきっかけさえあれば二人が仲良くなっても不思議ではない。
皐月こーげつは贅沢だ。110点も取れりゃいいじゃん」
秀真ほつまは何点だった?」
「100点」
 神谷秀真かみやしゅうまはオカルト好きなだけあって知的好奇心が強く、勉強もできる。
「岩原氏は?」
 鉄道ヲタクの岩原比呂志いわはらひろしは大人の読む鉄道雑誌や時刻表を読みこんでいるので賢い。
「私も100点だったけど、藤城氏は自慢がしたいのか?」
「全然っ! そんなことないって」
 皐月はうっかり秀真と比呂志にテストの点数を聞いたことを後悔した。勉強関係の話題は真理以外とはしないように気を付けていたのに、真理が目の前にいて隣に絵梨花がいるので感覚がおかしくなっていた。
 皐月は絵梨花の方を向いて座っているので、右隣に吉口千由紀よしぐちちゆきがいる。この流れで千由紀に点数を効かないと仲間外れにしているみたいになってしまう。千由紀に点数を聞くのは気が進まないが、思い切って聞いてみた。
「吉口さんはどうだった?」
「……90点」
 返しに困る点数だ。相手が筒井美耶だったらバ~カとからかえるが、千由紀とはまだ仲良くなっていないから、こんなこと言えない。
「どこ間違えたの?」
「速さの問題。速さの出し方の公式、忘れちゃった」
 皐月の得意な分野でホッとした。鉄道の時刻表やダイヤグラムを読むから趣味で速さの計算をしていたので慣れている。鉄ヲタの比呂志も速さは得意なはずだ。もっとも鉄道の場合は表定速度といってまた別物なのだが。
「そっか……じゃあ速さの公式の覚え方教えてあげる。教えるっていうよりも、たぶん本当は吉口さんも知っているはずなんだけど」
「まさか『はじき』とか言わないよね? ダメだよ、そんな覚え方」
 真理が怒ったような言い方をする。
「何だよ、その『はじき』っての。おれ知らない。そんなんじゃなくてさ、吉口さんって電車のスピードメーターって見たことある? タクシーでもいいけど」
「自動車のならあるけど……」
「そのメーターに『km/h』って書かれているの覚えてない?」
 皐月は千由紀のテスト用紙を借りて『km/h』と書いた。
「知ってると思うけど、この単位は時速を表してるんだ」
 『km/h』に時速を書き足して『時速=km/h』となった。
「km は距離でさ、h は英語の hour だから1時間って意味。それでこの斜めの棒『/』は分数の棒のこと。分数を横一行で書こうとするとこういう書き方になるんだ」
 千由紀も秀真も比呂志も、皐月より勉強のできる真理や絵梨花も話を聞いてくれている。
「分数って割り算だってこと習ったよね。だからこの『km/h』ってのは『時速=走った道のり(km)÷1時間』ってことになるんだ。要するにこのスピードメーターに書かれた単位の意味は……」
 ここで言葉を区切って、皐月はテスト用紙にシャーペンを走らせる。
「『速さ=距離÷時間』ってこと。スピードメーターには時速の求め方の公式が書いてあるってことになるね。これなら忘れないでしょ。メーター思い出せば公式も思い出せるし」
「ああ……なるほど。これなら私にも覚えられそう。あの斜めの棒が分数だってこと知らなかったな……。藤城君ありがとう。少し賢くなったかも」
「皐月、そんな風に覚えていたんだ。私、普通に丸暗記してたよ」
「私も」
 真理と絵梨花の言葉が皐月には心地良かった。自分より勉強のできる子たちに認めてもらえるのは嬉しいものだ。
 それにも増して嬉しかったのは千由紀の笑顔が見られたことだ。なんとなく近寄りがたかった千由紀も、こうしてこちらからアプローチしてみると普通の女の子だ。ちょっと怖そうに見える大きな一重瞼の眼も、柔らかな表情になると今流行りのアイドルと違った妖しい魅力がある。

 この放課の時間、真理と絵梨花は勉強をしていない。これは皐月が話しかけてしまったからに違いない。そう思うと自分は二人の足を引っ張っているんじゃないかと思えてきた。
「もしかしておれ、二人の勉強の邪魔しちゃった?」
 皐月の言葉に真理と絵梨花が顔を見合わせた。
「全然そんなことないよ。邪魔してるとか思わないでこれからも声をかけてくれると嬉しいな」
「そうそう。絵梨花ちゃんも私も別に好きで勉強しているわけじゃないから」
「えっ、そうだったの? でも真理はまだ学力が足りないって言ってたじゃん。だったら勉強した方がいいんじゃないの?」
 真理の表情が一瞬で険しくなった。
「教育パパみたいなこと言わないでよ。なんで皐月に勉強しろって言われなきゃいけないの?」
「だってお前、受験落ちるって……」
「あ~っ、もうウザいな~。バカ!」
 皐月は人前で真理がキレるのを初めて見た。二人でいる時はよく怒るけど、真理がこのクラスで怒っているところを見たことがない。真理のことをよくわかっていない秀真と比呂志が引いている。
「あのね、藤城さん。私たちね、家で十分勉強しているから学校にいる時くらいは息を抜きたいねって話したことがあるの」
「二人で話してるとこなんて見たことないな」
「この夏休み、塾の帰り道で絵梨花ちゃんと一緒になったことがあって話すようになったのっ!」
「そうなの。で、今まではたまたま周りのクラスメートと会話ができない巡り合わせだったから仕方なく勉強してたんだけど、この席では休み時間にリラックスできるなって思ってるのよ、少なくとも私は」
 絵梨花が試すような眼で真理を見て言った。
「私も絵梨花ちゃんと同じこと思ってた。どうせ学校で勉強したってあまり頭に入らないし。……だって環境悪いじゃん、学校って」
「でもね、栗林さんと近くの席になれたから今月は学校で勉強するのも悪くないかなって思ったの。もっとも栗林さんが私の勉強に付き合ってくれたらなんだけど」
「もう……真理でいいって言ってるのに。……そうね、お互いわからないところとか聞けたらいいかもね。でも私じゃ絵梨花ちゃんの質問には答えられそうにないかな」
「もっと気楽にやろうよ。一問一答の出しっことか。私だって栗林さんのわからない問題なんて答えられないから」
「二人ともバカクラスだもんね。塾は違うけど」
 真理と絵梨花が楽しそうに笑っている。秀真や比呂志、千由紀がポカ~ンとしている。このクラスでは飛び抜けて成績のいい二人がバカとか信じられないようだ。
「栗林さんと二橋さんって頭いいのにどうしてバカクラスなの?」
 真面目な秀真が怪訝な顔をして真理に聞く。
「別に頭なんか良くないよ。ただ勉強してるから勉強ができるだけだし。私より頭のいい子たちが私よりも勉強しているから、私みたいな中途半端なのはバカクラスになるのは当然なんだよね。絵梨花ちゃんは私とは違うけど」
 今度は真理が絵梨花を試すような眼で見ている。
「私は趣味の音楽を続けているからあまり勉強時間が取れてないんで、上のクラスはさすがに無理かな。でも行きたい学校はそんなにレベルが高くないから、まあいいかって。一応今のまま頑張れば合格できそうだし」
「二橋さん、もう余裕で合格できるんだ。スゲェ~」
 皐月にはすぐ軽薄に持ち上げる悪い癖がある。真理が顔をしかめている。
「全然余裕じゃないよ。そろそろ音楽休んで勉強に専念しようと思ってるし」
 クラスのみんなから頭がいいと思われている絵梨花と真理がこんな風に勉強のことで弱気になっているのを秀真や比呂志、千由紀は初めて知った。
 真理と絵梨花は小テストのたびに前島先生から称賛されている。そのせいか、二人はどことなくクラス中では近寄りがたい存在に祭り上げられていた。席の近くになった子たちは誰も気軽に話しかけてこないので、二人は休み時間に勉強をするようになった。勉強している時の真剣な顔つきがよけいに近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 千由紀がクラスの雰囲気の変化に気がついた。自分たちの方を気にしている子たちが多いような気がする。それはきっと二橋絵梨花と栗林真理が楽しそうに話しているからだろう。この二人のこんな姿は誰も見たことがなかったからだ。そしてそこに自分も加わっているから……。千由紀は5年生の時は忌むべき者を見るような眼で見られていたので、憧憬混じりの好奇の視線がこそばゆい。
 千由紀はこのクラスになって男子とこんなに話したのは初めてだった。まだ絵梨花と真理とは直接話をしていないけれど、千由紀はこの席になったことで藤城皐月という男子を通して二人と話ができそうだと期待した。女子とよく喋る皐月ともやっと話をすることができて嬉しかった。


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