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建築家のハビトゥス

■ゼミで重要な話が出たので、断片的にでもメモに残しておこうと思う。そして、松村淳「建築家の解体」を読んだ後の感想と少し繋がる話でもあったので、そのことについても触れてみようと思う。

■昨日のゼミは4年生の卒業設計の中間発表であった。
■4年生の発表が終わり、質疑応答の時間に入る。

■「断面を組み合わせる、というところまでは理解できましたがどのようなルールで組み合わせていますか。」
■「部分のエスキスの時点での場合分けはどのようなルールで場合分けしているんでしょうか。やろうと思えば無限に出てきそうな気がします」

■だいたいこのようなものだったと思うが、学生同士でいくつかの質問を4年生にした。結構スムーズに回答できていてすげえなあと思っていた。その時に、こんな話があった。

■「よく講評会とかで根拠はなんですか、というようなことを聞いて学生が困っている場面をみることがあるよね。でも、根拠なんてないんだよ。そう思わない?アレグザンダーが、論理的に設計をしようとしたんだけど、結局最後は設計者が決めなければいけない。ということで、失敗に終わったんだよね。だから、どうしてこんな形になったのかとかそういうことに興味がない。過去のことじゃなくて未来のことを話そうよ。でも、そこに設計者は責任を取らないといけないよ?」

■ほんとうにそう思います。

■そう思わない?と聞かれたときに、「僕は先生から建築を学んでるので全く同じことを考えていますよ」、と言いかけたが、変な空気になるに決まっているので飲み会の時にでも取っておこうと思う。

■松村淳「建築家の解体」を読んだ。

■読みながら、とても違和感がある内容だった。

■「第二章 建築家をつくる大学教育」という章で、「大学というのは建築家のハビトゥスを教えているのだ」というような文章がある。ハビトゥスとは、慣習や趣向を意味する単語で社会学ではよくでてくるのだそう。建築の議論では見たことも聞いたこともない単語だから最初はあまりピンとこないかったが、読んでいるうちになんとなく言いたいことはわかってくるように書かれている。

■そして、そこから、建築家のハビトゥスというのはだいたいこんなものだ、というような話が様々な角度で書かれている。例えば、1つの線を引くにも細心の注意を払え、みたいなこととかそんなことが書かれていたと記憶している。安藤忠雄は独学で学んだといわれているが、東大の授業に潜り込んだり、カフェで友人と語り合うことで建築家のハビトゥスを体得していった。みたいな。多少引っかかる部分もあるが面白く読み進められる。

■そして、最終章にどんでん返しを行う。

■このような建築家のハビトゥスから外れたところにある建築家像がでてきた。というような話が、「最終章 建築家の解体と街場の建築家」で書かれている。

■それを「建築家の解体」と呼んでいるわけだが、かなりの違和感がある。

■なぜかわかります?

■僕らが大学で教わる「建築家のハビトゥス」は、「なんでもいいんだよ」ということに尽きると僕は考えている。だから、外れたところにある建築家像なんて、それもまた一興。というものに過ぎないわけだ。

■「なんでもいいんだよ」ということを何年もかけて教えてもらったと感じていたわけだが、それに似たことを昨日のゼミで話されて、安心したともいえる。

■なんでもいいんだよ、建築家のハビトゥスとかいうものが仮に存在するのであれば、そういうことだろう。そしてそこに責任を持つことが重要なんだと思う。

■それに尽きるのではないでしょうか。

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