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暗く孤独な道を行け

【週報】2017.11.27-12.03

ごあいさつ

 こんにちは、うさぎ小天狗です。
 相変わらず忙しい日々を過ごしています。仕事と家事で一週間が潰れてしまい、新しいことをする余裕がありません。とりあえず今年度いっぱいでこの忙しいのは終わるはずなんですが、それまでのあと三ヶ月ぐらいはほとんど身動き取れないようすです。
『第二回めきめ杯』https://note.mu/z00100/n/n8d45776d9d1e)も、参加したかったんですが、アイディアを完成に持ってくまでの余裕はなさそうだなあ……。

ノワールの暗い道

 最近のもっぱらの息抜きは読書と映画です。しかも、暗く沈み込んでいくような重たい内容、人の罪とか悪行とかがどろどろと淀む犯罪小説。いわゆる「ノワール」小説です。
 きっかけは先々週、下品ラビットが映画『キラー・インサイド・ミー』についての記事を書くために、原作である『おれの中の殺し屋』を読んでいたことが始まりです。

 彼が『おれの中の殺し屋』を読んでいる間、ぼくは同じジム・トンプソンの短編集『この世界、そして花火』を読んでいました。これがすごく良かった……特に表題作は、最後にちょっとウルッときてしまうくらい、心にグッと来る話だったんです。

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 妻と子を捨てて実家に帰った男。彼は「相手が自分を必要とするようにしむけ、最も必要とするときに捨てる」ことを繰り返していた悪党である。実家で彼を待っていたのは、彼がたった一人捨てずにいる人、母親と双子の妹。妹は金持ちの男と結婚しては離婚し、慰謝料で暮らす悪党だった。
どんなに悪が行われていようとも、世界は『まともなやつら』のためにある」と思い、「善人だろうが悪人だろうが、世界からはずれた『まともでないやつら』にはさびしい人生しかない」と語る兄と妹は、はっきりと語られないけど(精神的にも、もしかしたら肉体的にも)近親相姦関係にあり、悪を行いながらひっそりと暮らしていた。だけど、そのささやかな安寧も、彼らじしんの行いによって崩壊し、破滅していくことになる……。

 他人を騙し、平然と新しい他人を騙そうとする男。他人を無慈悲に殺し、平然と次の相手も殺そうとしている女。二人は自分勝手な悪党であり、同情の余地はありません
 だのに、彼らが自分たちを包む世界に対して感じる「疎外感」、そしてその疎外感に怯え、寄り添ってかそけきぬくもりを求めようとする「孤独感」、これには共感せずにはいられません。
 もちろん、彼らそれぞれの犯罪の詳細が語られず、匂わされるにとどめられているのに対し、彼ら二人の寄り添う姿、相手を思う心の方はしっかりと描かれているから、という理由もあるでしょう。しかし、しっかり描かれる彼らの疎外感、孤独感が、ぼくたちがそれぞれの人生に感じる疎外感、孤独感と同じものだと思わされるところに、共感の理由があるのでしょう。

鳥たちは自分勝手に歌う

 この世は犯罪を犯す人間ばかりではありません。でも、疎外感、孤独感を感じない人間はいません
 なぜなら、人は社会的に成長する過程で「自分」と「他人」を分けて意識するようになり、自分は孤独であると知ると同時に、自分という個人には限界があり、どこにでも同時に存在することが出来ない以上、必ずある特定の集団から疎外される存在であると知ることになるからです。
 疎外されたことを通じて犯罪に走る人間、その人間の犯罪を犯したゆえの孤独感を描く物語に、犯罪者でも悪党でもない(はず)のぼくたちが共感するのは、じつはこの「人間存在の根本的な孤独感」によるものです。
 そして、この「根本的な孤独感」を描くことこそ、「ノワール」というジャンルの特質なのです。

 「ノワール」とは何か? と問われたら、ぼくは三つの文章を回答として提示します。

「凶悪な犯罪や烈しい暴力を正面から描き、その背後にある、ねじれた真理と愛憎のぶつかる人間関係の虚実、さらにその源泉となる孤独な魂や暗い情念を通じて、人間存在の深部に迫る物語」
(吉野仁/ジム・トンプソン『ポップ1280』解説より)
「人間の魂の暗部を描く――これはノワールの芯の芯である」
(霜月蒼/「ノワール作家ガイド」より)

 この二つは、山田風太郎『棺の中の悦楽 山田風太郎ミステリー傑作選4・凄愴編』(光文社文庫)の巻末にある、川出正樹氏の解説からの孫引きです。さらに、川出氏の山田風太郎ノワールを評した言葉、

「既存の権威/価値観に対する徹底した不信感」と、「人生は仮のものであるという諦念」とが、常に低週として存在する
(川出正樹「夜よりほかに聴くものなし、されど、夜は魂ほどに暗くない」より)

 も引用すれば、ノワールのなんたるかをつかむことができるでしょう。同時に、ノワールとは必ずしも犯罪を描くものではないということもご理解いただけると思います。

 このことは、先週見た映画『彼女がその名を知らない鳥たち』でも強く感じたことです。この映画、一般には純愛物語、あるいはミステリとして受け取られているかもしれませんが、前述の基準に当てはまる、純度の高い「ノワール」でもあるとわかります。

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 蒼井優演じる主人公の身勝手さは、自分だけを可愛がりたいと思う彼女の孤独によるものでしょう。彼女は男たちの言いなりになり、彼らを信じて疑わないのですが、それは彼女じしんが他人に心を開いていない証拠です。自分が隠し仰せているように、相手も自分に隠していることがあると思ってもみないのです。このことから彼女が孤独な人間だとわかります。
 だからこそ、彼女は自分に都合のいい現実だけを見ようとするし、都合の悪い現実は排除しようとする。しかし、都合のいいわるいは主観的なもので、現実がどうであるかは関係ありません。結果、現実を見ようとしない彼女は自ら進んで陥穽に踏み込むことになります。
 彼女の破滅は彼女の孤独によるもので、その身勝手さによる孤独に同情はできませんが、共感はできます。人は誰しも孤独なのですから、彼女のように辛い現実から目をそらすことはあります。でも、それだけでは大切なものを見逃すことになります。
 それはなにか? 人は孤独であるということ、自分一人で孤独を癒やすことは出来ないということ、世界は孤独を救済しないということ、そして孤独を癒やしてくれることもある他人は、実は互いに孤独である前提で動いているということです。
 人は自分勝手だからこそ裏切るし、自分勝手だからこそ癒やしてくれる。人が自分勝手であることは変わらず、自分勝手な者の中で、自分の理想像と現実がズレれば裏切られたと思い、ぴたりとハマれば癒されるだけ。あとはそのすり合わせを意識するか、意識して動かせるかどうか、その第一歩である主体的行動ができるかどうか……この苦闘は人生の中で誰もが行うことであり、だからこそ『彼女がその名を知らない鳥たち』のように、おおっぴらに犯罪を描かなくても「ノワール」は成立するのです(犯罪も描かれますけどね)。

この世を外から眺めてみれば

 しかし、こういった苦闘は、苦闘であるがゆえに辛い。週休一日で働いて、その休日も炊事洗濯掃除に追われるうさぎちゃんが、なぜこんな心を追い詰めるような小説を読んだりや映画を見たりしているのか。もっとホットでハッピーなコンテンツに耽溺すればいいのに……そう思われる方もいると思います。
 それは、こういう事情なのです。

[前略]ラヴクラフトの恐怖は孤独で不安な人のための恐怖である。なにか不安、なにか気に入らない……そういう心情でいるとき、心は決して喜びと希望に満ちた物語を欲求しない。かえってラヴクラフトの悲壮ななにかに共鳴するのである。結果として導き出されるものは、絶望や終末であるが、それも曖昧な孤独や不安よりは人の心を救うなにかがある。というのは「より不幸なものを見て救われる」とか「死や破滅の静穏で苦しまずにラクになれる」という意味ではない。状況を分析し探求する知性の働きによって、自己と恐怖の源の両方が客観視させられるからである。
(伏見健二『ロード・トゥ・セレファイス』著者解題より)(強調引用者)

 引用もとは、和製クトゥルー小説の傑作であり、「青春小説あるいは教養小説[ビルドゥングス・ロマン]」としてのクトゥルー神話の大傑作です。恐怖と苦痛と絶対的不理解の横溢するクトゥルー神話の暗闇に、人が成長するとはどういうことか、他者と向き合い、理解し、共に生きるとはどういうことかという「光」を探求しようとする物語は、その真摯さで他の追随を許しません。
 同書の中では、物語の詳細は省きますが、主人公たちの物理的な現実を思春期の少年少女の肉体の暗喩、クトゥルー神話的な「ほんとうは怖い宇宙の姿」を一見理解不能な他者の象徴、そしてそれらをつなぐ「夢」の世界を自己と他者をつなぐ知恵(経験や知識や共感や理解)の源泉として描いています。詳しい説明は巻末の語句解説に任せ、物語の中ではイメージだけを連ねて、読者の類推を必要とする、つまり「読んだことから考えろ」式の読書を想定しているのも、教養小説らしい作りと言えましょう。

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 閑話休題。
 前掲の文章を引用したのは、ここに「ノワール」の効果にも通じる、いや、文学とかいわれるものすべてが持つ、読者個人に有用な効果の説明があると考えるからです。
たとえどんなに過酷であっても、現実を見つめること
 これ以上に有用な、人生への、個人への、絶望への、現実へ、自己への対処はないと思われます。
 逃避が不要というのではありません。逃避は脅威に押しつぶて息絶えることを回避することですから、これなしに生存は成り立たない。
 しかし、逃避だけでは、受動的な事態の変化を期待するだけです。いや、逃避だって、実は闇雲に行っていては行き詰まる。いかにストレスの少ない方法で危機を離れるか、いかにその先の安寧につなげる逃避先を選ぶかは、すでにこれは逃避ではなく、能動的な行動です。
 そして、そのためには現実を見つめる必要がある。自分を押しつぶそうとする脅威そのものを見つめる必要がある。そして、そんな脅威の前に身を晒してしまった自分を客観的に見つめる必要がある、というわけです。
 もちろん、その客観視は、暗く沈み込んでいくような重たい内容となるでしょう。自分の見たくない面を見ることが前提ですし、自分の知らない内面に踏み込み掘り起こさなければならなくなる。ストレスも相当なものでしょう。
 そこで物語の登場です。物語の中に自分と似た要素のある登場人物を見つけ、感情移入する、共感することで、登場人物を鏡として、自分を客観視することになるのです。物語の登場人物は自分そのものではありませんから、彼らが直面するストレスを、自分じしんが直面するストレスよりも緩和されたものとして、ちょうどよく受け取ることができるのです。
 そして、物語と向き合う時、人は常に孤独になるものです。煩わしいものから離れる一種の逃避でありながら、心を開き、自分を見つめるきっかけにもなる。
 読書は高く孤独な道仏陀の鏡に至る道なのです。

高く孤独な掃除をせよ

 上記を踏まえれば、「ノワール」とは、己の中にも眠る、わがまま勝手で孤独な人間を見つめ、そういう自分が、同じくわがまま勝手で孤独な他人達の中でどう生きるかを考えることにほかなりません。
 そういう意味では息抜きといえど息抜きではないよ……などと言いながら、やっぱり自分は単純な逃避をしてるのかな、と思うのは、帰宅して自分の部屋に入ったとき。本が山積み、洗濯物が取り込んだときのままほったらかし。一緒に住んでる下品ラビットは手伝ってくれないし、そもそも彼も部屋を片付けるのは苦手な様子。
 自分でどうにかするしかないと、そういう現実を見つめなければならないようです……年末に連休が手に入るし、がっつり掃除をしないとなあ。 

(うさぎ小天狗)


イラスト
『ダ鳥獣戯画』(http://www.chojugiga.com/

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