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コロナ渦不染日記 #11

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五月九日(土)

 ○午前中は花曇り。日差しは弱く、風は涼しい。ついホットコーヒーを飲み過ぎてしまう。

 ○午後は三田村信行『おとうさんがいっぱい』を読む。一九七〇年代の作品を集めたもので、ディテールこそ古くさく感じられるところもあるが、普遍的な「子供の恐怖」を扱って、児童文学の傑作のひとつである。

 この場合の「子供の恐怖」とは、「自我の確立にともなって、これまで盤石と信じていた現状がゆらぎ、ゆがみ、くずれていく」ことによる恐怖を指す。子供にとって、その自我のよりどころは、ある時期までは「親」や「家」である。しかし、成長するにしたがって、子供はそのよりどころを自分じしんに移していく。それは解放感をもたらすとともに、不安を呼び起こしもする。後者を強く描くとき、「子供の恐怖」が現れる。
 表題作で「おとうさん」が増えてしまうのは、主人公の少年にとって「おとうさん」というものがアイデンティティの根幹にあったからに他ならない。他の収録作では、「夢と現実の境目」や「家」や「いつもの帰り道」や「家族」がゆらぎ、ゆがみ、くずれていく。だが、最後の収録作である「かべは知っていた」では、そうした恐怖とともに、変化の快感、いずれ訪れるであろう独立の解放感も描く。これらは「子供の恐怖」と表裏一体であり、どちらかだけを手に入れることはできないのである。

 ○夕食は豚キムチ。ぼくの作り方は以下の通り。

材料:
 豚コマ、キムチ、にんにく(ふたかけほど)、ごま油、しょうゆ、塩、こしょう

下ごしらえ:
 キムチは一口大になるように切っておく。特に白菜はものによってかなり大きいので、それだけでもちゃんと切っておくと均等な食べごたえになる。
 ニンニクは皮をむいたら、先端と底を切り落としたあとに、包丁の側面で押しつぶしておく。

作り方:

 熱したフライパンにごま油を適量しいて、火を弱火にしてから、つぶしたニンニクをふたかけ入れる。
 ニンニクのふちがこんがり茶色になってきたら、中火にして、豚コマを入れて炒める。塩こしょうで下味を調える。
 豚コマが白く炒まってきたら、一口大に刻んだキムチを投入。炒めあわせる。
 キムチと豚コマがいい感じに混ざってきたら、強火にして、小さじ一杯ていどのしょうゆをフライパンのふちに回し入れる。しょうゆの焦げるにおいがしたらすぐ火を中火に戻してざっくり混ぜあわせて火をとめる。
 完成。

 これは、人間の友人の佐藤くんの母上から教わったレシピをアレンジしたものである。佐藤くんは高校時代からの友人で、予備校時代によく遊んでいた。たまに家に上げてもらったときに、母上がいると、ご飯食べていきなさいよといって豚キムチをごちそうになった。そこで、ぼくが高校時代から料理をしていることを告げると、上記のレシピの原型を教えてくれたのである。
 佐藤くんの母上は、いつもにこにこしているが、ときどき真剣な目で忠告をしてくれる人だった。こんなことを言われた。
「君は、うさぎだからといって、いつも背中を丸めているが、二足歩行で生きようと思うなら、それではいけない。胸をはりなさい」
 そのときのぼくは、うさぎである自分に自信がなかったので、図星をつかれて恐縮し、はあ、まあ、そうしてみます、などと生返事をしたのであったが、以後、母上のことばが胸に残り、折に触れて、みっともなくはなかろうかとおっかなびっくりしながらも、胸をそらして歩くようにした。
 佐藤くんの母上は五年ほど前に亡くなった。豚キムチを作るたびに、母上の笑顔とことばを思い出す。うまい。

 ○夕食後、いつものオンライン飲みメンバーで、『二百三高地』を見る。八十年代の名優が勢ぞろいする超大作だった。

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五月十日(日)

 ○晴れ、ときどき曇り。風が強い。空気はなまあたたかく、息苦しい感じ。昼寝をする。

 ○電話ボックスで電話をかけている人間の老婆がいた。ぎこちない手つきで赤いテレホンカードを差しこんでいた。マスクは外していたが、電話ボックスのなかでは「密」は避けられるであろう。

 ○「検察庁法改正案に抗議します 」というタグがTwitterでかまびすしい。
 ぼくはうさぎだが、人間とともにこの日本で働き、税金を納めている。だのに、政府支給の布マスクも、特別措置給付金の申請用紙も不達である。しかし、新人ながら在宅勤務とはいえ働けていて、今月末も収入の約束されているだけ、ぼくはまだましであろう。この災禍の渦中で、明日の生活もしれず、一ヶ月後にどうなっているか戦々恐々としている国民が多くいる。そのなかで、検察庁法の改正を審議する、その優先性に疑問を抱く。検察庁法の改正内容に関しても疑問はあるが、まずその優先性をこそ、批判されるべきであろう。
 だが、このタグがTwitterのタグ発言数カウントの上位に入るや、その集計数に一喜一憂したり、そのことで民意が示されたとか、民主主義を示せるなどという意見が出た。この意見に、ぼくは首肯できない。
 民主主義とは多数決のみで決まるものではない。民意とは勢いのことだけではない。まして、ある時点からある時点までの集計数に一喜一憂することは、数の上での優位性を示すことと真反対になるのではないか。
 間違っていると思われることを批判するのは必要なことである。個人の声をあげることは妨げられてはならないことである。だが、意見を数だけに囚われること、勢いだけでものごとをすすめてしまうこともまた、恐れなければならない。

 ○夜。行きつけの居酒屋で、相棒の下品ラビット、イナバさんと飲む。この災禍の影響でか、営業こそしているものの、以前であればB5コピー紙一枚で用意されていた日替わりメニューがなくなっている。季節のメニューも大幅に減じている。

 ○本日の、都内の新規感染者数は二十二名。減少傾向にあるのは、緊急事態宣言と外出自粛要請が受けいれられた成果か。



→「#12 この暗黒、そして花火」



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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