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コロナ渦不染日記 #99

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二月六日(土)

 ○夜、ししジニーさん、ゆんぺすさんと、映画『幕末太陽傳』を見る。一九五七年の映画であるが、今見ても面白い。ぼくたちはこれで四度めか五度めの視聴になるが、なん度見ても面白いのである。

 落語の「居残り佐平治」を中心に、落語の名作をオムニバス的に配して、幕末の品川遊郭を舞台に展開する群像喜劇にしあげた……というのがおおまかなところであるが、制作当時の品川駅周辺が記録されたオープニングからして、作中の時間が「いずれ失われていくことが確定している日々」であることを表していて、しかも、フランキー堺演じる主人公の宿命を思うと、喜劇の裏に漠然と暗い死の影が見えてくる。だから、人前ではニヤニヤと笑っている主人公が、ひとりきりになったとき、ふっと真顔になるところのなんともいえないさびしさ、無銭飲食の代償に働いた遊郭を、去ることになったた夜、活気に満ちた遊郭を暗い中庭に立ってぼうっと眺める背中のかなしさが、ひどく胸に迫るのも、この物語のはずせない魅力である。
 ゆんぺすさんが、この構造をして、「学園もの」と言い、ししジニーさんが「日常もののあじわい」と言ったのには膝を打った。他愛ない日常は、しかしそれが流れる時間のなかで静かに失われていくからこそ輝くものであるし、学園という場では、そうしたサイクルの果てに、かならず「死」とおなじく「別世界への不可逆の移動」である「卒業」が起こるのである。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、二二八〇人(前週比-一〇五九人)。
 そのうち、東京は、六三九人(前週比-一三〇人)。

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二月七日(日)

 ○朝、相棒の下品ラビットが作ったパスタを食べ、コーヒーを飲みながら、鹿島茂『鹿島茂が語る山田風太郎 私のこだわり人物伝』を読む。

 二〇〇五年に、NHK教育で放送された番組『私のこだわり人物伝』は、一月にひとり、著名人を対象に、四回にわけて語るという内容であったが、それをまとめたうえで、著作を付したのがこのシリーズである。この本には、山田風太郎明治ものの傑作「東京南町奉行」と、山田風太郎幕末ものの大傑作「伝馬町から今晩は」が収録されている。
 仏文学者の鹿島茂氏が、日本の、しかも氏にとって「現代の」作家であった山田風太郎を語るのは、山田風太郎という作家が、西洋の小説文化、もっというと西洋小説から日本に輸入された「小説技法」の正当後継者であったからに他ならない。鹿島氏は、山田風太郎を「マニエリスムの作家」という。マニエリスムとは技法のことである。技法だけがあって中身がない(中身が変わらない)状態を「マンネリズム」という、その語源となったものであるが、そちらは山田風太郎には無縁である。なぜならば、山田風太郎こそは、技法を用いることに強く意識的で、小説という技法によって歴史的事実を再構成する限り、「中身がない」などということがないからである。
 これは、山田風太郎小説技巧の極地である「四分割幸徳秋水伝」を見ればあきらかである。これは、「幸徳秋水」という歴史的に実在した人物の「伝(記)」を、文字どおり「四分割」して語ることで、誰も見たことのない、歴史的事実と異なる、しかし歴史的に実在した人物の「伝(奇)」にしたてあげるものである。つまり、本書において、鹿島氏が語るのは、「伝奇小説家・山田風太郎」の技術論にほかならない。

[前略]二つの歴史的事実の間の空白にpossibleな設定をすることからはじめて、impossibleなロマネスク世界を現出させ、しかも、最終的には、そのロマネスク世界をprobableなものと思わせてしまうこと、しかも、それを言葉だけの力でやってのけること、これこそが小説の本道であり、小説の本来の使命だからです。少なくとも、ロマンとかノヴェルという言葉が誕生した起源においてはそうだったのです。
 時代小説を、歴史を土台として出発し、歴史よりもリアルな非現実を作り出すものと定義するなら、山田風太郎の時代小説は一見そうは見えないにもかかわらず、時代小説の本道を行く堂々たるフィクション、最も正統的な「小説」ということができるのです。

――鹿島茂『鹿島茂が語る山田風太郎』より。
太字強調は引用者)

 言葉という道具によって、「最も正統的な『小説』」――ぼくは、これをこそ「伝奇」と呼びたい――を作り出す。これこそ、山田風太郎という作家が、最強の作家であることの証左である。

 ○そして、その作家が、なぜそうした作家になったのかを、鹿島氏は『戦中派不染日記』――ぼくがこの日記を書くにあたり、タイトルに引用するほどに、こころがまえとして目標にしている書である――に見いだす。以下、その箇所を、長くなるが引用する。なぜならば、鹿島氏が引用した部分こそ、ぼくがこの日記のなかで、激しく首肯した部分のひとつだからである。

 余は文芸言論の力を必要以上に蔑視しありたり。しょせんは曳かれ者の小唄に過ぎずと思いたり。平和有閑のときは知らず、死か生かいずれを選ぶかとの切迫時に、かくのごときものほとんど何らの効なしと思いいたり。余は文学を以て男児のなすべき雄偉の事業なりとは考えざりき。この点に於[おい]ては二葉亭とひとし。しかるにかかわらず、余がつねにこれを眼に注ぎあるは、余が信ずる男児有為の事業に、余自身力不足なりと知るゆえのみ。もとより文学上、余輩の及ぶべからざる偉人無数なるは熟知す。ただ文学にもピンからキリまであり、余はまたこの点に於ても力不足を知るゆえに、このキリ近きところを眺め、ただおのれの情を愉しませありしに過ぎざるのみ。
 然れども今思うに、言論の力はさほど軽蔑すべきものにあらず。見ずや同一の事件を報道せるものなりといえども、新聞の論調により、吾人の心に明暗二つの情感現わるるを。
 わが軍全滅を記して沈痛悲壮のものあり、吾らまた暗澹絶望の念に沈淪せざるを得ず。また同一を録してその将兵の勇戦を賛美し、愛国の情歌うがごとく、吾らをして祖国のために死するを恐れざらしむるものあり。いずれが正しきかは知らず、新聞のごとき杜撰なる論にして、読者の心胸に与うる影響かくの如し
 考うれば、実に死は恐るべきものなり。生は讃うべきものなり。また考うれば、生それほど魅力あるものにあらず、而[しか]も自ら死を欲せざるを知る。この深刻なる本能を自覚するとき、死はさらに恐るべきものとなる。
 しかも、単林子を見ずや、一編の筆力、げにその恐るべき死に人を欣然恍惚として就かしめんとす!
 その恍惚が夢か幻影か、そは問題にあらず、真実を凝視しありと自覚する人間の心、果たして夢ならざるや幻ならざるや神のみぞ知る。酔わざるときの情感、酔いたるときの理性といくばくの軒軽ありや。この魔睡美酒の役果たすのみにても、言論文章の力は実に偉大なるものといわざるべからず

――山田風太郎『戦中派不染日記』より。
太字強調は引用者)

 後半に引用される「単林子」とは、江戸中期の実録心中文学『曽根崎心中』の作者、近松門左衛門のことである。彼の『曽根崎心中』と『心中天網島』を中心に、「心中もの」が流行した結果、実際に心中ブームが起きて、風紀紊乱ありとして幕府が心中ものを発禁にするといったことまで起きたという歴史的事実を知れば、若き山田風太郎が考えた「小説の力」が、どれだけ偉大なものであるかの傍証となるだろう。
 そして、「まっとうな男がすべきことが、自分にできるとは思えない」からこそ、「物語の力に曳かれる」とする山田風太郎の視点は、まさしく、「世の『正しさ』」に与することのできない「曳かれ者=敗れたもの」のそれであり、つまりは「個人」のこころである。「個人」とはつねにひとりぼっちであり、おおくの「他者」のなかで生きざるを得ず、したがって孤独が癒えることはないのであるが、だからといって「さして魅力的ではない」生だとしても、それを捨てて自分から死んでしまうなどということはできかねるのであれば、どうにかこうにか「個人」であらねばならぬ……そういう知性生物に普遍の覚悟が必要になる。
 そこに、物語の力が作用する。この日記でなん度も引用する、夏目漱石の言葉を用いれば、「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容[くつろげ]て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降[くだ]る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑[のどか]にし、人の心を豊かにするが故に尊[たっと]い」のである。もちろん、それは、物理的現実という、我々の肉体同様に否定せざる土台があったうえで、はじめて生まれるものでしかないが、たといそれが「真実をみつめているのだと自覚しているだけの人間のこころ」が生み出した「夢か幻」だとしても、それが知性生物のこころを救うのであれば、たいへんに素晴らしいものであるのだ。

 ○昼食をとってから、久々に映画館に足を運び、映画『劇場版 美少女戦士セーラームーンEternal』前編を見る。

 武内直子『美少女戦士セーラームーン』シリーズのリブート『Crystal』の続編であり、原作の第四部を映像化したものである……ということを知ったのは観劇後で、見る前は完全新作だと思っていた。見てみると、面白くはあるものの、「『女の子のしあわせな未来像』を『結婚』のなかに見ている」というビジョンが、原作どおりなのであろうが、いまとなってはすこしく古くさい印象である。また、主人公たちが高校生になり、将来について考えるようになったことから、「将来の不安を敵につけ込まれるも、〈戦士〉としての運命を再確認し、『戦う今』に集中することで不安を払拭する」というシークエンスがなん度もくり返される後半の展開は、一本調子なわりに鈍重に感じられるところがある。テレビアニメシリーズのなかで、一回三十分のエピソードとして一件ずつ処理していくならば、もう少し受け入れやすかったかもしれないが、そこをただつなげているだけなのは、劇場版としては工夫にとぼしい印象がある。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、一六三〇人(前週比-一〇四三人)。
 そのうち、東京は、四二九人(前週比-二〇四人)。
 新規感染者数が、前週に比べて半分になっているということは、これまでは、新規感染者と濃厚接触した可能性のある人物を追跡調査すれば、新規感染者とおなじくらいの人数が、新規感染者として検出できたということであろう。げにおそろしきは、新型コロナウィルスの感染力であり、その感染力を持つ無症状の感染者が、追跡調査をされずに移動しているという状態である。そして、それは、もしかしたらぼくのことかもしれない。



→「#100 気配りのうれしい店」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣ギ画」(https://chojugiga.com/


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