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コロナ渦不染日記 #109

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三月十三日(土)

 ○気圧が下がっているせいか、朝から頭が重い。さいわい、特に出かける予定のない日である。一日中、巣穴でごろごろする日とした。

 ○布団のなかでごろごろしながら、人気のテレビドラマ『ザ・ボーイズ』を二話まで見る。

 いわゆる「アメコミヒーロー」を相対化する視点は、古くはアラン・ムーア『ウォッチメン』から持たされているもので、格別目新しいものではないが、その視点によってストーリーを語るにあたり、細部を徹底しているところに、このシリーズの妙味がある。もっというと、作中、さまざまな不祥事を「やらかす」超人ヒーローたちの、人間としての弱さ、醜さ、身勝手さに、すさまじいリアリティがあるのである。ほとんどノワール的といっていいほど、どいつもこいつも人間的な弱さを核に持っている。だから、彼らのすることなすこといちいちが、じしんの首を絞めることにしかならないのであるが、しかし、霜月蒼氏の言を引くまでもなく、そういう姿を描いて、人間の本質に迫るパースペクティブこそ、ノワールであるといえよう。
 そして、それは、物語中で敵役を務める「スーパーヒーロー」だけでなく、彼らと対立する一般人「ザ・ボーイズ」においても真である。なぜならば、彼らこそ、この物語中の「ヒーロー」であるからである。ここで、彼らだけを善人にしてしまっては、いわゆる「アメコミヒーロー」を弱い人間とした意味がない。つまり、このシリーズは、「この世にヒーローはいない」「どいつもこいつも相争うのは『ザ・ボーイズ(くそがきども)』でしかない」と言っているのである。この徹底ぶりに、ぼくは信頼を寄せるものである。

 ○夜、定期的に開催されているオンライン飲み会に参加する。古今東西の酒を、好んでやまない方々が集う飲み会なので、毎回酒じまんになるのだが、最近クラフトジンにハマっていることもあり、ぼくは「養命酒酒造」が販売している「香の雫」を紹介した。

 日本の蔵が作っているだけあって、ボタニカル(ジン独特の風味のもととなる植物などのこと)も和風なセレクトで、その名のとおり香りがはっきりしていて、味もしっかりしたものである。今回は、ウィルキンソンのトニックを混ぜて、ジントニックを作って飲んだのであるが、トニックのほどよい甘さとフレーバーが、このジンには特にあっているようだった。

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 参加者の皆さんと語らううちに、ついつい盃を重ねてしまい、気がつけば残りあと一センチほどというところまで飲んでしまった。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、一三一九人(前週比+二六八人)。
 そのうち、東京は、三三〇人(前週比+三七人)。


三月十四日(日)

 ○相棒の下品ラビットイナバさんと、岬の映画館で『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見る。

『新世紀エヴァンゲリオン』にはじまる、長い思春期を描いた物語が、ようやくここに終わったことを、感慨深く受けとめた。

 ○一九八〇年生まれのぼくたちは、『新世紀エヴァンゲリオン』放送当時の一九九五年には十五歳であり、まさに主人公の碇シンジと同い年であった。だから、テレビ放送を見ながら、強く感じていたのは、物語をドライブしていく動きの根底に間テクスト性を持ちこんだ構造の斬新さよりも、赤裸々な心理描写への共感であった。テレビシリーズ最終話で、碇シンジが「ぼくはここにいてもいいんだ」と口にするさまは、当時、クラスメイトからいじめられ、自分という存在に自信が持てずにいたぼくの、すこし先をいく姿として、文字どおり救われたものである。あれ以来、ぼくがすこしずつ、「他人」や「多数派」と距離を置きながら、自己を保つように努めてきたのは、ここにルーツがあるといって過言ではない。

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 そういう思春期であったから、中学の友人たちと、作品内にちりばめられた、思わせぶりなタームについて、ああでもないこうでもないと語り合ったものである。いわゆる「二次創作」に手を染めたのも、『エヴァンゲリオン』が初めてであった。高校時代には、インターネットのホームページ上にアップされる、『エヴァンゲリオン』の二次創作小説をよみあさったこともあった。今思えば、それほどに、ぼくたちは『エヴァンゲリオン』を近くに置いていたのだ。

 ○そうして、テレビシリーズの語り直しと、その先にある完結編として世に送り出された『劇場版 シト新生』と『Air/まごころを、君に』には、おおいにこころを揺さぶられた。特に、「まごころを、君に」で提示された、この世の果てに「絶対的な他者」とともに取り残される様子は、十七歳だったぼくたちに、すこし先にある、避けようのない思春期の終わりを見せたのだった。「ここからは究極的にわかりあえない他者と生きて行かねばならんのだ」という覚悟とともに受け止めたことを、いまでも覚えている。実際、その前後に、父うさぎと喧嘩をした際、
「あんたはぼくの気持ちなど分からぬのだ!」
「誰にも他人の気持ちなどわかるものかよ!」
 というようなやりとりをした。高校の修学旅で沖縄に行った際に、キルケゴール『死に至る病』を持っていったのも、いまとなっては懐かしい。書いてあることはまったく理解できなかったが。R・D・レイン『好き?好き?大好き?』のほうが、まだしも理解できた。

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 ○だから、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が制作されていると報じられた際には、心底驚いたものである。ぼくたちにとって、『エヴァンゲリオン』は、『まごころを、君に』の「この世の果てに『絶対的な他者』とともに取り残される様子」で終わっていたからだ。思春期が終わり、『エヴァンゲリオン』が終わる、そういうものだと思っていた。そこから先は、『エヴァンゲリオン』という物語が語るべき世界ではない、そう思っていた。
『序』に、続く『破』を見て、「物語としてはカタルシスがあるけれど、これは『エヴァンゲリオン』じゃないんじゃないかなあ」と思ったのも、そのせいである。エンターテインメントとしてのカタルシスを持たせられたために、思春期の懊悩の雰囲気が失せたこともあるが、なにより「『Air/まごころを、君に』で思春期は終わったのだし、もう一度語る必要などない。そんなことをしているあいだに、別の作品でもっと『先』へ行ったほうがいいんじゃないか」と思ったものだ。当時、ぼくたちは二十代も後半にさしかかっていた。人類社会に生きる知性生物として、それなりの立場を確立した気になっていた。まして、その後にも、他者と生きるうえでの蹉跌をいやというほど味わってきたからには、三十代に入ってから見た『Q』における、碇シンジの挫折など、もはや新味などあろうはずがない。もちろん、それなりに面白くはあったが、それは「そりゃ、こんなことになったら、こんな気持ちになるだろうな(だってそうなった経験があるもの)」という、答え合わせの面白さであった。『Air/まごころを、君に』までに感じていた、「すこし先にある」こころの有様を、新劇場版に見るには、ぼくたちのほうが『エヴァンゲリオン』の先へ進みすぎてしまっていたのである。

 ○そして、今日――ようやく見ることになった『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、だから想定の範囲を超えるものではなかった。
 しかし、ともかくも、終わらせたかった物語を、しっかりと終わらせて見せたところに、この映画の意味があったように思う。
『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズ、ならびに、いわゆる「旧劇」として知られる劇場版二作は、多分に庵野秀明監督の私小説的なおもむきがあった。そして、そこに描かれていた「思春期の懊悩」を、いまさら二〇〇〇年代に、五十代になった庵野監督が、そっくりそのまま持ち続けているとも思われない。だが、だからこそ、「ぼくはこうして少しだけ大人になりました」ということを、改めて、私小説的に、世に問うて「見せ」なければならなかったのかもしれない

 ○そういう点で、あの日、十五歳で、いまは四十歳のぼくと下品ラビットは、この映画を「偉い作品だな」と思うのである。

 ○帰り道で、
「松平龍樹の『発情期ブルマ検査』って、田舎に送ったんだよな」
 と下品ラビットが聞いてきたのは、彼には彼なりに、『エヴァンゲリオン』終了への感慨があったものと思われる。
「そうだよ」
 と応えると、
「じゃあ、月末に田舎に行ったら、忘れずに回収しなきゃあな」
 と、彼はこちらを見ることなく、タバコをふかしながらつぶやいていた。

 ○本日の、全国の新規感染者数は、九八七人(前週比-七八人)。
 そのうち、東京は、二三九人(前週比+二人)。
 ひさびさに全国の新規感染者が減っている。

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→「#110 想像を絶した素晴らしい世界への旅」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/

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