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コロナ渦不染日記 #65

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十月二十四日(土)

 ○夜が明けると、いつものうさぎ穴に、うさぎの数が増えている。現在、うさぎ穴には、ぼくと、相棒の下品ラビットいがいに、新型コロナウィルス流行の影響で、赴任先の南米から帰ってきた母うさぎがいたのだが、昨晩からは、ここに、妹うさぎと、彼女の娘である姪うさぎが加わっている。
 二匹は、これから一ヶ月あまり、うさぎ穴に滞在することになる。妹うさぎの夫である、義兄弟うさぎも働いているので、子育てとなると、第三者の手が必要となる。そこで、母うさぎが留まっているこのうさぎ穴へ、一種の里がえりをするということになったのだ。

銀[しろがね]も 金[くがね]も玉も なんせむに
勝れる宝 子にしかめやも
金銀財宝より子どもの方が価値あるに決まってんだろ

——山上憶良
括弧内現代語訳は引用者)

 と詠んだのは、奈良時代の貧乏詩人・山上憶良[やまのうえの・おくら]であるが、姪うさぎを見ていると、憶良の気持ちがわかるようである。姪は早産で生まれたが、そのようなことを抜きにしても、子どもというものは、我々に比べて、小さく、弱い。しかし、生きているという点において、我々に勝るとも劣らない。そして、その、小さく、弱いものが生きているということほど、他の生きているものを鼓舞するできごとはない。そこには、我々と違って、ただ生きるために生きる命があるからである。ただ漫然と生きていくことができるほどに育った、我々じしんを離れて、普遍的な「生」の価値に直面させられるからである。
 ……というようなことを考えながら、姪うさぎのおむつをとり替えた。ぼくたちの妹は、むかしから、立っているものなら親でも使う、甘えん坊姫将軍であった。とうぜん、兄であるぼくと下品ラビットは、いつも彼女のためにいろいろと骨を折ったものであるからして、その彼女の娘のために骨折りするのも、とうぜんのことと彼女は考えて疑わないのである。
「つまり、おれたちは、この子にとってのモノンクルということになるんだな」下品ラビットが、感慨深げに呟いた。
「伊丹十三を読み返そうか」
「いや、せいぜい小金でも貯めて、いつか彼氏ができようものなら、デートの練習にでも連れだしてやれるようにしておこうぜ」
「できたのが彼女だったら、デート代を出してあげてもいいね」
「そういうんでもなければ、『源氏物語』のひとそろいでも買ってやろう」
 そんな話をした。

 ○こうして、午前中は妹うさぎの育児を手伝い、午後は原稿をする。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、七二九人(前日比-一九人)。
 そのうち、東京は、二〇三人(前日比+一七人)。

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十月二十五日(日)

 ○昼前、出かけようとしたところで、うさぎ穴の前で、義兄弟うさぎに出会う。休日なので、娘である姪うさぎに会いに来たものであろう。かるく挨拶し、その場は別れた。

 ○所用を済ませ、昼食を食べようとふらついていると、ブックオフが目に入ったので、つい入ってしまった。黒田硫黄の短編集『大王』と『黒船』、『セクシーボイスアンドロボ』全二巻がそれぞれ一〇〇円で売っていたので、つい買ってしまった。

 帰宅後、『大王』と『黒船』を読む。
 黒田硫黄氏は、あっけらかんと描いてはいるものの、基本的に屈折している。そうした屈折の姿を、客観視しているから、あっけらかんとして見えるのであろう。そして、初期の作品だからというのでもなかろうが、この短編集では、屈折の度合いがおおきい。『大王』の「象夏」と「象の散歩」、『黒船』の「象の股旅」では(下品ラビットはこれを「『象』三部作」と呼んでいる)は、「象」というものに象徴される、期待とか、不安とか、夢とか、過去とかといった「コントロールできないなにか」と、それに翻弄される人々の姿を描いて、内省的な暗さがある。その一方で、「THE WORLD CUP 1962」や「メトロポリス」に描かれた、世界の破壊を求めるこころもまら、内省的な暗さの発露であろう。
 こうした作品のなかで、ぼくが「わたしのせんせい」(『黒船』収録)を好きなのは、これが屈折を描きながらも、「コントロールできないなにか」と真っ向勝負して、敗れ、世界を壊すこともできず、それでも、先へ進もうとしている物語だからである。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、四九五人(前日比-二三四人)。
 そのうち、東京は、一二四人(前日比-七九人)。



→「#66 普通の人びと」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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