コロナ渦不染日記 #87
十二月三十一日(木)
○朝いちばんに、巣穴を出て、田舎へむかう。
○昼すぎに田舎に着く。父うさぎはさておき、叔母うさぎと顔をあわせるのは、じつに半年以上ぶりになる。
○父、母うさぎ、叔母がおせち準備のラストスパートに入っているかたわらで、相棒の下品ラビットとともに、浴室やトイレ、廊下の拭き掃除をする。一年の埃を拭き清め、来る年への準備とした。
○今年一年、さまざまなことがあったが、この日記の紙上でふり返るなら、やはり、新型コロナウィルスの感染流行という、「コロナ渦」の、文字どおり渦中に過ぎていった一年であった、ということになろう。
われわれが、自明のものとして、安穏とあぐらをかいていた基盤であるところの、「他者と混在する物理的な世界」が、崩れ去ったのである。まさか、ひとときにせよ、この国のうごきが止まろうとは思ってもみなかったし、それによって、われわれが、どれだけ他者の存在をあたりまえのものとして、顧みなかったかが、はっきりしてしまった。客は来るものであり、提供先へゆけば欲しいものは手にはいるのであり、会いたいあの人にはいつか会えるものと思っていたのである。だが、それは、砂上楼閣というべき、ただの思いこみにすぎなかった。ちょっと感染力の高い、未知のウィルスが流行すれば、かんたんに思いどおりにならなくなってしまうていどの、甘えた認識にすぎなかったのである。
○ボルヘスが引いた、シェイクスピアの言葉、
There are more things in heaven and earth, Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.
(この天と地のあいだには、ホレイショー、人智の思い及ばぬことがごまんとあるんだよ)
――シェイクスピア『ハムレット』より
(太字強調は引用者の訳による)
をひきあいに出すまでもなく、われわれの認識など、限定的なものなのである。その限定を、限定をもたらす限界を、知ることができれば、美しい砂上楼閣が崩れても、不必要にこころを動かされることはなかろう。
空即是色とは、そういうことである。われわれは、命という、たよりないものによって生かされ、それを美しいと思わざるをえないのだ。喜びも、悲しみも、そのなかに見いだすしかないのだ。いや、それらは、命という場、人と人の一期一会という時空、そうしたたよりないものによってしか、生まれえないものなのである。
○にごり酒に酔ったあたまで、そんなことを考えていると、巣穴の外で炸裂音がする。「サプライズ花火だ」と父うさぎが言い、ぼくと下品ラビットは、にごり酒のグラスを手に、巣穴を飛び出す。
とおく、川のほうで、光が暗い夜空へ飛びあがり、輝く粒に弾ける。まさしく、花火である。
夜空に、光の花びらを咲かせて、次の瞬間には散っている。だから花火というのだろう。しかし、このたとえは、生から死への不可逆の変化を「花」に見るのが慣例である、というだけで、ほんとうは、このイメージは、花以外の、この世のすべてが内包するものである。誰もが、生まれたならば、いつか、死ぬ。ほろびへむかう変化を避けられるものはいない。だが、だからこそ、生きてある変化が輝くのである。というより、それを輝きと見ないかぎり、われわれの生に、意味はない。この砂上楼閣こそ、色即是空ということである。確固たるものとは死んだものである。変化することこそ、生きるということであろう。
○年が改まるということも、そうした変化のひとつである。だから、われわれは、新年をよろこぶのだ。それが死に近づくことと知るものも、知らぬものも。だが、悲しむよりは、喜ぶほうが、気持ちは豊かになる。たとえ地獄へと続く道であろうとも、おのれの足で歩むかぎり、それは幸福な時間である。
○本日の、全国の新規感染者数は、四五一九人(前週比+七八〇人)。
そのうち、東京は、一三三七人(前週比+四四九人)。
ここにきて、全国での四五〇〇人超え、東京での一三〇〇人超えである。大晦日であっても、否、年末の出足を経ての大晦日だからこそ、この数字が出たのかもしれない。
○こうして、運命の年暮るる。だが、日本は、われわれは、新型コロナウィルス感染流行を止める手立てを持たず、曖昧なる時をすぐるものとしてのみ、存在す。われもまた、ほとんど曖昧なる二〇二一年のビジョンを抱きたるまま、年を送らんとす。いまだ――いつも?――すべてを信ぜず。ただ、死せるものの、変わりゆくことのみを信ず。
引用・参考文献
イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/)