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心臓の痛みを、鼓動にすり替えて

好きな歌のワンフレーズに「刺される」ことがよくある。特にヨルシカは私の急所を狙ってくる。

幸せな顔した人が憎いのは
どう割り切ったらいいんだ
満たされない頭の奥の
化け物みたいな劣等感

だから僕は音楽を辞めた/ヨルシカ

ああ、あるよね、「化け物みたいな劣等感」。自分にもある。純粋に幸せな顔した人が、どうしようもなく憎くなる。同時にそんな感情を抱いてしまう自分の弱さを憎悪する。
大学受験時代にそんな気持ち抱いたなあ、とふと思い出した。確かあれは予備校帰り、すれ違う幸せそうな二人組を見て、心も体もボロボロな自分が情けなくなった。


聞くだけなら努力はいらない

盗作/ ヨルシカ

この歌詞、今のいままで「聴くだけなら努力はいらない」だと思っていた。音楽を消費することしかできない、という歌詞を「消費者」に聴かせているのが実に皮肉的だな、と思っていた。
「聞くだけなら努力はいらない」という歌詞についても同様のことが言えるだろう。自分で何かを創造するわけでもなく、「聞くだけ」なら、努力はいらないだろう。
ああ、刺さったなあ。私は作曲に手を出して、挫折した人間だ。私は音楽を創造できない側の人間。自分で何かを作り出すことはできなかった。楽だよね、「聞くだけ」って。



心が辛いとき、「頑張れ」とか「大丈夫」とか、他人から言われてもあまり響かない。私はひねくれ者なので、「元気な応援ソングで元気が出る人は初めから元気」説信者である。(この説は先日、「そんなことはないよ」と友人に諭された)
元気な人間には元気じゃない人間の気持ちはわからない。元気じゃない人に正論を投げつけるのは暴力みたいなものだ。

元気がない人の、心の正体を言語化して、美しい音楽として浄化してくれるものが、私にとっての「応援ソング」だ。

私が音楽に刺されるとき、同時に自分を愛することもできる。弱くて無力で怠惰な自分の、格好悪い生き様を、綺麗な音で包み込んでくれるから。美しい音色、歌声が自分を肯定してくれる気がするから。醜いなりに生きている、と思えるから。
そして少なくともこの音楽を作った人は私の心の正体を知っている、味方だと思える。

だから辛いとき、そんな歌が流れてくると心がいっぱいになる。ダメダメな自分だけど、美しい歌が浄化してくれるから、今だけは救われた気分になるのだ。


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