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命からの距離といじめ。[感謝感謝の永久無料公開中]

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このnoteには、命に関わるセンシティブな内容が含まれている可能性(いや、含まれています)があります。予めご了承ください。


ふぅ、命。おもむろに何を言い出したんだと思ったあなた。正解です。それが正しい反応です。その正しさを忘れずにこれからも生きていってくださいね。

それはさておき、今回の内容は、我が家の鶏にまつわるお話で、私が命やいじめについて考えたことの一片です。

我が家では、ニワトリさんを飼っております。といっても、本格的に養鶏をしているわけではなく、40羽くらいの数でこじんまりとっていう感じです。

ニワトリさん

これは、我が家で唯一の雄鶏。強いです。と言うより、自分の女を守ろうとするあまり、人間にも攻撃してきます。足の鉤爪で蹴ろうとしてきます。結構な迫力。大きいサイズにすれば、シン・ゴジラに出ることができそうな勢いです。

でも、あんまり頭はよくないらしく、棒で突くと一生懸命、棒と格闘しています。可愛いやつです。

ニワトリは、卵を取るために飼っています。まぁ、もう一つ目的があるのですが詳しくは、後半部分で。


鶏って、おとなしい生き物なんです。雑食とはいえ口は小さいし、クチバシで突かれても雌鶏であれば、痛くも痒くもありません。雄鶏は少し痛いかも。

草をあげるとよってきて、金網の隙間からツンツン突いて食べます。なんか、けなているようで、申し訳ないのですが、あんまり頭も良くはありません

目の前に鏡を置くと、鉤爪で鏡の中の自分を蹴ろうとします


しばらく格闘した末、どうやら勝てないらしいと悟って、身震いを一つして帰っていきます。

また、非常に人懐っこいです。最初は緊張しているのかあんまり近づいてこないのですが、しばらく放し飼いにしていると、普通に家の中に入ってきます。

おい!家の中で用を足すんじゃないよ!もぉ!

放し飼いは、悲惨です。追い出さなくてはいけなくなります。

まぁ、そう言う可愛い奴らです。(ちょっと臭いことは秘密。彼ら彼女らの名誉に関わりますので。)


が、しかし、そんな鶏たちの間でも「いじめ」があります

しかも、かなり執拗ないじめです。

一羽の鶏を全員で突き回します。そのニワトリは小屋の中を逃げ回るわけです。でも、追いかけても追いかけてもずっと突こうとします。

私は、それを見つけると、それっとばかりに鶏に向かって水をぶちまけます。水をかけられるのが嫌いな鶏たちはそれで「いじめ」を一旦やめる。

それを繰り返すと、人間が来るといじめをしなくなる。

まるで、先生が来たときのいじめっ子みたいに

鶏の世界でも、いじめはあるんです。人間だけがいじめをするわけではない。なんで、いじめるんだろう?明らかに理不尽です。

もしかしたら、いじめられっ子には何か身体的に欠陥があるのかもしれません。その個体が子孫を残すと言うのは、種全体にとって悪影響ですからそれを阻止しようとしているのかもしれません。そういう目で見れば、合理的とさえ言えるのかもしれません。

でも、私は、それを許すことはできない。

例え、種にとって脅威であっても、「今の個体」が苦しんでいるんだったら、意味がありません。そんなのなんのためなんでしょう。


あまりにもいじめがひどくなってきたので、私たち家族はいじめられた鶏を小屋の外に出すことにしました。

頭から血を流していて、体毛はほとんどありません。意識が朦朧としているのか、白目を剥いてうずくまっています。それでも、なんとか生き延びようとするんです。草をあげると、なんとか食べようとします。でも、クチバシからこぼれ落ちてしまいます。力が入らないんです。

私たちは、この鶏に「シュートリー」と言う名前をつけました。

「集中治療室の鳥」。だから、「シュートリー」です。

実は、このシュートリーは三世です。親子というわけではないのですが、過去にも「シュートリー」というニワトリがいました。まぁ、その子は諸事情でいなくなってしまったのですが。

シュートリーは、日ごとに回復していきます。信じられない生命力。たけのこみたいです。

草をあげると食べるようになり、水を飲むようになり、歩けるようになりました。自由に我が家の庭を闊歩します。足で、地面を掘り返してはミミズみたいなのを探して食べたり、雑草を食べたり。一旦回復が始まると、早いものです。

シュートリーは、徐々に毛も生えてきて、他の鶏と変わらない見た目になりました。元気いっぱいです。

そんなある日、事件が起こりました。

シュートリーを間違えて元の小屋にいれてしまったのです。

そこから始まるのは、集団リンチです。今までの恨みとばかりに、ニワトリたちが一斉にシュートリーに飛びかかります。

シュートリーは逃げ回ったのでしょうが、私たち人間が気づいた時には、小屋の片隅でうずくまっていました。

すぐさま他の鶏たちをかき分け、シュートリーを救出。しかし、頭から血は流れ、毛は全てむしり取られています。集中治療室(別の小さい小屋)にいれてあげたのですが、ぐったりとうずくまって動こうとしません。

水をあげても、草をあげても。決してその場から動かないのです。

私たちは、シュートリーの命が長くないだろうと悟りました。そして、ある夜が明けて、小屋を覗くと、シュートリーは横たわっていました。

ある雨が降る夜のことでした。


なんでなんでしょう?なんで?私は、ショックでした。なんで、死ぬまでいじめるんだろう?なぜ雄鶏は、敵に対しては勇敢に戦うくせに、自分の仲間を守ることができなかったのだろう?

この命は、なくならないといけないものだったのだろうか?そもそも、なくならないといけない命なんてあるのか?

涙こそ流しはしませんでしたが、私の中では様々な思いが渦巻いていました。そうして、シュートリーは灰となり、土に還りました。



そのことを考えていたのも束の間。そこから一週間ほど後に、今度は、鶏が何者に襲われ惨殺されました。


鶏を捌いて食べるために、近くの養鶏をしている人から鶏を20匹ほどもらってきていました。

そう、我が家では鶏を捌いて、いただくのです。

そのために、近くの養鶏家の方から鶏をいただいていたのですが、我が家の鶏と混ぜると喧嘩が始めるので、別の場所で飼わなければいけません。

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そこで野菜用のビニールハウスで飼うことにしました。全体がビニールで覆われているアレです。その時はちょうど収穫を全て終えた野菜があったので、それもついでに鶏たちの餌になるからいいかなと思っていました。

結構な広さがあるので、鶏たちも駆け回って、平和な光景でした。

しかし、ある夜のこと、そこに何者かが侵入したのです。

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その何者かは、ビニールを破って侵入し、鶏たちを10羽ほど惨殺した後、引き上げていきました。

朝起きると目の前は悲惨な光景が広がっていました。気がついたきっかけは、小学校へ向かっていた妹が、「道路でニワトリが死んでいる」のを見つけたことです。

そこから、もしかしてということになり、ビニールハウスに向かったところ、案の定半数ほどのニワトリが姿を消していました。

一つ下の段の畑には、鶏の死体がありました。抵抗したのでしょう、毛が散乱しています。

何者が侵入したのかは、誰にもわかりません。イタチかもしれないし、野犬かもしれません。でも確かなのは、10もの小さな命が一晩にして奪われたということです。

その時は、かわいそうだなと思ったものの、殺した何者かを憎いとはそこまで思いませんでした。それは、自然の摂理に近かったからです。自分が生きるために、他の命をいただく。


そして、その2日後。私は、鶏を捌いて肉にしました。

まぁ、かなり昔からしていることなので、慣れてもいます。

でも、私は考えました。命を奪うと言う点では、

私がしていることは、シュートリーをいじめた鶏や鶏をおそった何者かと一緒だ

それは、結果から見れば当然そうです。殺された側からすると、いじめられて死のうが、何者かに惨殺されようが、人間に肉にされようが、死ぬことに変わりはありません。

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でも、私は、鶏を食べさせていただくのをやめようとは思いません。もちろん、鶏を捌くということが、好きなわけではありません。むしろ、とてもブルーな気持ちになります。

でも、それは、しなければいけないことだと思います。スーパーで綺麗にパッケージされたお肉。何も手を下さなくても、すぐに食べられる状態のものを手に入れることができます。

命を奪っていると感じることは少ないでしょう。それは、「肉」であり「命」ではないからです。私たちは、食べないと生きていくことができません。ベジタリアンやヴィーガンという選択肢もあります。それもありでしょう。でも、それにしても、植物の命はいただくわけです。

それに、私は、生き物の命をいただいて生きるということが悪いことだとは思いません。

私は、命をいただくという感謝をしないことが悪いことだと思います。

「命を奪っている」「自分の命は他の命で成り立っている」という責任を持たずに、生きることが間違っていると思います。

命を奪うなんて汚いことだ。汚らわしい。そう言って、精肉関連の職業の人たちは、社会的に低い位置に立たされていきました。

でも、それを食べるのは、命のありがたさを実感していない人々です。汚い仕事は他人に任せ、自分は綺麗な「肉」を食べる。

今、人類は肉を食べすぎていると言われています。そのせいで家畜をたくさん飼育することになり、それによって、人類が破滅するというシナリオさえあります。

なぜこんなことが起きるのか。それは、

人々があまりにも、命と遠すぎるから

だと思います。

自分が命を奪っているという実感がないから、いくらでも消費してしまう。生きるのに必要以上の命を奪っているわけです。

私は、自分の手で、命を奪って肉にしていただいているわけですが、そうすると、とても感謝の念を覚えます。

さっきまで生きていて、走り回っていたいきものが、自分の手によって肉となった。そして、それによって生かされているんだ。ということを痛切に感じるわけです。

そんな体験をすれば、命を無駄にすることなんてできるわけがありません。ただただ感謝しかありません。

ですから、この文章を読んでくださったあなたには、命を感じて生きてほしいです。なかなか自分の手で命を奪ってそれをいただくという経験はあまりないかもしれません。でも、スーパーのお肉でも、命なんだと意識を持つだけでだいぶ違うと思います。


生きるために命をいただくというのは、まだ、納得することができます。もちろん、それを正当化しようという気は毛頭ありません。命をいただく側は、自分の行為に責任を持たなくてはいけないからです。

じゃあ、いじめて殺すというのはどうなのか。シュートリーをいじめた鶏たちはどうなのでしょう?

彼ら彼女らは、ただ、いじめをしていました。生きるためでは決してないと思います。私は、それは許せません。集団で寄ってたかって、1羽をいじめるということ。これは、許されることではないと思います。

じゃあ、鶏たちはなぜこんなことをするのか。どんな理由があるにしろ許されません。

でも、もしかしたら、飼っている私たちにも責任があるのではないかなと思ったのです。我が家のニワトリは、産業用に養鶏されている鶏よりは、遥かに広いスペースで生活しています。それでも、やはり無限のスペースがあるわけではありません。その狭い空間に閉じ込められることでストレスを感じているのかもしれません。

その証拠に、試しに鶏を外に出してやると、みんな好き勝手方向に散らばって草をついばんでいます。いじめなど起こる気配もありません。適切な距離が保てるし、自分が好きなことをすることができるから、いじめようと思わないのでしょう。


これは、同じことが人間にも当てはまると思います。近年、学校などでの生徒のいじめが問題になっています。メディアなどでも取り上げられるようになり、先生や教育委員会はいじめを無くそうと必死なようです。

でも、その時に、いじめっ子ばかりを責めて、その子を取り除くなり更生させるなりすれば解決すると思ってはいないでしょうか?

私は、それは対処療法だと思います。応急処置としてもちろん必要ですが、それだけでは不十分です。同時に、根本から解決するアプローチも必要です。

なぜ、いじめが増えているのか。それは、子供たちがストレスを抱えているからかもしれません。長い間、一つの場所に閉じ込めておいて、何かを詰め込んで。おそらく、子供たちは「暇」なのでしょう。

暇というのはいいものでもあります。ゆーっくりできますから。でも、逆にそれが間違った方向に向かってしまうこともあります。

いじめをしていると聞いたら、おそらく暇なんだろうなと感じます。誰か他の人を傷つけることに時間を使いたいと思うほど暇なんだろうなと。

同じ暇を使って、もっと人を喜ばすようなことだってできるでしょう。でも、それは選択肢にはありません。なぜなら彼ら彼女らはストレスを抱えているから。もちろん、いじめっ子を擁護する気はさらさらありません。いじめという行為は正当化されるべきではないです。

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ニワトリは、常に小屋の外に出しておくわけにはいきません。なぜなら、外敵に襲われてしまうことが多々あるからです。

でも、人間は違うでしょう。少し行動範囲を広くしてあげて世界を広くしてあげたからといって、命の危険が訪れることは滅多にないでしょう。特に日本では。

だから、いじめを無くそうとするのなら、子供たちを外の世界に出してあげればいいんです。閉じられた環境の中だからこそ、暇になって人を傷つけてしまいます。

もう少し、子供たちを信じて、外の世界に出してあげませんか?そうすれば、自分が好きなことを探し始めて、人を傷つける暇などなくなるはずです。ストレスだって、いいストレスしか残らないでしょう。



はい。ということで、今回は、鶏の命に関するいくつかの出来事に際して私が感じたことでした。

まずは、私たちは、命をいただいている身として命に対して感謝しなければいけないということ。自分が他の命を奪って生きているんだということを意識するだけで、かなり違うと思います。


そして、いじめの話。なぜ、鶏は他の鶏をいじめるのか。それには、ストレスも関係しているの可能性があります。それを人間にも当てはめて、子供たちにもっと広い世界を与えてあげることが必要なんじゃないかと思います。閉じられた空間の中で管理しようとするあまり、大きなストレスを与えてしまっていないでしょうか。もう少し、子供を信頼してもいいんじゃないかなと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。少しでも、心に響くものがあれば幸いです。


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