‟書き写す”ということ

昨年からのCovid-19 の大流行で、焦点があてられたアマビエ。アマビエとは、江戸時代の文書に残された予言獣の一種で、「これから数年病気などの災厄が続くが、自分の姿を書き写すことによって、その災厄から逃れることができる」と語ったとされる。

”書き写す”といえば、写経や写仏という行為がある。写経は、かつて紙や経典が数少なく、貴重だった時代。広く仏教を学んだり、広めたりするうえで書き写すことが必要だった(今のようにコピーや写メで必要な画像をラインで送るなんてことができない時代)。それがやがて、写経を手伝うことが、仏教を広めることに大きく貢献し、ひいてはお坊さんの手伝いをすることであることからやがて、仏様に対する最高の供養と考えられるようになった。そこで、経典を書き写して、各地の寺院に奉納したり、土中に埋めたりすることによって、仏様に対する善行ポイントを稼ぎ、(仏様のおぼえをよくして)死後の世界に自分が極楽にいけるようにしようとしたもの、いわば生前供養の一種。末法思想と弥勒思想がその流行に大きく貢献した。また、写仏に関しても、当初は布教の一環として、つまり文字の読めない民衆に向けて仏様の教えをビジュアル化したものを広めることによって、布教をしようとしたものだったが、それがやがて仏様の姿を思い浮かべるという「観想念仏」と結びついた。そしてそれが時代が下るにしたがって、仏様の姿を書き写すことによって仏様の御利益を得ようとするようになっていった。文字の読み書きとは無縁な、一般的な民衆にとって、仏様の絵を写すだけで御利益が得られるというのが、どれだけ画期的なことであったか!創造に難くない。

仏教と死者供養が結びつくのは、時代が下ってからのことだから、写経や写仏をすることによって、死者の冥福を祈るという発想が一般化するのはもっと後の時代のことだろう。(もちろん、追善供養という考え方時代は仏教が公式に伝えられた飛鳥時代からあった可能性があるけれども)

先述した予言獣を描き写すことによって、災厄を免れるというシステムは、もしかしたら仏教の写経や写仏に着想を得たものなのかもしれない。

そもそも、なぜ「書き写す」ことが災厄を免れるなど、人間にとってよい結果をもたらすものと考えられてきたのだろう。

文化人類学者のJ・フレーザーは、呪術の要素として、「類感呪術」と「感染呪術」の二つを指摘している。そのうち、「類感呪術」は、類似したもの同士は互いに影響しあうという発想(「類似の法則」)に則った呪術で、模倣性を特色にしているという。

予言獣を模写することによって、疫病などの災厄から身を守ろうという発想は、根本にこの類感呪術的な発想があるのではないだろうか。

写経や写仏に関しては、この類とちょっと違う。もともと布教の手段や生前供養・追善供養として行われていたものが、やがて類感呪術的な考えと結びつき、現世利益的な側面が付加さえれるようになっていったのではないか。

それが、いつ頃からシフトしていったのか、今となっては遡りえようがないけれども(近世?)、少なくとも予言獣などを書き写して災厄を逃れようとしたという発想は、仏教も少しは影響しているように感じる。

いずれにしろ、この”書き写す(making a copy)”という行為を社会学的にさらに掘り下げてみると面白いかもしれない。

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