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ヨコハマメリーは文豪・谷崎潤一郎の「作品」だった!?

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 以下、『昭和の謎 99』 2019年初夏の号(ミリオン出版 )に寄稿した記事を転載したものです(新事実の発見により、一部の箇所を修正しています)。 従来のヨコハマメリー像からは導き出されないような予想外の内容ですが、皆様どうお考えになりますか?
 皆様の御意見をお待ちしております。
 なお無断転載や出典元を省略した引用は、著作権法で禁じられていますのでご留意下さい。
 *2020年9月9日 タイトルを変更しました。元タイトルは「ヨコハマメリーと文豪谷崎潤一郎の点と線」です。

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 私事になるが、昨年12月『白い孤影 ヨコハマメリー』(ちくま文庫)という本を出した。お陰さまで評判は上々。売れ行きも悪くないようだ。

 そんな拙著だが、読者のなかに在野の谷崎潤一郎の研究家がいた。2017年に閉会した谷崎潤一郎研究会の元メンバー、木龍美代子さんだ。その木龍さんからのお話である可能性が浮上した。

谷崎潤一郎とヨコハマメリーは会ったことがあるのではないか」というのである。さらには彼女のトレードマークである白い姫様ドレスも谷崎と関連性があるらしい。

 いまや全国区になった横浜の伝説と近代日本を代表する文豪。あまりにも不釣り合いな取り合わせに「トンデモだ」という失笑が漏れ聞こえてきそうだ。しかし待ってほしい。1945〜46年にかけての谷崎の動きを追っていくと、まんざらおかしな話ではないのである。


●谷崎潤一郎とヨコハマメリーの奇縁

 太平洋戦争が勃発した1941年当時、神戸の岡本(東灘区)に住んでいた谷崎。本土空襲の危険が迫ってくると早々と熱海へ疎開している。しかし伊豆半島上空でも米軍機を見かけるようになったため、旧知の新聞記者兼小説家の岡成志の薦めで岡山県の津山へ再疎開した。この岡の妻は、メリーさんの親族である。彼女の実家はメリーさんの実家と同じ集落にあった。

 谷崎は生粋の江戸っ子だが、関東大震災を機に関西に移住している。移住後の彼の周囲には岡山県人が多く、前述の岡夫妻をはじめ3番目の妻、松子の妹(重子)の夫が岡山の城下町、津山の藩主・松平家の人間であるなど、岡山とは少なからぬ縁があった。

 さて、谷崎が津山に疎開したのは1945年5月15日である。一行は谷崎夫妻、重子、夫人の連れ子の恵美子、そして女中のおみきだった。住まいは松平別邸「愛山宕々庵(とうとうあん)」だ。この建物は松平家が所有していた物件で、仮寓中は松平家の旧臣である得能静男さんの世話になっていた。しかし当初から津山に長くいるつもりはなく、岡夫人の実家のある土地、すなわちメリーさんの故郷が最終目的地だった。

 谷崎は津山に居を移した翌々日、早速夫人と友人を伴ってメリーさんの故郷に疎開した岡氏を訪ねている。晩年の谷崎の助手で口述筆記を担当した伊吹和子の『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』(講談社)に、そのときの様子が書かれている。

【岡夫人の話によれば、東京在住の当時から体が弱っていた「岡さん」は、(中略)谷崎先生に約一ヵ月先だって、四月二日に、津山の先の××にある、夫人の実弟の●●昇氏方に疎開した。到着早々、「岡さん」の母堂の十三回忌があり、生地の平松まで歩いて行ったところ、「岡さん」はその頃からひどく弱って、途中の橋の欄干にもたれてしばらく休んだほどであった。そして程なく●●家で寝込んでしまったということであった】(※伏せ字は筆者による)

 谷崎は病床の岡氏を見舞っている。当然メリーさんの親族の家に行ったということになる。私は平松に住む岡成志の親族とメリーさんの一族の本家に確認を取った。既に孫の代になっていたものの、昇氏の家こそメリーさんの一族の本家だということが判明した。ちなみにメリーさんの実家は本家の斜め向かいである。

 この5日後、岡氏は結核で急死している。借り暮らししていた津山で途方に暮れていた谷崎一家の元へ、岡未亡人から耳寄りな知らせが入る。××の1駅隣に格好な離れが借りられる、というのである。

 この件をメリー一族の本家で確認したところ、拙著の中で「会長」と表記している家長が「岡成志さんが私の親父に『××に泊まる所ないか?」と訊いてきたんだよ。でも親父はひとの世話は得意じゃない。だから●●武に『兄貴、世話してやれ』って。●●武は商売していて顔が広かったしね。それで(谷崎)先生は▲▲に来たんだ」という。

 この●●武という人物は、拙著のなかで「山大尽」という呼び名で登場する。彼は岡夫人の従弟で木材会社を運営しており羽振りが良かった。
 こうして谷崎はメリーさんの親族の世話になり、メリーさんの生活圏内にやってきたのだった。

●贅沢な疎開生活

 谷崎は岡山への疎開にあたって熱海の別荘を松平家に売却。手にした5万円(資料によっては4万5千円)を疎開費用に充てた。永井荷風も谷崎を訪ねて▲▲に来ているが、荷風の所持金は200円だけだった。谷崎が潤沢な資金を準備していたことが伺える。

 この金額に合わせたのだろうか。谷崎一家の荷物はとんでもない量だった。津山で谷崎一家を迎えた得能静男さんの日記(津山郷土博物館蔵)によると、毎日のように運ばれてくる荷物は6畳間に入りきらず、大きな荷物が30個ばかりあふれていたという。その後もたびたび荷物が送られてきたそうで、「避難」ではなくほとんど「引越」というべき状況だった。

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 疎開というと質素な耐乏生活を強いられるイメージがある。しかし谷崎の暮らしは真逆をいくものだった。その象徴は牛乳風呂である。谷崎家に住まいを提供した小野家の子息・清之氏によると、谷崎は牧場からバケツ1杯分の牛乳を買い、それを湧かして朝風呂にしていたという。お手伝いさんを3人ほど抱え、歌の師匠を呼んで地唄を舞ったり、投扇興のようなことをして遊んだりするなど「疎開」のイメージからかけ離れた暮らしぶりだった。極めつけは「谷崎家が買い占めるので食品の価格が値上がった」ことだ。谷崎は1日に原稿用紙3枚程度しか書けない遅筆で、趣味を楽しむまとまった時間をもっていなかった。そこで美食に情熱を注いでいた。それは疎開先でも変わらない。地元の人たちの不興を買うのは必然だった。おまけに妻の松子は戦時中にも関わらず、あでやかな着物を着て出歩いた。一応上に質素な上っ張りを羽織るくらいのことはしたらしいが、外出先に着けば脱いでしまう。閉鎖的な田舎で噂にならないはずがなかった。

●ヨコハマメリーは芦屋夫人に憧れたのか

 はっきりした時期は不明だが、メリーさんは軍需工場の勤労奉仕でいじめに遭い、自殺を図っている。結婚していたものの、厄介払いするかのように婚家を追い出された。そしてしばらく実家にいたそうである。

 ここから先は状況証拠しかない。歴史ロマンとしてお読みいただきたい。
 疎開中の谷崎は午前中を執筆に充て、午後はフリータイムにしていた。疎開期間は8ヶ月にも及ぶ。時間的な余裕は十分すぎるほどあった。さらに終戦の翌年にも、執筆に専念するため避暑を兼ねてこの地を再訪している。「世話になった人物の親戚で美人の娘さん」ということで、メリーさんと谷崎が会っていても不思議ではない。彼女が書画やお芝居を愛していたことはよく知られている。文化的なことに興味がある人間にとって、谷崎は話してみたい人物だったのではないだろうか。

 残念ながら谷崎の研究書を漁ってみても、●●家に関する記述は1、2行程度しかない。谷崎は疎開先で何軒かの家と親しくつきあっているが、メリーさんの一族とは付き合いが薄かったらしい。前述の伊吹氏の著作に書かれている通り、谷崎は岡成志を見舞うためメリーさんの一族の本家を訪ねている。しかし現在、この家には谷崎が訪ねてきたという話は伝わっていないという(もっとも「山大尽」の家が大阪に移ってしまっており、その家であればなにか有力な情報が残されている可能性はある)。

 私は本家と連絡を取り、谷崎からの手紙がないか、確認して頂いた。すると2通の手紙が残されていることが分かった。1通は封書。もう1通は葉書であった。封書の方は中身が紛失していたが、葉書の文面によると谷崎はこの家に短冊も送っていたようである(もっともこの短冊も紛失していたが)。

谷崎から土井昇への葉書 2

 谷崎は世話になった家に直筆の短冊を残すことを習わしとしていた。短冊は、メリーさんの一族と谷崎の間に交流があった証拠となるだろう。そればかりではない。谷崎とメリーさんの間にはさまざまな符合がみられるのだ。

 まずは彼女のトレードマーク、白いドレスである。

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 ここで写真をご覧頂きたい。疎開する前に神戸の自宅(倚松庵)で、谷崎自ら松子夫人を撮影したものだ。この白いドレスにピンとこないだろうか? 谷崎は作品の参考にするため、着せ替え人形のように夫人に様々な服を着せた。そのなかに白いドレスもあったのだ。これがメリーさんのドレスにつながるのではないだろうか?

 いくら谷崎とは言え、さすがに疎開先にドレスを持って行くことはなかっただろう。しかし行李に大量の荷物を持ち込んでの疎開だ。この写真を持っていた可能性は高い。

 メリーさんの故郷から一番近い中核都市といえば、津山である。1930年当時の津山には若葉館、衆楽館、太陽館という3軒の映画館があった。芝居好きなメリーさんのことである。映画も好きだったにちがいない。おそらく津山で白いドレスを着たハリウッド女優……例えばサイレント映画のスター、メアリー・ピグフォード……を知ってあこがれを抱いたのではないだろうか。そういう下地があった上で贅沢三昧の日々を過ごす谷崎夫妻に接し、松子夫人のドレス写真をみたことが引き金になった……。彼女が松子夫人を通して「阪神間モダニズム」や「芦屋夫人」に思いを馳せたとしたら!

 関東大震災の後、日本の中心は大阪に移った。人口は東京をしのぎ京阪神エリアはモダニズム文化の首府となった。谷崎は実業界の大物と親交が深く、阪急グループ創設者の小林一三、住友本社常務で文人でもある川田順、朝日新聞の村山家など錚々たる面々と付き合いがあった。つまり谷崎自身が京阪神上流階級の体現者であった。そんな谷崎家を間近にして、不遇を囲うメリーさんのなかでなにかがはじけたとしても不思議ではない。自殺を図った彼女は腫れ物を触るように扱われ、不名誉な出戻り娘として疎んじられた。谷崎家の存在は彼女に差し込んだ一条の光だったのではあるまいか。

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 ちなみに白いドレスだが、谷崎の最初の妻・千代の妹で『痴人の愛』のヒロイン、ナオミのモデルになった女優の葉山三千子(本名:小林せい子)の写真(1917年)も残っている。谷崎の周囲ではドレスは珍しい物ではなかったようだ。

●谷崎作品に埋め込まれたヨコハマメリー

 伊勢佐木町時代のメリーさんは「西岡雪子」というペンネームで、お世話になった人たちに礼状を出していた。このペンネームも谷崎に由来するのかもしれない。

 というのは疎開当時、谷崎は『細雪』の下巻を執筆中だったが、この作品のなかに「雪子」というキャラクターが登場するからだ。これは偶然の一致だろうか?

「西岡」という名前の方は「西の岡さん」、つまり谷崎の友人で夫人がメリーさんと同郷の岡成志と関連するのかも知れない。岡の生家がある平松から見て、彼女の故郷は西に位置している。

 ついでにいうならば谷崎の代表作『刺青』の映画版(1966年)の美術監督が「西岡善信」だということも書き留めておきたい。

 ところで谷崎作品にはモデルになった実在の人物が多数存在することが知られている。有名なのは先述の葉山三千子と『痴人の愛』のナオミだ。しかしナオミには作家・武林無想庵と妻の文子のエピソードも埋め込まれているという。こんな風に複数の人物を組み合わせて1人のキャラクターを形成している例が少なからずある

 谷崎研究家の木龍さんは、『夢の浮橋』にはメリーさんの影がある、と考えている。具体的には主人公の継母・経子である。一般にこのキャラクターは松子夫人の妹・重子だと考えられているが、木龍さんは「メリーさんも埋め込まれているのではないか」と疑っているそうだ。

 1930年代に横浜・本牧活躍した白塗りの娼婦「メリケンお浜」が亡くなった後、入れ替わるように街の噂になったのがメリーさんだ。この構図が主人公の母が亡くなった後、継母である経子がスッと入ってくる様子に似ているという。生母と継母は瓜二つという設定で、かつ生母は海のそばで生まれ(谷崎の隣人で実家が漁師だったメリケンお浜)、継母は京都の二条辺りの生まれ(閉鎖的な山里の出身のメリーさん)なのだ。

『夢の浮橋』には疎開中に寄宿した小野家と絡める形で小野小町伝承を埋め込んだり(伝承の舞台である京都市左京区静市市原町が登場。メリーさんは器量よしだったというから小野小町的なニュアンスもある)、「源氏物語」や日本神話の要素も盛り込むなど複層的な解釈を可能にする作品である。詳しくは学術方面の論文に譲るが「義弟を津山の松平家に嫁がせるなど、谷崎は津山に興味を持っていました。おそらく▲▲にも、もっと言えばメリーさんの一族にも興味を持っていたのでしょう。彼は一石二鳥どころか三鳥も四鳥も狙う人物でしたので、疎開中に出会った事柄も題材にした可能性が大です」と木龍さんは語る。

 実際『夢の浮橋』には主人公の「弟(隠し子だということが仄めかされる)」として「武」というキャラクターが登場する。これは谷崎の疎開を世話した●●家の武氏へのオマージュではないだろうか。岡山での疎開時代を暗号のように埋め込んだ『夢の浮橋』。この作品にメリーさんが刻印されていても、確かに違和感はない。

●彼女はなぜ神戸に出たのか

 谷崎は終戦後すぐに関西には帰らず、終戦直後の混乱が収まるのを待った。そして翌年3月になった段階で京都に移住している。一つ疑問に思うのは、もしメリーさんが谷崎から何らかの影響を受けたのであれば、なぜ谷崎を追って京都に行かなかったのだろうか、という点だ。

 考えられるのは、彼女は谷崎にではなく、彼の語る神戸(あるいは芦屋)に惹かれたのではないか、ということだ。谷崎が神戸在住の友人知人のことを愉快に語ったので、人に魅力を感じた、ということもあったかもしれない。有閑マダムの「芦屋夫人」は、山手の奥様風だったメリーさんの70年代〜80年代初期のイメージとかぶる部分がある。当時の彼女は後年ほど奇矯ではなかった。「白塗りに白いドレス」という出で立ちから、私たちは彼女を西洋のイメージと結びつけて考えがちだ。しかし実際は海の向こうではなく、京阪神の有産階級を自らに重ね合わせようとしていたのかも知れない。

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1980年代に撮影されたメリーさん。ドレス姿ではなく、「芦屋夫人」を意識しているように見える。

 神戸時代の彼女の足取りはほとんど分かっていない。「進駐軍御用達の料亭で働いていた」という伝聞がある一方、「日本人のお金持ちの家で女中をしていた」という噂もある。もし後者が真実だったのだとすれば、谷崎人脈が生きてくる。谷崎は神戸の財界に友人を大勢もっていた。女中として働く口は、いくらでも紹介出来たはずだ。

 岡山の山間部から都会に出るとすれば、まずは大阪である。「京都でさえ少数派、まして神戸など考えられない」と彼女の故郷で聞いたが、岡成志(生前神戸で新聞記者をしていた)との関係、そして神戸から来た谷崎のことを考えると、つじつまがあう。

 2008年に死去した赤塚不二夫の告別式でタモリが「私もあなたの作品のひとつです」と悼辞を述べたことが話題になった。もしもヨコハマメリーが文豪・大谷崎の作品だったとしたら……。まだ研究は始まったばかりである。

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