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文章の上手い下手って結局リズムでしょ?

先日投稿した「もっと上手く書けるようになりたかったら、ライティングで食っていくことは諦めなさい」が、割と良い感じで「スキ」されている。

そこで図に乗って、自分なりの上手く書くコツをちゃらっと開陳してみようと思う。

ただしここでは「起承転結」とか「最初に問題提起して、それから答えを書いて、その下に根拠を並べて……」といったテキストの構造論については触れない。

上手い人の文章には、なぜ接続詞が少ないのか?

上手い文章を書くためにしなければならないことは、上手い文章に触れることだ。
上手い文章のイメージが掴めていないと、上手い文章は書けない。

プロ作家のテキストを読んでいて気がつくのは、書き慣れていない素人と比べて圧倒的に接続詞の数が少ないことだ。
接続詞というのは言うまでもなく「しかし、それから、そして、なぜなら……」などといった前の文と次の文をなめらかにつなげるためのものだ。
プロはこの接続詞の使用率が、極端に少ない。

なぜそういうことが可能なのかと言えば、テキストがうまくリズムにはまってさえいれば、接続詞をはしょっても文章が綺麗に流れるからだ。

適当な例がないので最近拙ブログに挙げたテキストの一部を引用すると

 牛の群れをカメラで追っていると、思いのほか時間が経つのが早い。3時半を廻った頃だろうか。一台の軽トラックが現れ、牛の脇をすりぬけるように疾走した。牛の首の辺りでなにやらいじっている。綱を解いているのだ。慣れた手つきで、次々とホルスタインやら黒いのやらを自由にしていく。そのすばやさは瞬速といっていい。のんびり移動をはじめた牛たちを急き立てるように走る白い車体。青々した土手草を駆けるその姿は、大平原をいく馬賊を連想させた。
 ちょうど河っぺりで車が止まったので、近寄って話を聞いてみた。運転していたのはすぐ近くの酪農家で、毎日この時間になると牛に帰り支度をさせるという。どの家も3時半から4時半くらいになると、牛を帰らせるようだ。ちなみに朝は7時半頃牛を出してやるとのこと。川下りの際、船頭が言っていた「牛がひとりでに帰る」という件を確認したところ「そうだよ。綱を解いてやると勝手に牛舎の自分の場所に戻るんだよ」との答えだった。
 とはいえ、すべての牛が毎日牛舎と土手原を往復しているわけではなく、肉牛を一晩中、川原につないでおくこともあるそうだ。いまも川原に残す牛に干草をやるところだとのこと。この流域一帯にいる牛は雌牛や子牛が中心で、牡は成牛になる前に県の中北部へ連れて行くという。ここで育てても茨城県産ブランド牛である常陸牛として認められないからだ。牛たちは巨大なフォークで目の前に盛られた干草を夢中になって食みながら、ときどきこちらを盗み見ていた。猫たちが無関心を装いつつも、離れたところから私達を見やるように、動物には種による独特なふるまいがある。牛の癖はなかなか興味深い。とにかく臆病で慎重なのだ。そのくせ突発的に重戦車のような機動力を見せることもある。
 土手を越えたすぐ向こう側は アスファルトの一本道が走っていて、ときおり自動車が通り過ぎる。牛の群れが通せんぼして渋滞が起きたら面白い。インド、アフリカ辺りの田舎では旅情を誘う定番の光景である。いい絵になるだろう。期待して待つことしばし。ついに牛の群れが動き出した。尻尾をぶらぶらさせながら、数頭ずつかたまって順繰り順繰り土手を越えていく。しかし羊やらくだのように牛は長い列を作ってくれない。牛が車道を横切っても、数頭やり過ごせば列が切れるので、ちっとも通行の邪魔にならないのだ。環境に適応した結果だろうか。ううむ。マナーがよすぎておもしろくない。畜生と悪餓鬼は手に余ってなんぼだろうが。
 まあ、いい。とりあえず写真を撮っておこう。と、こちらにお尻を向けた牛の行列をパシャパシャカメラに収め、さぁ、正面向きのカットも撮っておこうかと、群れの脇を追い越そうとしたときだ。私の足音を聞きつけたホルスタイン御一行様が突如、走り出したのだ。息もぴったりのロケットダッシュである。どどどどど。は、はやい。あののんびり屋のどこにこんな走力があるというのか。白と黒のまだら模様があっという間に遠ざかっていく。呆然。……走るホルスタイン、はじめて見た。

 上のテキストは1278文字ある。
 使われている接続詞は
 
 ・ちなみに
 ・とはいえ
 ・そのくせ
 ・ついに
 ・しかし
 
 の五つだ。比較的少ないと言えると思う。
 
 「もっと上手く書けるようになりたかったら、ライティングで食っていくことは諦めなさい」でも書いたけれど、僕はライタースクールで下から3番目くらいの文章力だったので、もっと上手い人はいくらでもいる。しかしその程度のレベルでも、この位はできる。

 先日詩人の伊藤比呂美さんが書いた『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』というかなり独特なエッセイを知った。

 伊藤さんは詩人だけあって、言葉に対するセンスが並外れている。この作品は説経節という語り物を意識して買いたそうなのだけれど、言葉が流れるようですごく勉強になる。テキストのグルーヴ感が並外れているのだ。

書籍のほかにkindle版もあって、お試し版でも結構楽しめるだけのボリュームがあるのでお薦めだ。


さて、ここから先は書くときにこだわっていることについて書いてみようと思う。


類語辞典を使う

同じ言葉が繰り返し出てくると、頭が悪い人が書いたように感じてしまう。そういう場合は、類語辞典をつかって言葉を言い換えると文章のレベルが上がる。

個人的に愛用しているのは以下の二つのサイト。

Weblio 類語辞典
https://thesaurus.weblio.jp/

「連想類語辞典」
https://renso-ruigo.com/

類語を探すのは、同じ言葉が何度も出てくるのを避けるためばかりではない。語調を整える上で、「ここには熟語を持ってきた方が語感が良い。この言葉と同じ意味の熟語はないか?」という目的から、類語辞典をつかうこともちょくちょくある。

気持ちの良いリズムで文章を書くためにも、類語辞典は使った方が良いと思う。


言葉を探してストックしておく

デビュー作のなかで生け贄の儀式について書く必要があった。

いまでもモンゴルやトルコなどでは季節の行事として、生け贄の儀式が行われている。通常「犠牲祭」と表記されることが多いが、「犠牲」という言葉がネガティブなのがいやだった。そこで数ヶ月かけて、品のある言葉を探し続けた。

そうして見つけたのが「燔祭(はんさい)」という言葉だ。旧約聖書で多用されている言葉だが、「生け贄」とか「犠牲」という言葉にまとわりつく血や内蔵のイメージがないのが気に入った。

同じような例で印象に残っているのが、売春の類義語だ。
売春という言葉には品がない。現代社会の援交やパパ活などの話を書くときには良いのかもしれないが、大正や昭和初期に時代設定された話を書くときは、できれば大正モダンや昭和ロマンを感じさせる語が欲しい。「春をひさぐ」のような、手垢にまみれたいい方も嫌だった。そこでいろいろ探した末に「娼売」という言葉を見つけ出した。戦前の社会を連想させる字面ですごく気に入っている。

生け贄にしても売春にしても、特殊な状況でないと使わない言葉だが、そういう言葉に限って汚らしい場合が少なくない。もし使うのが嫌だったら、多少苦労してでも言葉を探し出して言い方を変えた方が良いと思う。

とは言え、いざとなったときに言葉を探すのは骨が折れる。だから普段から面白い言葉に出会ったら。ストックしておくと良いと思う。他の人が書く文章と、自ずとちがってくること請け合いである。

【こんな本を書いています】


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