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「ヨコハマメリー学」への誘(いざな)い

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2018年12月12日発売の『白い孤影 ヨコハマメリー』(ちくま文庫)をより深く読み解く上でのヒントをまとめてみました。 宮崎駿の映画『風の谷のナウシカ』を論じた『ナウシカ論』… もっと読む
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#ヨコハマメリー

小説家・瀬名秀明氏による論文「港のマリー」を拝読する

100万部を売りさばいたホラー小説『パラサイトイブ』(1995年)で知られる小説家・瀬名秀明氏。第16代日本SF作家クラブ会長でもある同氏が、拙著を読み込んで論文をものにしているのを見つけた。 じつに1万4千700文字も費やして日本における「港のマリー」という文化現象について論じている。 当然ながらメリーさんにも光を当てており、じつに読み応えがある。 『白い孤影』は一般読者の読み違えが酷く、変に誤解されていると感じる。 たとえば、もし仮にメリーさんが平成の世の中に生まれ

ヨコハマメリーは日本版聖人クセーニャである

メリー伝説の受容をアカデミックに考えるずいぶん長い間メリーさんの伝説は、民俗学あるいは文化人類学的な観点からの分析が出来ると思っていた。とは言え、とっかかりとなる事例が見つからず、ながらく宿題となっていた。 しかしなにとはなしに観た「ゲンロンカフェ」のアーカイヴ配信のなかに、恰好の事例が見つかった。 番組の顔は、盲目の上歩行困難で字も読めなかったにも関わらず予言や助言で熱心な支持を集めた聖女マトローナだった。しかし同番組で紹介されたクセーニャ(Xenia) に大いに興味を

『ヨコハマメリー』は仏教説話の焼き直しである

いわゆるメリーさんの伝説と言われているもの。それは「老いた娼婦になってまで恋した米軍将校を待ちつづけた女」というものだ。 映画『ヨコハマメリー』公開当時は、彼女の生き様の部分に共感が寄せられていたと記憶している。しかし2018年からのリバイバル上映では一転。元次郎さんら周囲の人々との心の交流が観客の琴線に触れているようだ。これは「コミュニティー」という言葉がさかんにつかわれるようになったこの10年の世相の変化を反映しているのだろう。つまり人々のメリーさんに対する見方が変化し

「香港版ヨコハマメリー(『瑪麗皇后』)」について

メリーさんに関する拙ブログ【「消えた横浜娼婦たち」の事情】に詳しく書いたのですが、今年(2021年)の7月15日〜8月1日にかけて、香港版『ヨコハマメリー』が配信されました。 これは地元劇団の「糊塗戲班」がメリーさんの物語を舞台化した『瑪麗皇后』(2018年初演)を映像用にアレンジしたもので、『再遇瑪麗皇后』というタイトルです。日本からも視聴することが出来ました。 ▼『瑪麗皇后』(初演版/舞台版)の情報 ▲ダイジェスト動画 ▲稽古の様子 タイトルの「瑪麗」ですが、メ

民俗学からみたメリーさんと『白い孤影』

2020年の秋から始まった映画『ヨコハマメリー』リバイバル上映。年をまたいだ現在も全国各地で絶賛公開中のようです。 このタイミングで、いまもっとも知名度を誇るであろう民俗学者の畑中章宏さんに、メリーさんに関する原稿を依頼しました。 なぜ民俗学者だったのでしょうか。 拙著『白い孤影 ヨコハマメリー』を一読していただければ察しが付くでしょう。 僕は十代の頃、文化人類学者になりたいと思っていました。 文化人類学と民俗学はひじょうに近しい学問です。 畑中さんが指摘するように、拙著

映画「ヨコハマメリー」の適正とは言い難い撮影手法のこと

かつて映画界には破天荒な逸話がたくさんあったようだ。 世の中がコンプライアンスにがんじがらめにされた現在、監督も役者もプロデューサーも品行方正になったように思える。 しかし今でも「エシカル(*)」を屁とも思わぬ業界が存在している。 ドキュメンタリー映画業界だ。 *ウィキペディアによるエシカルの説明は以下の通り。 【エシカル(ethical)とは、「倫理的」「道徳上」という意味の形容詞である。 つまり、「法律などの縛りがなくても、みんなが正しい、公平だ、と思っていること」

メリーさんのイメージの変遷

 彼女が終戦後に愛する米軍将校と離ればなれになり、以来白塗りと純白のドレス姿で彼を待ちつづけた、という「神話」を表舞台に上げたのは脚本家の杉山義法である。 「本牧(あるいは鎌倉)の豪邸に住んでいる」 「子供がいて一緒に住んでいた時期がある。いまもその子のために立ちつづけている」 などという数ある噂のひとつに過ぎなかったものが、ドキュメント映画のヒットにより定説になってしまったのだ。 しかしこうなる以前は、彼女の伝説は刻々と変化をつづけていた。  街角の奇人…80年代初頭の「

メリーさんは「本当は」いつ娼婦になったのか

改めて基本的な部分を検証したい。 メリーさんはいつ娼婦になったのだろうか? 人の口に上る物語によるならば、それは終戦後すぐの段階だという。 しかし映画「ヨコハマメリー」や中村監督の本でも明らかにされているとおり(そして拙著『白い孤影』でも取材話を書いているが)、彼女の故郷は岡山県の山里である。 故郷に留まっていれば、食うには困らなかったはずだ。 岡山県北部の中核都市・津山辺りならばまだしも、彼女の故郷までは進駐軍も足を伸ばさない。 つまり彼ら相手の娼婦、当時のいい方で言う「

メリーさんは「本当は」なぜ立ちつづけていたのか、に関する考察

白いドレスを着たいわゆる「ヨコハマメリー」に関する考察です。  (しばらくの間、無料公開とします)  拙著『白い孤影 ヨコハマメリー』のなかで提示しているとおり、彼女の運命の相手である「米軍将校」はハマっ子の空想の産物だったと思います。  そもそも「アメリカの将校を待ちつづけている」という噂を彼女から直接聞いた人間はいませんし、確認した人間もいません。彼女が「将校を待ちつづけていた」と言われたのは、西洋かぶれしたドレスを着ていつも人待ち(客待ち)していたからでしょう。外

メリーさんの姿が伊勢佐木町から消えて、入れ替わりにゆずが登場した

メリーさんの姿が伊勢佐木町から消えて、街が様変わりした。 そんな風に書く人は多い。 では具体的にどんな風に変わったのだろうか? 先日あるブログに「メリーさんが消えた時期と、フォークデュオのゆずが伊勢佐木町の路上で注目されるようになった時期は重なっている」という記述を見かけた。 ゆずの結成は1996年3月。 同年、伊勢佐木町で歌い始めたという。 僕の調査では、メリーさんが帰郷したのは1996年11月である(前年に当たる95年に一時的に里帰りしたが、翌年戻ってしばらく横浜

それを新しい名で呼ぶならば(ヨコハマメリー=アウトサイダーアーチスト説再考)

●それを、新しい名で呼ぶならば 拙著『白い孤影 ヨコハマメリー』のなかで、「ヨコハマメリー=アウトサイダー・アーチスト説」という持論を提示した。 この見解に対して、アウトサイダーアートの研究者である甲南大学の服部正教授にコメントをお願いしている。 このコメント原稿だが、先生ご自身の手直しを経て学術媒体に掲載される流れとなった。  「メリーさんはアウトサイダー・アートか」(『心の危機と臨床の知』21号)甲南大学人間科学研究所 2020年3月20日発行 https://k

作家・北方謙三から見たヨコハマメリー

「有名人の目撃談が入ると、横浜の人たちとの心理的距離感が出来てしまう」という編集者の意向により、拙著『白い孤影』から削除された記述がある。 小説家の北方謙三のヨコハマメリー目撃談だ。 著名作家が語る、ヨコハマメリーのイメージとは? ●金魚みたいな服を着たお姉さん  北方謙三は、1992(平成4)年1月10日に東京の紀伊國屋ホールで講演会を行った。その際、こんなエピソードを披露している。 <僕の父親は船長で、1年のうち11ヶ月は外国航路についているような生活をしていました

谷崎潤一郎とメリーさんの関係性について記事化した意図

拙記事「ヨコハマメリーと文豪・谷崎潤一郎の点と線」ですが、ほとんど反応らしい反応がありません。 わずかに返ってきたそれは「根拠が薄い」というものです。 ここでなぜ僕がこの話を書いたのか、その意図をご説明します。 拙著『白い孤影』でやりたかったのは 1. メリーさんの物語を「横浜の物語」という縛りから解き放つ 2. メリー伝説の話の筋はそのままにして、意味を変える の二つでした。 「ヨコハマメリーと文豪・谷崎潤一郎の点と線」で意図したのは、1に関する部分です。 前作

ヨコハマメリーは文豪・谷崎潤一郎の「作品」だった!?

【期間限定無料公開中】  以下、『昭和の謎 99』 2019年初夏の号(ミリオン出版 )に寄稿した記事を転載したものです(新事実の発見により、一部の箇所を修正しています)。 従来のヨコハマメリー像からは導き出されないような予想外の内容ですが、皆様どうお考えになりますか?  皆様の御意見をお待ちしております。  なお無断転載や出典元を省略した引用は、著作権法で禁じられていますのでご留意下さい。  *2020年9月9日 タイトルを変更しました。元タイトルは「ヨコハマメリーと文豪