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「言葉のままならなさと向き合う――《一義性の時代》の文学にむけて」(『ゲンロンβ61』)掲載の経緯と補足

株式会社ゲンロンの電子書籍メディア『ゲンロンβ』に、「言葉のままならなさと向き合う――《一義性の時代》の文学にむけて」という50枚ほどの論考を載せてもらいました。いまは前半部のみ公開されています。ゲンロンのサイト「ゲンロンα」でも読むことができます。
https://genron-alpha.com/gb061_06/

本論考は、僕のほうから頼んで持ち込んだ原稿です。内容は、国語教育と文芸の言葉のありかたを同時代的な視線とともに捉えようとしたものです。以下、経緯と補足を書きたいと思います。

持ち込んだ経緯

 勤務先の紀要やインディー文芸誌『Witchenkare』やFINDERSの記事に書いていたこと、あるいは『文化系トークラジオLife』でも一瞬話したことですが、そもそもは、あの悪名高い新学習指導要領および大学入試改革が、実は、「合理的配慮」というどちらかと言えばリベラル的な議論から説明されうる、ということに気づいたのが本論考執筆のひとつのきっかけです。その後、『現代思想』(2019年5月号)と『すばる』(2019年7月号)でそれぞれ国語教育に関する特集が出たのですが、それらを読んでも、上記のような観点はまったく出ていなかったので、これは自分から発信しておかなければ、と思ったのでした。実際、「合理的配慮」と国語教育の関連は、教員免許講習で一瞬話題にされた程度のものなので、これらの議論をおもてに出せるのは自分くらいだろうという思いもありました。加えて、『現代思想』『すばる』では、新学習指導要領を批判するにあたって、けっこう安易に思える「文学」擁護がされていたとも感じました。それが、本論考で話題にしている「多義性擁護」です。これはこれで、以前『すばる』に書いた「新感覚系プロレタリア文学の現在」における「主題の積極性」の主張と共振するものがありました。
 ということで、教員業と文芸批評家という立場のクロスしたポイントから独自の批評態度を打ち出そうと思い、本論考に取り掛かりました。昨年、3月のことです。だから、この論考は当初、現在の文芸批評シーンに対してもっと挑発的なところがありました。例えば初稿には、掲載時点で削除した、次のような文言もあります。

このように文芸関係者や出版関係者のあいだで、中等教育・初等教育をナメる態度というのは、しばしば感じる。教育全体に対する軽視なのかもしれない。自由な言語芸術にとって、教育や学校は対抗すべきものということだろうか。エリート主義的であるうえに浅薄である。むしろ、そのような高踏的な態度が見落としているものはないだろうか。だったらいっそのこと、中高一貫校の教員という立場から文芸批評を始めよう。

 そのような態度のまま、実際に書き上げたのがたしか昨年の4月くらいだったでしょうか。すぐに信頼する某文芸誌の担当編集者に送り、数日後、返信をいただきました。担当の反応はかなり好意的なもので、「ぜひ載せたいから編集長にかけ合います」という内容でした。しかし、そこから難航。編集長には不評だったらしく「もう少し考えさせて欲しい」という編集長の意志が伝えられ、その後、半年くらいあとに「掲載できない」という結論になりました。このかん、担当には「どうなりましたか」というメールをしばしばしており、そのたびに担当からは「催促しているが返事がもらえない」という連絡をいただきました。板挟みにさせているようで、たいへん申し訳なかった思いです。掲載のためにかけ合ってくれた担当編集者には感謝しております。掲載できないこと自体も、雑誌の方針があると思うので、別にどうとも思いません。ただ、掲載なら掲載、ボツならボツで、早く結論が欲しいとは思いました。文芸誌における「塩漬け」の問題もしばしば話題にされることですが、それにあたるケースだったのかもしれません。
 さて、「掲載できない」理由ですが、本論考のリード文で東浩紀さんが仮の話として書かれていたような「文学がわかっていない」という一刀両断ではなかったです。こちらへの説明としては、①もともとの原稿の前段と後段の接続が不十分である、②教育の問題と自閉症の問題に紙幅を割かなければならず、そうすると文芸誌にはふさわしくない、③また、自閉症の取り扱いも難しい、といったものでした。くり返しますが、その方針自体は雑誌が決めればいいと思うので、そのこと自体にとくに不満もありません。ただ、この論考に関してはとくに、教育(および、教育にともなう発達障害)の話に紙幅を割いていることこそ独自の部分だと思っていたので、②の返事を見て、「そうなるとこれは文芸誌には持って行けないなあ」と思ったのでした。というか、文学をあらゆる文化の一部として捉えている/としてしか捉えていない自分としては、文芸以外に紙幅を割くことを制限されるのは、なかなか厳しいなと感じました。その意味では、広い意味で「文学をわかってない」と判断されうる「文学」観の相違があったのかもしれません。
 ということで、突然ではあったものの、ゲンロンにメールし、上記の経緯説明とともに「なにかしらの発表の機会はありませんか」という相談をしました。それは、ゲンロンという会社が幅広い議論の場を提供していることに対しての信頼があったからです。一度ボツになった原稿を持ち込みに行けるような場所があったことは、率直にありがたいと思いました。ゲンロンについては、自身のメディアとプラットフォームを持っていること自体がひとつの思想的な実践だとされますが、ごく単純に、オルタナティヴでいられる条件を自ら用意していることは大事だな、と思いました。
 その後、すぐに東浩紀さんから「なんらかのかたちで掲載しましょう」という内容の返事をいただきました。ただ、これは上記③にも関わることですが、やはり、自閉症のテーマをどのように扱うか、という懸念が一方で示され、具体的な修正の提案をいただきました。僕としては指摘はもっともだと思ったので、提案に沿うかたちで修正、結果、現在発表されているようなかたちになっています。修正前は、もう少し自閉症の問題は前景化したものでした。ちなみに、今回の一度だけのやりとりでしかありませんが、『ゲンロンβ』の編集体制は、たいへんきめ細やかで信頼のおけるものだったことを付記しておきます。とくにネットの言論においては、こういう下部構造の安定がとても重要だと思うからです。
掲載にあたっては、以下のようなリード文が付されました。





 編集部に矢野利裕氏から連絡があったのは昨年12月のことです。某大手文芸誌で掲載不可となった原稿を掲載できないかとのこと。一読して掲載を決め、細かい修正のやりとりをすることになりました。以下に掲載するのはその原稿です。前後篇に分けて掲載します。
 いまは言葉が文脈から切り離されるSNSの時代です。そのようななか、文学者からは言葉の「多義性」を擁護する議論ばかりが見られます。けれども矢野氏はむしろ、そこで切り捨てられた「一義性」の言葉のほうに、多様な読者に開かれる可能性があると指摘している。それはたんなるパラドックスではなく、教員でもあるご自身の実感に基づいた具体的な問題提起にもなっています。論旨は明快で、なぜこれが掲載を拒否されたのか、率直にいって理由がわかりません。もしこの原稿が「文学をわかっていない」ものだと捉えられたのだとすれば、まさにその態度こそが文学を貧しくしている元凶のように感じられます。
 読者のみなさんはどうお考えでしょうか。感想をお待ちしています。(編集長・東浩紀)



論考について補足

 以下、本論考についての補足です。大学院の途中くらいから、国民国家批判をパラフレーズするかたちでの教育批判に対して違和感をもつようになりました。もちろん、教育にはさまざまな問題点があるので、見直すべきことはたくさんあるでしょう。ただ、安易に矮小化したかたちでの批判があらゆる方向から飛び交っていると、さすがにもう少し議論を落ち着いたものにしたいと思ってしまいます。加えてここには、「破壊から制度化へ」あるいは「批判から構築へ」という個人的な志向も重ねられています。これは俺の退屈な性格なのか、それとも世代的なものもあるのか。フリージャズとともにあった68年、およびその延長のパンク的な破壊精神にはどこか共感できないところがあります。マルコム・マクラレン『Duck Rock』と同じ年に生まれたヒップホップ以降の自分は、マルコム的トリックスターに憧れつつ、同時に、破壊のあとの構築や制度への意志のほうに関心が向いています。だからこそ、教育にコミットしているという意識があります。
 国語教育に関して言えば、そもそも、いままで「教育の正解主義が文学の自由を抑圧する」という批判がずっとずっとくり返されてきました。大雑把に言うと「文学など学校で教えるものではない」という論調。この論調は、2010年代、謎に復権しているような印象も受けます。もっとも、国語教育の議論に現代思想/文学理論が導入されたときは、このとき言われる「文学の自由」それ自体が相対化されたので、「教育の正解主義」も「文学の自由」も、ともに異なる政治的力学から出力される《非‐自由》な読解である、といった見方がされたように思います。ここではむしろ、安易に「文学」「自由」を称揚することのほうが警戒された。
 しかし、ここ数年の新学習指導要領をめぐる議論においては、議論の相手が「実用的な文章」になったことによって、「教科書の文学」が相対的に「文学」としての価値を強めた印象があります。そこでなんとなくキーワードになったと思っているのが、本論考で問題にした《多義性》というものです。ここにおいて《多義性》は「自由」と同じような意味合いで捉えられるわけですが、意味が確定するさいにはさまざまな社会的な力関係が作用するのだから、素朴に《多義性》と言うことはできません。後編で参照する千葉雅也氏が言うように、それはせいぜい「準‐一義性」に過ぎないものです。
 そんなことを考えると、今回の新学習指導要領をめぐる議論において、文学の多義性を盾にして「実用的な文章」の一義性を批判する振る舞いは、どうにも批判が先だった雑な議論に見えてしまいます。ここまで積み上げられた国語教育の権力性を問う視座とかに対しては、どのように考えているのか。《反-文科省》というお題目が先にあって、そこから逆算的に擁護する内容が決められているような、そんな印象を受けました。とくに、今回批判的に言及した『現代思想』『すばる』『文学界』の教育特集を読んだときは、大半の文章にすごく《発注に応えている感》のようなものを感じました。具体的に誰のなにを指すのかは、ぜひ本論考を読んで欲しいです。自分からすると、それは端的に商売であって、本当に教育について考えをめぐらしたものではない。別に現場感覚があればいいというものではないけど、空気を読んで発注に応えているようなものに対しては、どうしても一言言いたくなってしまいます。
 ちなみに、文学研究/国語教育が専門の自分の先生にうかがったところ、「国語教育の研究の場では、文学的な《多義性》なんてワードはまず出ない」とのこと。「そもそも、1998年の《伝え合う力》の導入以来、ここまでの流れは既定路線なのだから、なにをいまさらガタガタ言っているのだ」と。これはこれで、リアリスティックな文学業界批判ですね。他方、現在の国語教育研究の主流はもっぱら認知理論であるとも言っていました。したがって、かつての権力論のような歴史的・社会的な視座から教育を問い直すような議論はなかなかない、と。これは、昨今の人文系の話題がケアのほうに移ってきている風潮とパラレルのようにも思いました。先生いわく「文学理論では発達の問題は語れなかったんだよね」と、これもたいへん興味深い問題提起だと思います。
 後半では、《一義性の時代》の文学のありかたを少し探ることになります。ぜひ、そちらのほうもお読みいただけたらと思います。ちなみに、前半部を公開したのち、文芸評論家の川本直さんから「三島由紀夫も一義的ではないか」という内容の私信をいただきました。思ってもみなかなったので、たいへん刺激的でした。併せて考えたいと思います。前半・後半、さまざまな意見があるかと思います。ご意見・ご批判・ご感想いただけたらと思います。


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