コロナ禍雑感~宇野維正・田中宗一郎『2010s』(新潮社)について

コロナ禍で明らかになったもの

コロナ禍によって明らかになったのは、非常時においては良くも悪くも国家の機能が強くなる、ということで、まあそれ自体は、国家や政治の定義そのものだと思います。このとき、国家の強い権力の介入(そこには、移動の制限も含むし、補償も含む)に対し、どのようなスタンスを取るかという点は、言論人のなかでも立場が分かれたように思います。というか、これまでこのあたりの問題が微妙にスルーされてきたと個人的に思っており、それがあらためて議論の俎上に乗った、という印象です。いずれにせよ、古典的な議論だとは思います。そのうえで印象を言うと、「とは言え、国家を運営するための権力発動すらまともにされず、政権の目先の保身ばかりで動いているので、国家をめぐる議論にもなりにくい」という感じです。東浩紀氏と外山恒一氏がゲンロンで対談をおこなっていたけど、ふたりは国家介入には徹頭徹尾反対なので、「移動の自由」「集会の自由」の制限に反対し、かつ、ライブハウスや演劇など文化サイドが公的補償を求める態度にも反対する。「国家の介入に反対」なので、論理的に当然そうなります。僕は、社会を存続させるために、権力に対する制限を担保したうえで一時的に「自由」の制限がおこなわれる、ということはありうることだと考えていますが、東・外山両氏ほど管理社会に対する危機感は正直なかったので、そこはあらためて考えるところではあります。もっとも、いわゆる「自粛警察」がありえないのは言うまでもない。ただ、僕自身はずっと「身体の近接性」を重要視してきたので、そこを無視したオンライン化を過剰に持ち上げるたぐいの議論には総じて批判的です。オルタナティヴなメディアとしてのインターネットは良いけど(とくに、みんなが群発的にネットラジオやネット番組を始めたこの感じは楽しいと思える)、リモートそれ自体が良いとは思えません。顔と体を付き合わせてこそでしょう、という古くて新しい考えが強くあります。この点は、今度は「集会の自由」「結社の自由」を求める東氏・外山氏的な立場に近づくので、そこでどのように自分の考えを練り上げていくか、ということになるでしょう。

さて、この国家の機能不全において、なにが起きているかと言えば、階級差(と言っていいのかわからないが)の顕在化です。つまり、結果的に、社会的に弱い立場の人の感染リスクが高まる、という傾向。コロナウイルスという人類共通の課題をまえにするからこそ、そこに対応するにあたって、社会的に立場の弱い者が守られなくなってきます。日本に来た留学生に対する補償制限とかも、本当にひどいじゃないですか。こういうところに、恣意的というか意図的な線引きがされるわけです。

文芸誌で書くこと

ところで、『群像』5月号に、宇野維正・田中宗一郎『2010s』(新潮社)の書評を書きました。音楽誌ではなく文芸誌でこの本の書評依頼が来たことは、とても良いことだと思います。単純に、書評の誌面が2600字ほど確保されている。これが例えば『ミュージックマガジン』だと、多くて1000~1200字といったところでしょう。600字くらいでも普通だと思います。一冊の本について、それなりに批評的に書くとすれば、やはり2000字以上は欲しいところです。文芸誌という権威を帯びた場所は、その権威を盾にしつつ一定の批評性を担保している、という捉えかたもできます。いまどき、2600字の誌面とン万円という原稿料が与えられる場所はあまりないでしょう。そのような下部構造が健全な議論の場を支えている、という捉えかたができます。だからこそ、もしその書評が内輪ホメに堕することがあれば、それが痛烈に批判されることになるわけです。高い原稿料が単なる既得権益に堕しているわけだから。

そのことを踏まえると、『2010s』について文芸誌から書評を依頼されるということは、なにより批評的な言語で本書を語る場が確保される、ということを意味しています。だから、これは僕の趣味的なこだわりでしかありませんが、あの『群像』での書評は、最初の約1000字で音楽誌向けとも言える内容紹介をし、後半の約1600字で批評的な介入をしました。僕の考えからすると、文芸誌で載せる意義は、後半1600字にあります。逆に音楽誌では、後半の内容は書けなかったです。

ということで、後半部はけっこう批判的(critic)に書いているのですが、これも昨今の批判=悪口のように捉えられると本当に不本意で、批判は深い対話や深い議論の第一歩だと思っています。実際、2010年代のカルチャーについて知るためには、『2010s』の網羅性は本当に貴重で、僕は映画やドラマにはたいへん疎いので、あの本を参照しながら、さしあたり映画を観て、聴き逃していた音楽も聴き直していました。また、2010年代における産業のサウス化の話(宇野氏)など、グローバル化のなかで産業がどのように変化をしているか、そのなかで日本はどうか、というところは非常に勉強になります。カルチャー界隈にありがちと言うべきか、単純に反グローバリゼーションを掲げるのではなく、グローバル化のなかでいかにカルチャーの灯をともしていくか、という問題意識は素晴らしいですよね。

『2010s』における2000年代の位置づけ

とは言え、問題があるとも思いました。『文学+』を読んでいるところでもあり、「批評」という言葉を濫用しますが、ひとつは「批評」に必須な歴史認識の問題。書評でも少し触れましたが、『2010s』はその本の構成上、「2010年代」を特権化するあまり「2000年代」の位置づけが曖昧に見えます。

例えば、本書では「2010年代のポップ・カルチャー全般における大々的な物語の隆盛というのは、この二次創作的というメカニズムが何より大きかったんじゃないか」(p.317、田中氏)、あるいは、「その新たなストーリーテリングの形式は、作家と作品、作品とファンという関係を再定義することで、相互のコミュニケーションのあり方をも更新させたと言えるかもしれない」(p.275、宇野氏)と論じられていますが、このユーザー参加型で「物語」が生成していくありかたは、典型的な(日本の)「ゼロ年代」の図式に見えます。電車男しかり。ケータイ小説しかり。その延長としての『マジすか学園』しかり。

また、本書は2010年代のサウス系のヒップホップについて、次のように指摘しています。

つまり、ソングライティングにおける複雑さではなく、音色やプロダクションにおける緻密さというアイデア。BPM50台から70台――テンポを極限まで落とし、1拍目にサブベースを配して、ディケイの短いTR-808のスネアとハット――特に細かいハットの刻みだよね。32で刻んだり、奇数で刻んだり、休符を意識したり――を組み合わせることによって、時間という横軸にも、音域という縦軸にも、意識的に「隙間」を作った。音色や音域という色パレットの中に「空間」という最強のカラーを持ち込んだ。(p.69田中氏)

これもサウンドの指摘としては間違っていないけど、しかし、これを革新的におこなったのは2000年代のドレー~ティンバランド、あとはネプチューンズあたりではなかったか。実際、長谷川町蔵・大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテス)では、上の田中氏とほぼ同様の指摘が、ティンバランドに対してされています。

長谷川 まずドクター・ドレーがすでに落としていたBPMをさらに落とした。BPMを90以下に落とすと緊張感を維持するのが難しいんですけど、その分32分音符のハイハットをアクセント的に入れて……
大和田 (ジャズとの類似を指摘しつつ――注・引用者)ビバップが成立するためにはこれがけっこう重要で、こうすることで最低限のグルーヴをライドでキープしながら、各楽器のソロのための隙間や空間を確保できるんですね。(pp.189-190)

田中氏が主張する「2010年代のサウスを中心としたプロデューサーたち」の「アイデア」は、引用部によると、①テンポを落とし②細かくハイハットで刻んで③「隙間」「空間」を作ること、ということになるが、このような革新性は2011年の時点ですでに、上記の長谷川氏・大和田氏によって、ほぼ同じ言葉で指摘されています(密輸入しているのか、と思わせるほど)。だからトラップのサウンドは、そのようなティンバランド以降のサウンドの延長にあると言うべきでしょう。逆に2010年代のサウンドを強調するのなら、むしろティンバランドとの差異こそが問われます。そうでないなら、「2010年代」であることを特権化すべきではない。加えて、本書では「特に2010年代に入ってラップはブラック・コミュニティの範疇を完全に超えた、メインストリームを代表するアートフォームになり、カルチャーになった」(宇野氏)とありますが、僕の感覚だと、これも2000年代についての指摘に見えます。90年代後半から2000年代、チャート上位にどんどんヒップホップが食い込んでいました。さらに、上記のサウンドの関係から考えると、サンプリング主体の音作りで黒人の歴史との連続性を示していたヒップホップは、2000年代以降のシンセ混じりのサウンドで黒人の歴史性を薄めていった印象です。その象徴が、書評にも書いたように、カニエ・ウエストによるダフト・パンクのサンプリングであり、ネプチューンズによるダフト・パンクのリミックスだと思います。リアルタイムでは、2000年代初頭からヒップホップが急激にエレクトロと融解していった印象がありました。ここは主観混じりでもありますがどうでしょう。僕はむしろ、そこから退避してソウルやディスコのほうに戻っていったクチだったので、あのときのことは印象に残っています。

「アイデンティティ・ポリティクス」をめぐって

以上のように、近過去との接続という点では疑問がありました。このあたりは、解釈の違いなので議論の余地があると思います。次。こちらのほうが、僕としては引っかかりました。

問題の根っこは同じです。すなわち、2010年代をどのように意味づけるのか、ということ。というのも、本書はくりかえし、「2010年代はアイデンティティ・ポリティクスの時代である」という立場を採っています。

2010年代というのは、かつての1960年代後半に――若者を中心とした意識改革の時代にも比する勢いの、アイデンティティ・ポリティクスの時代だったわけだけど、その皮切りは間違いなくジェンダー・ポリティクスだった。(p.28、田中氏)

2010年代はたしかに、ジェンダーの問題や人種問題が一般化し、そのような表現が多く見られたので、そのことを指して本書は「アイデンティティ・ポリティクスの時代」と言っているのだと思います。60年代のことにも触れているので、公民権運動やブラックパワー運動のことも視野に入っているのでしょう。しかし、この歴史認識も違うと思います。例えば、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)では、「差別を批判する言説」が「アイデンティティ」から「シティズンシップ」へと転換したことを指摘しています。したがって、かりに2010年代の特徴を言うのであれば、むしろ「シティズンシップの時代」と捉えるべきだったでしょう。

なぜ、そんなことにこだわるのか。それは、本書の後半、田中氏が『エンドゲーム』冒頭のナターシャ(ブラック・ウィドウ)を「疲れ切った人物のメタファー」としたうえで、「自分自身の目の前にあるローカル・イシューの解決に懸命になるあまり、それが見えなくなっている」と言っているからです(p.255)。ここで田中氏は、「マイノリティの問題にしろ、移民の問題にしろ、誰もがより切実な問題」ーーすなわち「アイデンティティ」をめぐる問題を「ローカル・イシュー」と呼びます。そして、そのうえで、「ローカル・イシュー」に向き合うがあまり、「気候変動」のような「グローバル・イシュー」が忘れられていることを、葛藤を含みながら批判しています。しかし、公民権運動から現在まで育まれた「アイデンティティ・ポリティクス」とはむしろ、そのような個人の痛みを代替不可能なものとして見つめる態度ではないか。だとすれば、アイデンティティをめぐる問題を「ローカル・イシュー」と言い換えたうえで、「グローバル」な大義のまえにこれを軽視しようとする振る舞いは見過ごせない。

さらに言うと、本書において田中氏は、ツイッターでエゴサーチをして、ネット上の取るに足らない軽口を取り上げつつ、それを一般化するかたちで、「誰もが何かしらの立場に立って、自分自身のアイデンティティを主張し、全体が全体性を何かしら獲得するみたいなことよりも、自分自身のアイデンティティを社会の中で、コミュニティの中で担保することに必死だという」と言います(pp330-331)。(僕は、ネット上の軽口を「アイデンティティ・ポリティクス」の話題につなげること自体に違和感がありますが、まあそれはそれとして)この「全体性」を盾にした「アイデンティティ」批判こそ、綿野氏『「差別はいけない」とみんないうけれど。』で書かれた、「シティズンシップの立場」からブラックパワー運動を批判した図式(p.46)に他なりません。田中氏は、同じ論理でかつてのブラックパワー運動も批判するのでしょうか。これは単純に質問してみたいところですね。

田中氏の立場では、2010年代は最初こそ「アイデンティティ・ポリティクス」の表現が良い感じで出されていたが、2019年には誰もが「アイデンティティ」を叫び、「全体性」が失われてしまった、ということでしょうか。しかし、「アイデンティティ・ポリティクス」はそもそも、論理的あるいは歴史的に「シティズンシップ」的なありかたとぶつかるものであり、「批評」の立場で考えるのなら、その葛藤や逆説をいかに粘り強く考えるか、ということが重要になります。2010年代を「アイデンティティ・ポリティクスの時代」とまとめてしまうと、このような葛藤や逆説は見えにくくなるでしょう。本書においては、時代が変われば自動的にイシューが変わるかのような印象さえ受けますが、実際には、人種問題にしてもジェンダー問題にしても、半世紀以上にわたる「アイデンティティ」をめぐる闘争が続けられてきたからこそ、そういった問題が一般化しているわけです。だとすれば、このような問題を「気候変動はグローバルだから優先すべきなのだ」というかたちで解消する振る舞いには、個々の苦しみを無化するような危うさを感じます。田中氏は「気候変動というイシューの前で、国家の対立とか、イデオロギーの対立とか民族の対立とか宗教の対立とか関係ないし、みたいな(笑)。気候変動以上の時代のテーマなんてないんだから」と、冗談混じりに言っています。それが、人類半分を消し去ったサノス的な振る舞いと類似的であるということは、書評に書いたとおりです。

COVID-19という「グローバル・イシュー」

さて、「グローバル」なイシューは、本当に「ローカル・イシュー」より優先されるべきなのでしょうか。目下、「グローバル・イシュー」と言えば、新型コロナウイルス/COVID-19に他ならないでしょう。しかし、この状況下で起こっていることは、例えばアメリカにおいては、外で働かざるをえない黒人のほうが感染率が高い、といったような事態だし、日本では、朝鮮学校にはマスクが配布されない(のちに配布を決定)、といった事態です。最初のほうに書いたように、「コロナウイルスという人類共通の課題をまえにするからこそ、そこに対応するにあたって、社会的に立場の弱い者が守られなくなってきます」。コロナ禍の現在、リアルタイムで目撃していることは、「グローバル」な危機が訪れたときこそ、田中氏が言うところの「ローカル・イシュー」がむき出しになるという事態です。加えて言うなら、「アイデンティティ・ポリティクス」が真に問われるのは、このあとの段階でしょう。

田中氏が問題にするような分断状況や「アイデンティティ・ポリティクス」へのフリーライドとも思える振る舞いに対しては、個別のケースのおいては、僕も似たようなことを思います。その意味で、田中氏および本書の問題意識は共有しているつもりです。しかし、それをセンセーショナルな煽りで疑似解決することには、かりにも「批評家」を名乗る者として反対です。そうやって分かった/解決できたつもりにさせる文章のありかたもあるのかもしれませんが、「批評」は、もう少し厄介な葛藤や逆説に向き合うものだと思います。ゆえに「批評」としては、本書に対して全面的に肯定ということはありません。皮肉でなく悪い本ではないと思ったうえで。

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