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バトルでない可能性——つやちゃん『わたしはラップをやることに決めた』を読んで

 日本のフィメールラッパーについて論じた、つやちゃん『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)が、とくにいまの自分にとっては大事な本だと思いました。それは、個々の分析以上に(個々の記号分析的な議論については、自分と意見が違うものもありました)、フィメールラッパーを日本語ラップ史のうえで記述し整理する、という主題が貫徹されている点においてです。詳細なディスクレヴューもその主題の延長に見出されるべきでしょう。さらに言えば、その主題のなかでちゃんみなとつなげられるかたちで加藤ミリヤなんかが取り上げられているのも素晴らしいです。
 本書では、男女二元論の限界も問題性も踏まえたうえでなお、「フィメールラッパー」という言葉で、日本語ラップにおける女性について論じきっています(もちろん、男女二元論的な態度に対する批判もありうるのでしょうが、僕は著者の態度を支持しています)。そこにあるのは、「そもそもの男女の二項対立を崩して論じ」るのも「まだ早すぎる」という、日本語ラップがいまだ男性中心主義的である、という現状認識です。このような認識のもとフィメールラッパーが取り上げられ、本書では、《言葉が与えられない者が言葉を獲得する》という主題が見出されることになります。この主題が僕自身の関心と重なる大事なものであり、かつ、その主題こそ僕がヒップホップを通じて見出したものであるならば、これはやはり、ヒップホップの大事ないとなみだと思いました。以上のことは、『ミュージックマガジン』(2022年4月号)のレヴューで書いたことです。
 さて、『わたしはラップをやることに決めた』を読んで(ふたたび、いや、みたび)考えてしまったことは、批評とジェンダーをめぐる問題についてです。本書のなかで、COMA-CHIの次のような言葉が引用されています(孫引きです)。

 当時バトルに出ていた時は、勝って世に名前を知らしめたくて参加していたんですが、やっぱり相手をディスる(攻撃する)という行為があんまり好きになれず自分には合わなかったので長続きしませんでした。

 このことについて、つやちゃんは「男性中心のヒップホップシーンにおいて、自身が注目を集める手段がバトルで名をあげるしかなかったことを示している」と指摘しています。フリースタイルバトルは、キャリアや人種、ジェンダーにかかわらず、およそほぼすべてのラッパーに開かれたものであり、その意味ではいちおうは民主的な制度と言えます。とくに中高生がラップ的な言語を獲得しているのを見るにつけ、その意義は大きいと感じています。その一方で、それでもなお、「ディスる」という「攻撃」の振る舞いになじめない、という感覚も無視できないところがあります。
 その意味で、本書においてフィメールラッパーについて語ることは、「一席しかない女王の座に対して様々なラッパーがしのぎを削」る、という「殺伐としたエンタメ性」を再演することではありません。むしろ、その闘争の原理自体を《男性》的なものとして批判的に見つめる態度が根底に抱えられているのです。本書は、日本語ラップ史をフィメールラップを中心に再編成することを試みていると思いますが、見るべきはむしろ、その闘争的な態度それ自体に対する葛藤のなかで書き進められていることだと思いました。このあたりは勝手な思い入れかもしれませんが。
 さて、(文芸)批評はどうでしょうか。とりわけ最近そう思っているだけなのかもしれませんが、個人的にはもううんざりなんですよね、言葉ばかり威勢よく書き連ねられているようなものは。もちろん、内輪で褒め合っている必要もないでしょう。批判すべきものにはしっかりと批判をすべきだと思います。ただ、やはり、その根底にある種の信頼関係や相手への期待や思いやり(←という野暮ったい言葉しか思いつきませんでした)が見出せないならば、そこにどれほどの意味があるのか、というごく普通のことを最近感じています。目立ちたいだけの物言いも安易な内輪褒めも、相手に対する信頼が欠けているという意味では両方ダメではないか。
 ヒップホップになぞらえるなら、ツイギーが言っていたことを思い出します。

 HIP HOPはそういうコンペティションな部分があるじゃん。すごくバトルな側面というかさ。だけど、俺が見ていたところ、一番最初に感じた部分はそこじゃないんだよ。バトル一辺倒なものではないというか。そっちの部分の方が俺の中では大きかった。
 そっちの部分というのはなにか? それは…………ユナイトでしょ。(『十六小節』)

 ヒップホップは不思議なところがあります。口汚く罵っている相手に対しても、ラップをしているという一点において「ユナイト」している。この「ユナイト」の感覚が共有できていれば、バトルといえども確認し合っているのはピースに他なりません。もともと、暴力行為をなくすために始まったという話もあるくらいですし。ただ一方で、言葉は好き勝手に飛散していくので、演劇的に吐いた言葉に傷ついたり傷つけられたりすることもあるでしょう。「ユナイト」の感覚が共有できなければ、なおさら。
 傷つく/傷つけることが、即悪いことだとは思いません。むしろ、傷つけを過剰に遠ざけることのほうが、結果的に、大きな暴力を容認することになりそうです。なんとなれば人間同士のコミュニケーションなのだから、傷つき合ったり助け合ったりしながら、互いに悲しみと喜びを共有することが大事だと思います。多くの人が少なからず日々そのようなコミュニケーションをしているとは思いますが、そのコミュニケーションとて、対人関係がリスク管理のいち領域となってしまったような現在の社会では、難しいことなのかもしれません。
 そんな現在、文芸批評に限らずライターと呼ばれる領域まで含めて、批評的言説を眺めていると、ふた通りの傾向を感じます。まずは、①地雷を踏まないように誰かが言ったようなことを追認する傾向。この傾向は逆に、誰かが地雷を踏んだ人に攻撃を始めるとその攻撃を無批判に追認する振る舞いにもつながっているような印象です。ふたつめは、①への反動もあるのか、②世間の良識が抱える問題性・危険性を指摘し、ラディカルに振る舞う傾向。これは、必然的に語り口も攻撃的になりがちです。かなり大雑把な傾向を言っていますが。
 批評の批評たる強さは、基本的に②のほうにあると思います。自分が勇気づけられた文章というのもやはり、自分も含めた周囲の当たりまえを突き崩すようなものでした。しかし、最近どうにも厄介に思ってしまうのは、自分が②のありかたにすらうんざりしていることです。②を声高に主張する《私》の、その強い自我のようなもの、その自我こそをしんどく思うようになってきました。具体的には、先行的な意見を否定しながら自分の意見を押し出すようなプロセス。トークイベントやトーク番組で自分の考えを言うために、相手を制してしまった瞬間。もう少し言うと、もっと切実かつ具体的に、自分が守りたい人のために特定の人を明確に攻撃したこともありました(これはまた別水準の話ですが。誇り高くいるべきと思いながらもやりきれない)。なにか考えを述べるときにその根拠となる《私》の存在が、どうにもはしたなく思えて嫌になってきます。結局、自分は目立ちたいだけではないか、と。
 それなりに時間を重ねて見知った相手ならば、批判を交えた意見交換も大事だと納得できるのですが、そうでないと、なんともしんどくなります。例えば、いくら必要だと思ったとはいえ、顔も知らない交流もない人を批判することについてどのように考えたらいいのか。トークイベントなどで初めて会った人に異論をぶつけることをどのように考えたらいいのか。ましてや、ジェンダーの話に引きつけるなら、それが、「大きい声を出せる」という《男性》の身体的条件のなかでおこなわれていると考えると、いよいよどう考えたらいいのか。もっとも、僕に限らず(俺はそんなでもないと思っているが)、議論しているうちに感情的になって、つい大声になってしまったり威嚇的な態度になってしまったり、ということも、どうしようもなくその人の特徴だから、これを《男性》性の名のもとに一元的に封じ込めてしまうことがひとつのモードになってしまっているとしたら、それも良くないことだと思います。基本的に大事なことは、さまざまな立場の人がさまざまな意見を言い合えることだと思います。その「ユナイト」の感覚さえしっかりと結ばれていればいい、とは思います。異論も批判も基本的には普通のコミュニケーションとしてあったほうがいいでしょう。
 ただ、そこに《批評》というワードがくっつくと、形式としての②の振る舞いが少なからず召喚される気がします。ゼロ年代のトークの現場でよく見かけた議論テクニックは次のようなものです。なにか反論めいたことを主張して、少し間を置く。それに対して相手がなにか応答なり反論なりをしようとすると、その相手の話しはじめのタイミングを狙って、また反論を重ねていく。そうやって、相手の意見を物理的に封じ込めて議論の場を制圧していくようなありかたをしばしば見かけました。無意識的に伝承されているテクニックなんだろうな、と思いました。
 そういう論客としての《強さ》に憧れないこともありませんが、よく考えると、自分が本当に大切に思っていることはそういうことではないとも思います。ただ、そのような論客的な《強さ》がないと、そもそも話を聞いてくれない人もいる、という現実もあるような気がします。だとすれば、そういう大義のためにやはり細かなバトルを勝ち抜いていく必要があるのか、とか。カメラや観客を振り向かせるような「野面」(いとうせいこう)の《強さ》が必要なのか、とか。そういうことをいろいろと考えていると、ジェンダーの違いはあれど、つやちゃんのCO-MACHI論にとても勇気づけられる思いでした。
 いちおう結論としては、《批評》なんていういとなみは、お互いに言いたいことを言って、批判されるときは批判されるものなのだから、そのことに耐えられないなら退場しろ、ということでしょう。あるいは、《批評》のシーンでの闘争に勝てないのだったら淘汰されろ、ということでしょう。そうですね、耐えられなくなったり意義が見出せなくなったりしたら、《批評》シーンからは退場したいと思います。そして、何週かまわって、その「バトル」のありかたがやはり健全なようにも思います、わからないけど。そのときはすがすがしく淘汰されよう。結局、こんなことに思い悩む時点で、芸能人の器ではないように批評家としての器ではなかったのだ、とも思っています。若い人もいろいろ出てきたし本業も忙しくなってきたし、そろそろ潮時かな。ただ、もう少し、自分なりに《批評》の名のもとでやりたいことがあるので、その舞台に上がっている限りは殴られる態勢はできているつもりです。あと、相手を制圧する方向ではないトークのありかたも探りたいと思います。
 ただ、くり返し言うと、《批評》という振る舞いとして威勢が良いだけの人は、現時点ではうんざりですね。薄々感じていたけど、そのことを明確に感じたのは、やはり渡部直己の件が大きかったのかもしれません。あの件が起こったとき、当時、僕は自分のブログでいろいろ思うところを書きましたが、それとは別に、②のようなありかたを再考する大きなきっかけになった気がします。批評のありかたの問題をジェンダーの問題に本質化する気はありませんし、渡部の件を象徴化しすぎることもありませんが、自分のなかでは、批評に内在する問題が男‐女および教員‐生徒という関係性をともなって顕在化した、という捉えかた(物語化)をしています。
 おまけで言うと、自分のブログ記事はある種の流行に乗るかたちで反響も大きく、ありがたい感想ももらいましたが、その一方で、ネット上でちらほら批判ももらいました。スガ秀実による「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち――ケーススタディ」(『G-W-G』2019)は、それまでのスガの問題意識からしても筋の通った、さらに社会分析としていまなおアクチュアルなものだと思いますが、そのスガからは、ネット上で、なんとなく匂わせのようなかたちでの嫌味を言われた気がします。威勢がいいばかりで真意もよくわからず自分のことかもわからないのでスルーですが、少しモヤモヤが残るので書いておきます。
 つやちゃんのCO-MACHI論を読んで、「バトル」でないかたちでのシーンの熟成がどのようにありうるか/ありえないか、ということを考えてしまいました。これは遠くのほうで、マルクス主義的な階級闘争をどう考えるか、という問題ともつながりますが、それはまたあらためて。あとは、批評における「内省」(柄谷行人)の問題も考えられていないので、これもあらためて。でもやっぱり、なにかを考えて、自分の名前で文章に書いて、読まれる、ということ自体が、どこかはしたなく、間違った行為なのだ、という気持ちが出てきてしまっています。どうなんでしょうね。

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