ブッダがやってたやり方の瞑想を1mmかじって感じたこと
来週ブッダの生涯と思想について発表するイベントに登壇するので、絶賛ブッダ勉強中の私です。
鈴木雅之をBGMでかけながら勉強しています。どうでもいいことですが。
その派生として、ブッダがやっていたと言われている瞑想方法「ヴィパッサナー瞑想」というものをちょっと調べてみたんですね。
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超ざっくり説明すると、「体感したことをひとつひとつ言葉にする」という方法です。
この瞑想はいわゆる座禅を組むことに限らずに、「歩く瞑想」とか「食べる瞑想」とかどんなでもいいっぽいんです。
「歩く瞑想」だったら、右足が着地したと感じたなら「右足」と心の中で言語化するとか、体重が掛かったと感じたなら「右足に圧」と言語化するとか、そんな感じらしいです。
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本も買ったもののめんどくさくて数ページしか読んでないんですが、とにかくまず実践してみることにしたんですね。
部屋から出たくなかったので、「目を閉じて深呼吸する瞑想」をやることにして。
そこでめちゃめちゃ気づいたことがあるんですが、僕、というか恐らく僕ら人間って「思った以上に視覚による認識のバイアスに支配されている」んです。
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どういうことかと言うと、例えば深く息を吸ったとき、体感のみに頼ると「(お腹らへんが)張っている」という表現のみになったんですが、それとは別に勝手に脳がお腹が膨れているビジョンを描いてしまうんです。
息を吐いたときだと「(腹筋が)固くなる」という体感なのですが、お腹が凹んでいくビジョンを描いてしまう。
吐いた息が喉を通るとき「あったかい」と感じるだけなのに、肺から気管を通って口から出るビジョンを描いてしまう。
これは他の色んな動作についてもすべて言えることで、目をつぶって何か動作をすると脳のビジョンが体感の邪魔をするんです。
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まぁ、「だから何?」って言われると、「いやまぁ別に…」って感じなんですが、個人的にはこれに気づけたことは面白いことだなぁと思ったんです。
「脳が勝手にビジョンを描くことから解放されたらどうなるんだろう?」という興味がいまモリモリと湧いています。
だからあれですよね、生まれつき目が見えない方の感覚ってそのバイアスに囚われていないわけで、彼らの感覚を学んでみたいっていうことです。
それを知って何が得られるかは知りませんけど。
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というわけで、意味があるかどうかはわかりませんけど、やってみると結構面白いので、「目をつぶって何か動作をしたときに体感のみを言葉にする」ということを試しにちょっとやってみてください。
あ、あと、来週の僕が登壇するイベントもよかったら参加してください。
▼イベントページ
https://peatix.com/event/1931738
どうぞよろしく。
(おわり)
もしめちゃめちゃ満足して頂けるようなことがあれば!